第9話:幼いアベル、可愛いアベル、頼りなげな様子が、ますます可愛くて


愛は、

ぼくの周りに、

満ち溢れていたと思う。


それは生命の憩う静かなる池のように、母の胎内に自らが揺蕩う羊水のように、穏やかに、優しく、ぼくを包み込んでいた。


自分の身体と、周囲との境界が曖昧になる、柔らかさと、そして暖かさ、———


玉のような艶やかで、宝石のように光り輝く肌をした、その美しい赤子を、周囲の大人達は、眼を細めて可愛がった。まるで眩い光芒を、それでも見ようとするかのような、そんな眼差しで。


その美しい赤子は、

カインと名付けられた。


――― ぼくだ。


ぼくは、何も感じてはいなかった。それが愛情だとは、得難く、価値あるものとは、全く思ってはいなかった。


空気と一緒、———それはごくごく当たり前に、ぼくの周囲の空間を、耳が痛くなる程の圧力を持って、ぎゅうぎゅうに満たしていた。詰まっていた。


人生は何時だってそうだ。失ってから、それが如何に得難く貴重な物であったかを思い知るのだ。


肌に感じる温度が、急激に下がった。頬に感じてた不快な程の気圧が、無くなった。少なくとも、ぼくにはそう感じられた。


弟が産まれたのだ。

アベル ――― そう、名付けられた。


ぼくの周りの空間を圧し、満たしたは、その好意のカタマリのような何かは、二歳のぼくから、産まれたての乳呑み子・アベルに、移っていった。


その時だ、


急降下する気圧に吸い出されるように、幼い胸の内側に「ポコッ」と、何かが生まれた。それは何もない、ブラック・ホールのような、猛烈な「負圧」を帯びた、圧倒的な「空虚」だった。それは、その空虚を埋める「何か」を求めて、のたうち、震えた。


ぼくを見て!

ぼくに触って!

ぼくに構って!


ぼくを、――― 護って!


しかし、冷めてしまった温度が、再び戻ることは無かった。アベルに移った愛情が、ぼくに戻ってくることは無かった。もちろん父さんも、母さんも、ぼくを精いっぱい可愛がってくれてるのは知ってる。でもそれは、あの頃の狂おしい程のそれとは違ってしまっていた。


ぼくは、赤子だった頃の自分に、還ろうとした、乳飲み子だった頃の自分に、戻ろうとした。


どうしてそんな事を思い付いたかって?


そんなの決まってる。二歳児だったぼくにも分かる理屈。いや、それは本能とでも呼ぶべきもので、ぼく自身のに基づく、極めて動物的な反応だった。


だってぼく史上、最も「可愛いがられた」のは「あかんぼう」の頃のことであり、その頃の自分に戻るのが、大人達の愛情を取り戻す至高かつ最善・最速の方法なのに違いなかった。


時計の針を、戻そうとした。あの頃に、戻ってしまいたかった。でも、それは叶わなかった。当たり前だ。


ぼくは二歳児で、ふと気付いた時にはすでに三歳児となっていた。成長は決して止むことは無く、その流れに逆行する事など、不可能に違い無かった。


アベルは、とても可愛い弟だった。アベルは、僕によく似ていた。二歳年下のアベルは、幼い頃のぼくだった。ぼくはアベルの面倒をよく見た。一緒のよく、遊んであげたりした。


素直で利発なアベルを、ぼくは褒める。その柔らかな髪を梳き、撫でる。くすぐったそうに顔を上気させ、嬉しさを噛みしめたようなアベルの表情。「ありがとう、兄さん」


幼いアベル、可愛いアベル、頼りなげな様子が、ますます可愛くて、しかしぼくは、時々アベルの顔を見るのも嫌になって、ぼくの名を呼ぶアベルの声を、背にした扉の向こうに聞きながら、両手で顔を押さえて、泣いてしまったりした。


アベルのことは、大好きだった。でもぼくは、アベルではないのだ。アベルを愛しみながら、しかし時々そのことを思い出しては、耐え難い寂寥感に苛まれた。


ぼくはアベルを、自分にように愛しみ、同時にその死をねがう程に、憎んだ。










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