第3話 キミの声を忘れられなくて

 夕焼けが校舎を染め上げる。

 昼休みを過ぎてから放課後までの時間が今日ほど長く感じたことはない。

 昼の一件以降、ふとした瞬間にプリンスの唇の感触を耳に感じて悶々としながら過ごさなければならなかった。

「おつかれ~。プリンセスはもう帰りだよね? 一緒に帰ろ?」

 プリンスはホームルームが終わってすぐに僕の所へやって来た。望むところ。ついでにこの欲求不満とも言える状態をどうにかしてもらおう。

「鞄、持とうか?」

 僕は首を横に振って答える。調子が悪いのは喉だけだから大丈夫。

「ならキミごと持つよ」

 どうしてそうなるの。

 僕たちのやり取りを近くの席の男子が見ていた。見られるのは別段珍しいことじゃない。入学した当初からプリンスのファンは多くて、ことあるごとにプリンスを囲んでいたからだ。

「準備できた? なら行こう。ボクさ、帰りに自販機寄りたいんだ」

 彼女は周囲の視線を気にしない。当然のように僕の手を引いて教室を抜け出す。社交界に息苦しさを感じる女性が意中の男性に連れ出して貰えたときのような気分だ。周囲からなんと見られても、今この瞬間は僕とプリンスの二人だけの世界。

 そう思っていたのだけど。

「じゃあね皆。また明日。おっと、キミはお昼に会ってくれた子猫ちゃんだね? また会えて嬉しいよ」

 教室のドア付近にいる女子は、どうやら昼休みにプリンスが話していたファンの子の一人らしい。彼女は意を決した面持ちで可愛らしい色の洋封筒をプリンスに差し出した。

 プリンスは、僕の手を離して、彼女の手紙を、受け取る。

「この手紙をボクに? ありがとう。帰ったら大切に読ませてもらうね」

 プリンスは慣れた手つきで鞄のファイルへと手紙を仕舞う。その場で読まないのは、彼女なりの配慮だ。

「それじゃあ、ボクは先に帰るけど、キミも遅くならないようにね。気をつけて帰るんだよ?」

 彼女は過度にファンへと触れることなく、穏やかな言葉を掛けて会話を終える。優し気な眼差しも合わさって、彼女の態度は人を温かな気持ちにさせる。ファンの子も頬に朱がさしていた。

 頃合いを見てプリンスはクラスの友人や追っかけてきた後輩たちに手を振る。

「皆お疲れ。今度こそさようなら~」

 僕もクラスの友人たちに手を振った。

 プリンスは振ってないほうの僕の手を握ると、周囲に手をひらひらさせながら廊下を抜ける。

「ふふふっ、お手紙もらっちゃった」

 ファンレターも告白も、プリンスにとっては初めてではない。そして、今回が最後でもない。それなのに、彼女はいつも初めてのことのように喜ぶのだ。

「あれ? プリンセス、どうしたんだい? もしかして、なにか忘れ物? それとも不安なこととかあるの?」

 プリンスは僕の顔を見てそんなことを言ってきた。僕は首を横に振る。流石に、プリンスのファンに今更嫉妬したなんて言えない。

「問題ないならいいんだけど、困ってるならちゃんと言ってね? ボクにできることなら協力するから」

 まだ校内。それも人通りの多い放課後の廊下だ。「王子」のあだ名で呼ばれる彼女はただでさえ目立つのに、僕の手を引きながら気遣ってくれる。それは嬉しくもあり、少しだけ辛いことでもあった。僕はプリンスほど周囲の視線を遮断できる器じゃない。

 きっとプリンスも内心では薄々それをわかっているのだろう。誘うときは、いつも彼女から。そして、学校を出るまではずっと話しかけてくれる。

「そういえば、今日の授業で出た課題のプリント、あとで一緒にやろうよ」

 プリンスは何気ない話題を振る。この提案は今の僕でも喜んで賛成できた。空いている手の親指を立てて見せる。話題を切り替えてくれたおかげで僕も少しは笑顔になれたと思う。

「それならいつも通りビデオ通話でやろう」

 下駄箱で靴を取り換える。流石にここからは手を離した。

 玄関を出るとコンクリートの地面もアスファルトも夕日によって平等に色付けされていた。

 何気なく視線を動かすと、靴を履き替えながら後輩の子犬くんに手を振って応じるプリンスの姿が目に入る。彼女は校内にいる間はずっとこの調子だ。靴を履き終えたプリンスは軽快な足取りで駆けよって来る。

