"好き"がもたらすこと

もな

第1話

ぴぴぴ、ぴぴぴ。

無機質なアラームを手探りで止めて、薄く開いた目をそのまま閉じ直した。

今日は平日だから、今の時間は六時半。私の経験上、あと三十分くらい眠っても、走れば全然電車に乗れる、…ただし本来乗りたい電車(余裕で学校に到着出来る)は一本逃すし、コンタクトを付ける時間もないから眼鏡だし、朝ご飯も食べられないけど。

でもそんなことよりも今はもっと寝たい、眠い、ギリギリで生きていたい。昨日の就寝時間はこれでも二十二時だ。

毎日毎日、特にこの朝の起き抜けの時間は、食欲よりも睡眠欲が強い。三大欲求が一大欲求に変わる勢いだし、プロレスなら一発KOで睡眠欲の圧勝、プロレスよく知らないけど。

とにかく、食欲はもっと私が起き上がりたくなるように頑張った方がいい。

ドンドン、ドンドン。

布団にくるまってグダグダしてると、ドアをノックする音が四回。

「空、起きな!初日くらいしっかりしなさい」

ドアが開く音と一緒に、ハキハキとした母さんの声が耳に入る。私と違って朝から元気いっぱい、私にも分けてその元気。

いつもなら態々起こしになんて来ないのにと思ったが、なるほど確かに今日は一学期一日目、それも高校最後の一学期だ。

何事も、初めが肝心って言うもんなぁ。

仕方ない、せっかく母さんも声を掛けに来てくれたんだし、今日は頑張って起き上がりますか。

「う…」

気合いを入れたはずの第一声はほぼ呻き声だったけど、布団の中のダンゴムシ状態から、二足歩行の人間になれただけ偉いということにする。母さんにおはようって言うつもりだったんだけど、母音すらあってないね。

スマホを開くと六時四十分。いつもより二十分も早い目覚めである。

リビングに降りると丁度、テレビのお姉さんが星座占いの発表中だった。私は十二位、残念。

トースト一枚が焼けるまで延々船を漕いでいると、チン!と焼き上がりの合図に起こされた。うげ、ちょっと焦げてる。

「いただきます…」

まだ全然眠そうな私の声はガサガサのザラザラ、でも呻き声よりは多少マシ。

焦げててもバターを付ければ結構美味しいから、トーストってすごい。耳の部分はいつの間にか母さんが用意してくれたコーンスープに浸して食べた、これも美味しい。

そんなこんなで一枚食べるのにえらく時間を使っていたら、電車出発十分前(学校に余裕で着けるほうね)。結局急いで支度をする羽目になり、洗面所と自室をドタバタ行ったり来たりして、最後に眼鏡を引っ掴んで、お母さんの呆れ声を背に家を出る。電車が出発するまであと三分だ。

徒歩五分の最寄り駅、走れば行ける、頼むから信号に引っかかりませんように。

ローファーで走るのも高校三年目にもなると慣れたもので、靴底がアスファルトを蹴飛ばす音を軽快に鳴らしながら私は猛ダッシュ。

ジャストタイミングで青信号になった横断歩道を、同じく歩道を渡るサラリーマンさんを驚かせたりしながら駆け抜ける。ごめんなさい驚かせちゃって、でも今はそんなの気にしてる場合じゃない。

バッグのショルダー部分に付けたICカードを改札に叩きつけ、駅内のアナウンスに駆られながらなんとか車内にゴールイン。その後すぐにプシューッと音を立てて扉が閉まったので、あと数秒遅かったら挟まれてた、危ない、危ない。

座席の横っちょに身体を預けてやっと一息。座っていたらそのまま寝落ちて、ここから東京までのプチ旅行をしてしまったことがあるからそれ以来車内では座らないようにしている。ふと目が覚めたら見える景色が、よく見知った立ち並ぶ木々から、見慣れないギラギラの高層ビルに変わってた時は流石に驚いたもんなぁ。

走ったせいで爆発した前髪を指で適当に梳いてスマホのカメラで確認、寝癖はないからまぁいいか。片手じゃ隠しきれないくらい豪快なあくびが出て、目尻がぼんやり霞む。今なら立ったままでも寝れそうだ。

耳を引っ張ったり、頬を抓ったりしてなんとか目を覚まそうとしている間に乗り換えの駅に電車が停止した。色んな車線が通るこの駅は、私以外にもたくさんの人が下車していく。同じ制服の知らない子、他校の可愛い制服の子、カジュアルでふんわり綺麗なお姉さん、疲れ顔のOLさん、その他スーツの人が多数。人混みに攫われそうになりながら私も何とか電車を降りて、歩くのが面倒だから、慌ただしく階段を下っていく人を横目に、エスカレーターに足を進めた。

