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二人は何の話をしているのだろうか。聞きかじったところでは、どうやらこの女性が七年前に石田君の内臓を壺に入れ、そのおかげでユリちゃんは生活できていて……七年前に内臓を抜かれた石田君は限界で、目玉をとられたら死んでしまった……?
なんだそれ? 内臓を抜かれて七年も生きていられるわけがない。それに、壺に入れたってどういうこと? はぁ、また頭が痛くなってきそう。
がっくりと首を下に向けた。そこに、すっかり忘れていた缶ジュースは倒れていた。
缶ジュースは、私に気付かれたとわかったように、急に転がりだす。
二人は変わらず取っ組み合い、ののしり合っている。私のことなど忘れているだろう。
足のよくなった私はそっと立ち上がると、ひとりでに転がる缶の後を追った。缶は先ほどの皆が出て行った障子の前で止まる。それを拾って、私は外へ出た。
ふり返り、和室の中を見れば、やっぱり石田君の布団はそこにあって、女性とユリちゃんは二人で上になったり下になったり交互にしながら、もめている。
それを確かめた私は、障子を静かに閉めた。
障子と窓に挟まれた薄暗く長い廊下は、右に行くべきか左に行くべきか、見当もつかない。キョロキョロしていると、左手の遠く先に人影があった。きっと、数珠を回していた人が残っていたのだと思う。
その人を見失わないように、いそいそとついて行く。その人も歩いているのだろうが、一向に距離は縮まらない。それでも一心不乱に歩いていたら、気付けば玄関の外に出た。
辺りは家を出た時と同じ、深夜のまっくら闇で、人は誰もいない。
はぁはぁと荒く息をしていたら、外気の、春になりかけの空気と匂いを感じ、だんだん落ち着いてきた。
私は後ろも見ずに、もと来た坂道を必死に上る。
マンションの明かりが見えた。もう大丈夫。上着のポケットの左右を上からさわる。家の鍵と財布はちゃんとある。大丈夫、大丈夫……
マンションの入り口まで来た。うつむきながらポケットをさわり続ける私の目に、その人の革靴は急に飛び込んできた。はっと息をのんで、視線を上げる。
やっぱり、あの人だった。
「いっ、い、石田君……! どうして……」
自販機前であった時と変わらない、スーツ姿の石田宏樹が立っている。
「立山さん、ごめんね。迷惑かけちゃったみたいで……話せば長くなるし、まぁ、話せないことがほとんどなんだけど」
石田君は力なく笑い、頭をポリポリかいた。
「えっ、あの……今、私ね、ユリちゃんのところで石田君のお葬式? に出たはずで……えっ、石田君、死んだ、と思ったんだけど……」
「あぁ、うん。そうそう。肉体はもう無いし、死亡届とか出されちゃってるから、社会的にも死んだよね。これからは壺の中が中心になるけど、たまにはこっちに来るかも……いや、やっぱり来れないかもな。ユリとかうるさいし、ちょっと来たくないかも」
もてあますように手を動かしさわる石田君は、とても幽霊などには見えない。
「壺の中って、ユリちゃんと女の人がケンカしてたけど……えっ、壺の中に石田君の内臓とか眼球とか、血液とか、入ってるの? それで、これからは壺の中で生きていくってこと?」
「うーん、まぁそんな感じかな。立山さんは壺中の天って言葉、知ってる? あれは本当のことなんだよ。壺は一人に一つ、それは奥の奥の奥底では繋がっていて、そこまで潜ればいつでも会えるんだ。僕はもう疲れたよ。だから、しばらく壺の中でおとなしくしておく。立山さんに聞いてもらったら、なんか気が楽になったな」
首を左右にパキパキ鳴らした石田君は、ふーんと伸びをする。
「壺中の天? うん、調べてみる。じゃぁ、石田君はとりあえず死んでいて、これからは壺の中で新生活ということか……あっ、そうだ。よかったら、これ持っていって。餞別とさっきのティッシュのお礼に」
私は握りしめていた百円の缶ジュースを差し出した。
正直、石田君が何を言っているのかわからない。わからないし、狐につままれたというか、現在進行形でずっと騙されているようですっきりしなくて、癪に障る。
そもそも欲しかったわけでない謎の缶ジュースはもう冷たくないし、こんなことがあって飲みたくもないから、ぶっちゃけ、さっさと持ち去ってもらいたい。
言葉とは裏腹に、私には餞別とかお礼の気持ちは一つもなかった。むしろ、軽い嫌がらせである。
「ありがとう。実はあの時、コーラ買ったときさ、なんかわからないけど、俺、見栄張ってコーラ選んだんだよね。本当はこっちのジュースの方が好きなんだ。最後にこれをもらえるのは嬉しいよ。ありがとう」
「そう、なんだ。よかった」
確かに石田君は嬉しそうだ。ちょっとだけ罪悪感はわく。
「じゃあ、俺そろそろ行かないと。本当、ありがとう」
にっこり微笑んで、石田君は頭を下げた。
「い、いいえ、そんな……お元気で。それじゃあ」
私は軽く片手を上げた。
「うん、それじゃあ」
石田君も軽く手を振って、こちらに背を向けると歩いて行った。
私も歩き出し、マンション入り口の階段を三段上って振り返って見る。だが、彼の姿はもうどこにもなかった。
そのまま散々確かめた鍵でエントランスを通り、エレベーターに乗ってまぶしい通路を抜け、私は家へ帰りついた。
静かに玄関ドアを開ければ、変わらない父と母の大きな寝息は聞こえ、すっかり安心したようになる。慣れ過ぎた自室に戻り上着を脱いで、布団に潜り込んだ。
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