「お待たせっ。学校の近くにある自販機に寄って行こう。朝発見した新発売のジュースが飲みたくなっちゃって」

 プリンスのローファーが逸楽を奏でる。目的の自動販売機はすぐ近くだった。

「あ、ここの自販機だよ。あれ? 今朝見たときよりも一種類多いや」

 どうやら商品の入れ替えがあったらしい。プリンスが飲みたがっていたジュースは勿論あるが、それ以外にも新商品が追加されていた。

「むむ、どちらを飲もうか……やっぱり今朝から気になっていた方に……でも、こっちもちょっと気になるし……」

 プリンスは一度に二本のジュースを飲み切れない。ここは僕が一本買うことで彼女の迷いを断ち切る。

「プリンセスはそっちにするの? それならボクは、こっちのやつにするね」

 僕がジュースを購入すると、プリンスも続いて硬貨を投入する。

 彼女が買ったのは飲みたがっていた方のジュースだ。

 プリンスは缶のプルタブを開けると、ジュースを笑顔で飲み始める。

「こく、ん、こく……」

 今、彼女の小さな口には勢いよくジュースが流れているのだろう。プリンスの飲みっぷりは見ている方もなんだか楽しい。

 つい彼女を見てしまったけど、僕も自分で買ったジュースを飲む。仄かな酸味が甘味とマッチして美味しい。次回はこっちをプリンスに勧めてもいいかもしれない。

「ふう」

 ある程度飲んだらしいプリンスは嬉しそうに息を吐いた。

 僕も缶の半分くらいまで飲んだので一度口を離す。

「プリンセスのも少し飲ませて?」

 僕が頷くと自然な流れで缶を手に取ったプリンスは、口をつけるのも躊躇わずに飲み始めた。プリンスの喉が流れる飲料に合わせて動く。僕は、目を閉じて缶ジュースを味わう彼女に目を奪われて、ただ立ち尽くした。

「こく、こく……ぷふう……これも美味しいね。次はこれを買おうかな」

 プリンスは一息で残りのジュースを飲み干すと、笑顔で缶を見つめる。

 僕の手には買った缶の代わりにプリンスの飲みかけのジュースが残された。

 突っ立っている僕に気がついたプリンスは、苦笑して詫びる。

「ごめんごめん。プリンセスのジュース、全部飲んじゃった。代わりにボクのジュースを飲んでいいから許して」

 驚いただけで、ジュースを飲まれたくらいで怒る気なんて毛頭ない。もしも自分が最後まで飲むつもりだったとしても、眉尻を下げて謝るプリンスを見れば、僕は大抵のことを許すだろう。

 けれども、なかなか缶ジュースを口にしない僕を見て、プリンスは表情を曇らせ始める。

「そのジュース、あんまり好きじゃなかった?」

 そんなことはない。

 今僕が意識しているのはジュースを飲まれたことや飲み物の好みよりも、飲み口がお互いに口をつけたあとの状態だということだ。昼に食べさせ合っていたのに何を今更と考えるが、どうにも意識してしまう。

 たしかに、昼食を食べさせあったときだって箸と口が触れていたけれど、そちらとは少し違うように思えた。あちらは「相手に食べさせる」という意味合い、意思が強かったのもあるし、今回のようにジュースの飲み口にそのまま触れるのは初めてなのが相違だと感じる要因だろう。

 考え込んでいると、プリンスの表情が曇りだす。

「もしかして、ボクが口をつけたあとは……やっぱり嫌だった?」

 そんなことは絶対にない。僕は一度だけ深く呼吸してから缶に口をつけた。

 別段、普通の缶ジュースと何か違うわけじゃない。味も変わらないし、香りや温度にも大した差異はないだろう。

 そう、ただ僕が勝手に意識しただけだ。昼に耳を甘噛みされたときから、プリンスを過剰に意識してしまっていた。プリンスにどんな意図があるのかわからないけど、僕が変に意識して彼女の笑顔を曇らせるようなことは無い方がいい。

 ほら、目の前のプリンスだって今は笑顔に。

「そういえば、これだと間接キスだね」

 変なところにジュースが流れ込んだ。勢いにまかせてジュースを飲んでいる最中にプリンスの不意打ちが加わったことで、僕は激しく咽る。

「だ、大丈夫かいっ?」

 目を見開いたプリンスは慌てて僕へと駆け寄った。正面からやって来た彼女は僕を抱き込むような恰好で背中を叩いてくれる。トントンと心地よい衝撃が音と共に背中から身体の内側へと響いた。

 何度か咽るものの、次第に呼吸は落ち着いてくる。

「ごめんよ。ボクが変なこと言ったせいで……」

 僕もその「変なこと」を意識してたのだから彼女を悪くは言えない。元から言うつもりもないが。

 咳き込むことはなくなったけど、プリンスはまだ心配なのか僕を軽く抱いた状態で真正面から見つめていた。プリンスの身長はそれほど高くないので、僕の目線と同じくらいの位置にある瞳がよく見える。

 罪悪感か、僕の身体を案じてくれているのか、彼女の潤んだ双眸が揺れているのがはっきりとわかった。

 プリンスの目を真っ直ぐに見つめていられなかった僕は、つい目を逸らしてしまう。俯くようにして視線を変えた僕に、プリンスは不安そうな声をかけた。

「どうしたの? もしかして、怒ってる? ごめんね……ボク、調子のってた……」

 僕は慌てて首を振る。このままだとプリンスを不要に傷つけるだけだ。

「怒ってるわけじゃないの? なら……」

 困惑はするけど、嫌悪はしない。僕はそれをプリンスに伝える。

「ボクを許してくれるの?」

 許すも何も、最初から怒ってないし、そんなに嫌がっているわけじゃない。

「ボク、キミに甘えようとしてて……」

 言い訳というより、自己分析のような口調だ。

 僕は手を伸ばしてプリンスの手を握る。時折甘えるのは、悪いことじゃない。

 彼女は僕の意図を察した。

「…………もう少し、甘えてもいい?」

 好きなだけ、甘えればいい。絵本の王子様だって、お姫様に抱きとめてもらいたいときはあるだろう。それに、僕はプリンスを受け止めたい。

「なら、今からキミの家に行ってもいい?」

 彼女の言葉に対して肯定以外の回答はない。僕はとんでもないことになったのだと理解した。

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