さっきよりも幾分丁寧にICカードを改札に押し付け、次乗る電車のホームまでてくてく進む。

「そら〜!」

離れたところから私の名前を呼ぶ声が聞こえて、一体誰かと思ったら、高一の時から同じクラスの橘さんだった。バッグについたでかい兎のストラップのおかげで、一目瞭然で彼女と分かる。ぶんぶん腕を振りながらこちらまで近付いてくるので、私は少し立ち止まった。

「おはよう、そら」

「結花ちゃん。おはよう」

「今日早くない?いつももっと遅いでしょ」

「母さんに起こされたから、頑張った。初日が肝心でしょ」

「確かに、二年の時も初日はこの時間に来てたよね」

「よく覚えてるね」

まぁね、と彼女は得意げ。でも初めだけ頑張ってもなぁと今度は苦笑い。なんで起きれないの?と聞かれて、どうしたって無理と私が答えた時と同じ顔だ。たぶん、理解できないなって顔。明言しないのは彼女の優しさ。

「今日でクラス替えだねぇ、何組がいい?」

「どこでもいいかな。結花ちゃんは」

「そらと同じクラス!て言いたいところだけど、私は四組から六組のどこかって確定してるからなぁ」

「理系だもんね」

三年になると、一から三が文系選択、四から六が理系選択と、進路に合わせてクラスが分断されてしまう。数学の成績が一生低空飛行だった私は文系一択で、反対に彼女は歴史がてんでダメみたいで、渋々ながら文系の道を諦めていた。「そらと同じが良かった!」と騒いでいたのが記憶に新しい。

「ま、なるだけ近くのクラスが良いから四組希望だね。仲良い子いるといいなぁ」

「あんたなら誰とでもやってけるし、大丈夫じゃないの」

「買い被りすぎー、初めましての人はこれでも緊張するんだよ?」

「そうは見えないけど…初めて私に話しかけてきた時とか、突風みたいだったよ」

「なんでも良いから話すぞ!って慌ててただけだよそれ」

なるほど、私とは逆なわけだ。

そんな会話をしていたらあっという間にホームに着いて、なんなら電車も到着済みだった。

「ドアが閉まります、ご注意ください。ドアが閉まります…」

駅員さんのアナウンスに、小走りで電車の中に飛び込む。またしてもその直後プシューッとドアが閉まる音がして、ゆっくり歩きすぎたなと冷や汗。橘さんも危なかったと一息。ここから二駅、そのあと十分も歩けば学校で、おそらく元自分の教室に、新しいクラスが貼り出されているだろう。一体何組になるんだか。

学校に到着すると、橘さんがあ、と声を上げて、私を置いて走り出した。向かう先は背高のっぽの柊くん、同じクラスだった男の子だ。そういえば付き合っているんだっけ、いや橘さんの片思いだったかも。うろ覚え。まぁどっちでも良い。水を差すのも悪いから、一人で教室に行ってしまうことにした。

自分の背丈じゃちょっと高くて不便な下駄箱を開けて、上履きを取り出す。遅刻ギリギリじゃない時間帯ってこんなに昇降口が賑やかなんだっけか。

元自分のクラス、もとい二年三組の黒板には、思った通り新しいクラスが紙面で貼り出されていた。既に人が沢山群がっているので見に行くのは諦めて、人がはけるまで後ろの方でぼんやりしていると、携帯がふるふると振動する。可愛いスタンプと一緒にクラス替えの紙が橘さんから送られてきていた。知らない間にあの群れの中に混ざっていたらしい。

名前と新クラスが出席番号順に書かれていて、私の名前は下から見ていった方が早い。

三組、三十三番。おぉ、綺麗にゾロ目だ。

橘さんは六組みたいで、二年同じだっただけあって、少し寂しい。でも、ちょっと安心。

新しい教室に移動しようとした最中、橘さんが私に激突。生憎支えられる体幹は備えてないので、私は四、五歩後ずさった。

「四組じゃなかったぁ!」

「そうだね。昼休みとかに遊びにおいでよ」

「行く…あ、でもねでもね!」

こそこそと声を潜め、耳元で彼女は言った。嬉しさが滲み出ている声だ。

「和葉くんとは一緒!」

「それは良かった」

どこまでも恋する乙女だ。きっと私が橘さんと同じだったら、ここで苦笑いをしていたことだろうな。

休み時間遊びに行くから!!と何度も念押しして私に別れを告げると、彼女は柊くんのもとに走って隣を陣取っていた。図太い。

手を振るのもそこそこに、私も新しい教室へ向かう。また同じクラスであることを喜び合う人、初めましてのご挨拶中らしい人たち、二年の時にも同じクラスだったあの人やその人、その他にも人、人、人が、至る所で小さなグループを作っていた。どこもかしこもを素通りして自席に座り、グイッと一伸び、一緒に欠伸も一つ。

