第3話 音に逃げる ー夢現を求めてー

 帰宅するには多少の罪悪感を感じる人もまばらな時間帯にせわしない様子で慌ただしいふりをし席を立つ。挨拶もそこそこに早歩きで仕事場をあとにして、何事もなかったかのように、いつもとは違う繁華街へと向かう。

 お目当ての雑居ビルの入口をくぐり階段を昇り、借主がいないはずのフロアのガラスドアを静かに開けて中に入る。誰もいないはずのフロアに、ルームランプだけが灯る受付カウンターの奥、スーツ姿で眼鏡をかけ、黒髪をまとめた妙齢の女性が一人佇んでいた。


「本日は空きがあると、連絡を受けました」


「ハイ。ようこそ、いらっしゃいました。会員証を提示ください」


 私はくたびれたスーツの上着に仕込まれたカードケースから、一枚のカードを取り出し、受付嬢へと差し出す。受付の裏に設えてある読み取り機でカードを読み取り、私の顔を確認すると、表情を変えることなく頷き


「確認ができました。どうぞ、案内に従い、奥へとお進みください」


 と、入場の許可を伝えられば受付脇の扉が自動に開き、私を暗い通路の奥へと誘う。足元の誘導灯のみを頼りに通路を進めば、部屋札が点滅する場所へたどり着く。

 壁から突き出た踏板を足場代わりに、上部に設置された厚めの扉を開けると、長細い部屋――いわゆるカプセルホテルの寝室のような――があり、潜るように中へと入り、扉を閉め、施錠する。

 洞穴のように暗いカプセルの中では、ブルーライトが仄かに灯るだけ。私は頭のそばにある沢山のコードがついたヘッドホンが一体化したヘッドギアを取付けて、仰向けに寝そべり、瞼を閉じ、ヘッドホンのスイッチを入れる。


 音が流れ始める。どこか遠くでなり続ける様な心地よい耳鳴り。ノイズ音が紛れ始める。少年のころ、深夜に眼ざめ、消し忘れたテレビから流れていた雑音。

 鐘の音が響き渡る、長く長く空のかなたまで響き渡るようにこだましていく。水が流れて伸びる音がリズムよく鳴り始め、調子を合わせるようにドラムの叩かれるおとが隠れて聞こえる。

 荘厳で波紋のように広がっていく声、ドラムのリズムに乗り始めるノイズ音。雨音が混じり、渓流のせせらぎへと代わり、潮騒へと変化していく。


 閉じた瞼の裏で、闇に瞬く幾つもの線上の光が点いては消えるを繰り返し、いつしか閉じた目の先に黄昏時の空に浮かぶ雲間が垣間見え、己の体が宙に浮かび、溶けて混じりあい、思考が消えていき――――




 音が消えたころ、私は目覚める。時計を見る。カプセルの中に入ってから二時間程度が過ぎている。ぐっすりと寝ていたようだ。いつもより、深く、ずっと深く。

 どこからも許認可されていない脳波へ直接働きかける装置を使い、心地よく反復される鼓動や音楽に導かれて脳内の感覚が安らいでいき、短時間の間で夢現をさまようことができる。


 カプセルから出て、元来た道をたどり受付に戻ると女性は来た時と同じように受付に佇んでいる。私が会釈をすれば、無言だが目礼で返してくれる。心地よい夢の感覚の余韻がまだ残ったまま、人の増え始めた繁華街の人の通りに逆らい家路につけば、これで、明日からもまた頑張れるというものだ。

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