来る者拒まず去るもの追わず、要するに自ら出向かず。それが私のモットーである。一人でもいい、誰かと一緒でも良い。誰かが話しかけてこない今、つまり私は、座っている席で一眠りしても良い──

「ねぇ」

そういう訳にもいかないみたい。後ろから肩をトントンと二回ノックされる。三十四番は女の子らしく、白雪姫にでも出てきそうな、透き通った綺麗な声でもう一度遠慮がちに声が掛かる。

来る者拒まず、である。

「なぁに」

そこでやっと振り返って、私はさっきまでお世辞にも開いてなかった半目の両目を、今日初めて見開いた。

「きれい」

そして思わず口に出した。そのあとすぐに後悔した。だって相手が酷く困惑している。そりゃそうだ。初対面の人間、それもこんな、ものの数秒前まで無愛想なふうだった人間が、振り返った途端に綺麗なんてこぼしたら、相手だって困るだろうよ、不愉快になられてもおかしくない。

しかし一度口から出てしまったものは取り返しようがないし、それに、それに。

本当に綺麗な顔で。

目に映った瞬間に、電気がびびびっと身体に巡るような、心臓が誤作動を起こすような、そんな衝撃が、はしって。…あれ、私の手、ちょっと震えてない?

いや、それより今は、謝らないと。

「あの、ごめん急に、変なこと言った」

「ううん、大丈夫。実はよく言われるのよ」

悪戯っぽく彼女がそう笑うので、それが本気か冗談かはともかく、また綺麗だと漏らしそうになる。ついでに心臓が大きく跳ねた。

私なんかの言葉じゃ、なんにも言い表せないくらい、髪、目、口、それからそれから、ともかく全部が、綺麗な人。私が教科書に載れるような小説家だったら、もっと沢山の言葉を使って、彼女を表せるでしょうに。…いや、たとえ心の中でも、一輪の花のように麗しい──だとかそんな、すましたことは言えない、恥ずかしい。というかこれじゃ、結局文末は「綺麗」なまんまだし。

「お名前、八雲空さんだよね。さっき座席表で見たの。私は矢代茜」

「矢代さん」

「そう。よろしくね」

矢代さん、矢代茜さんか。教えてもらった名前まで綺麗な気がしてきて、胸の中で何度か反芻する。

「空さん、同じ電車使ってる?朝見かけた気がするな。車内まで急いで走ってたでしょう。猫ちゃんのスマホケース、可愛いね」

「見られてたんだ。朝ご飯ゆっくり食べてたら、時間なくなっちゃって。あ…矢代さんもあの電車使ってるの」

「おちゃめなのね。うん、空さんの一駅前が最寄り駅。お隣の車両にいたよ」

時間にルーズ、とか、だらしない、とかではなく、おちゃめ。

そんなの言われたことない。慣れない言葉でなんだか落ち着かなかった。

それにしても、こんな人、本当に同じ電車にいたのかな。初めて同じクラスになった子だけど、三年間この子の存在を一度も認識せずに過ごしてたってことか。あまりに周りを見ていなさすぎじゃあないか私は。自分のことながら軽くドン引き、もはや軽蔑。

「せっかく席も近いし、良ければ仲良くして欲しいな」

「うん。…よろしく」

私な曖昧にへらへら笑っていた。差し出された手は握れなかった。

「茜!」

その時声が飛んできて、私は驚いて両肩を上げたが、彼女は何も動じずに声のした方へ顔を向けた。声の主と思われる子が矢代さんに突進して、彼女は難なくそれを受け止める。

「茜、また同じクラスだね」

「そうだね。あと一年、よろしくね」

知らない子と矢代さんのコロコロとした笑い声を背に、私は黒板の方へと身体の向きを変える。名前も分からないが、その子が介入してきて助かったと思った。未だ私の中には、ぐらぐらと衝撃が駆け巡っていたから。

あぁこれは、言いたくないけど。

紛うことなき一目惚れだ。橘さんを乙女だなんだと言っている場合ではなくなってしまった。まったく、占いの効果も馬鹿にならないと考えを改める必要が──いや、これが不運かどうかは今のところじゃ判断付かずだし、こっちは保留でいいや、ひとまずね。

キンコンカンコン始めの予鈴と、キンコンカンコン帰りの予鈴。その間の記憶はなんだか朧気だ。私は矢代さんのことばっかり考えていたから。

ばいばい、またね、一緒に帰ろ、と周囲ががやがやする中、一人ぐるぐる思考を巡らせて帰路に着く。

これを、恋と断定していいのかも分からない。ただ顔がすっごく綺麗で、もっと俗に言えば自分の好み一直線で、それで、そんなのを間近で浴びたから、勝手にそう錯覚しただけなんじゃないの。

そうだよそう、きっとそう。

いや違うよ、そうじゃないよ。

自身を丸め込めないのは、それだけでこんなにも鼓動が早くなったり、首元がじわじわ熱くなったりしないと知っているからだ。声を掛けられたあの瞬間、目が合ったあの瞬間。その一刻一刻を思い出しては、心臓がぐわっとうるさくなる。この騒音に名前を付けるならば「恋」になってしまうと、私はなんとなく理解していた。いつしか誰かさんに抱いたものと、よく似てる。既に恋する乙女だったから、その気持ちはすぐに割り切ってしまったけど。

鞄を適当に投げ出して、布団に思い切りダイブする。制服シワになるかな、どうでもいいか、よくはないか、後でアイロンかけなきゃ。

ごろんと寝返りをうって、電気をつけ忘れた暗い天井を見つめる。

友達以上にはなれないと知りながら好きになって、相手が男の子相手に熱い視線を送るのを見て、当たるまでもなく砕け散る。今回もそうなんだろう。そうなんだろうけど。

どうしても淡い淡い期待が、胸の中で燻ってしまって。

…矢代さん、いつもあの電車に乗ってるのかな。

それなら、私は。



ぴぴぴ、ぴぴ。

翌日の朝、またアラームを手探りで止めて、私は瞳を閉じ直した。今日も今日とて平日なので、今の時間は六時半。あと三十分くらい眠っても、電車には全然乗れる、…ただ今日からは、乗りたい電車が決まってるから、グーダラするのはあと五分、いや、嘘、あと十分は頂戴。

相も変わらず睡眠欲が圧倒的にツワモノだけど、どうにかこうにか振り切って、布団から転がるようにして床に落っこちた。ずでんと良い音。多少は目が冴えたんじゃないの。

ぴぴぴ、ぴ。

スムーズ機能を今度は視認して止めて、のそのそとリビングまで向かうと、丁度ニュースのお姉さんが占いの発表中だった。私は六位、なんだその微妙な数字は。

…矢代さんは、一体何位なのかな、なんてね。

「おはよう…」

私のギリギリ呻き声じゃない挨拶に、びっくりしたみたいにお母さんが目をパチクリさせる。それも当然で、この時間に私が自ら起きてきたのなんて一年の五月、六月…それくらいぶりである。それ以降ずっと三十分の二度寝がデフォだったのだ、お母さんの口から「どうしたの?」と出てきたって、まぁ無理もない。

どうもしないよ、大丈夫。ちょっとした欲のためだから、心配されるようなことではないの。

焼いたトーストはちょっと焦げたし(首をこっくりさせてたらいつの間にかね)、食べるのにもえらく時間がかかって、ドタドタバタバタ、結局昨日と変わらずリビングと自室を行ったり来たりで、家を出たのも電車出発三分前。ひぃ、今日もまた走る羽目になる。

まぁ仕方ない、おちゃめなので。

ひとまず明日の目標はコンタクトを付けて家を出ることにして、昨日同様、私はローファーで全力疾走。横断歩道を渡るサラリーマンさんを今日も驚かせてしまったけど、一週間もすればあの人も慣れてくれるだろう。

ICカードを叩きつけて、車内になんとか飛び込むと、後ろでドアが閉まる音。今日も挟まれる寸前だった。

座席の横に身体を預けてやっと一息。猫のケースが目印のスマホを取り出して、それを鏡に、爆発した前髪を右手で梳いた。寝癖がないから今日は良しとしますけど、今度はヘアアレンジもしてみたい、かも。

急いでこの電車に乗った理由である人物がいるであろうはずの、貫通扉の先へ、私はそろりと視線を向けてみる。

…わ、本当にいる。

今まで同じ制服の知らない子だったはずの一人が、はっきり、鮮明に、矢代さんとして見える。スカートは折らない派なんだ。

隣には昨日のあの知らない子がいた。仲良しなんだろう。

視界に矢代さんを入れるだけで心が喜んでいることに気が付いて、自分の単純さに呆れた。あぁ、一度好きだと思ってしまうと、自分じゃどうにもならないのだから困ったものだ。

明日の私が頑張ってくれたら、私は眼鏡からコンタクトになって、髪も結んできちゃったりして、いずれ、電車に乗るのもギリギリじゃなくなって──うーん、それは、ちょっと厳しいかもしれないけど。

話すのは苦手、意識した相手じゃ尚更。でもこの距離で少し彼女を見るくらいなら、私にだって出来るから。

だから朝のこの時間、あの子を少し視界に写すがために、私はこれから毎日、家をドタバタさせながら、この電車に乗るのだろう。

淡い期待が砕け散る、いつかの時まで。

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