第2話 ずっと僕の耳は

 プリンスと僕が再会したのは高校一年のときだった。僕だけ一方的にギクシャクしてしまったけど、どうにか友人としての関係は再開されて、今は高校二年。僕とプリンスは一緒に昼食をとるのが当たり前になっていた。

 今日も僕は、屋上でプリンスを待っている。

「やあ、プリンセス。待たせたね。今日は子猫ちゃんも子犬くんも全然離してくれなかったよ」

 フェンスを風が吹き抜ける高校の屋上。アルトボイスの笑い声と共に現れたのはプリンスだ。

「隣、失礼するよ」

 僕は自分の弁当箱を開けながら頷く。

「そうそう、今日は妹が焼いたクッキーもあるんだ。よければ一緒に食べよう。喉の治療には差し支えないよね?」

 再びコクコクと頷く。喉の治療中は喋れないだけで飲食の制限はない。

 僕の反応を見てプリンスは満面の笑みになる。

「うんうん。それは良かった。実は昨日から妹が張り切っててね。たくさん焼いてたんだよ」

 プリンスは素朴な手提げ袋から弁当箱と大きめの包みを取り出す。

「あ、飲み物もあるよ。なるべく喉にやさしそうなやつを選んだんだけど、どっちがいい?」

 差し出されたペットボトルを選んで受け取り、僕たちは弁当箱を開けた。

「いただきます」

 いただきます。

 僕が磯辺揚げを噛んでいると、プリンスの箸が玉子焼きを摘む。

「あ、今日の玉子焼きは甘~い。これは弟が作ったやつだね。ほら、プリンセスも好きでしょ? あ~ん」

 あ~ん。ふんわりとした食感、そしてほどよい甘さが香りと共に口の中で広がっていく。

「ふふ、美味しい? なんて聞くまでもなかったね。キミの顔を見ればわかるよ」

 この玉子焼きは先週も、先月も、なんなら去年も食べたことがある。いつも変わらない美味しさ。

 僕もお返しをしようとレンコンの挟み揚げを差し出す。

「え? ボクに挟み揚げをくれるの? ありがとう。おば様の挟み揚げは大好きだよ」

 プリンスはゆっくりと、差し出された箸に顔を近づける。目を閉じ、静かに口を開けると緩やかな動作で挟み揚げを口に含んだ。

「あむ、もぐ……むぐ……」

 プリンスはゆったりと味わう。そよ風が彼女の前髪を揺らしても気に留めない。

 咀嚼を終えて飲み込むとき、プリンスはようやく目を開いた。エメラルドの瞳が太陽にも負けない輝きを灯す。

「うんおいしい。やっぱりおば様の挟み揚げは最高だね」

 彼女は今まで何度も母の手料理を食べてきたけど、食べる度に新しい発見をしたかのような喜び方をする。そんなプリンスを見ると、作ったのは母なのに僕まで嬉しくなってしまうのだ。

 そして、それを知っているから母もプリンスの好物を僕のお弁当に入れる。

「え? このおかずはボクのために用意してくれたの? もしかして、今までもずっと? そうか、それでキミはいつもおかずを食べさせてくれてたんだね」

 プリンスは照れくさそうにする。いつも後輩や同級生、ときにはファンの先輩でさえ「子猫ちゃん、子犬くん」と呼んでいる彼女だが、僕とお弁当を食べるときは柔和な態度と表情を見せてくれる。この瞬間だけは、誰でもなく僕だけの王子様でいてくれるんだと自惚れてしまう。

「今度おば様にお礼をしないと。お礼のときは、何がいいのかプリンセスも一緒に考えてほしいな」

 もちろんだとも。僕は親指を立てる。あえてプリンスには伝えないけど、正直に言うなら母は彼女のお礼ならなんでも嬉しいはずだ。だって幼い頃の僕にできた最初の友人で自分の娘のように可愛がっているし、何より見返りがほしくておかずを作っているわけじゃないんだから。

 でも、お礼を考えてくれるという行為自体は母も喜ぶだろう。

「ありがと。おば様の誕生日とかに会わせて計画するのもいいかもね」

 プリンスは早速具体的な案を打ち出し始める。彼女のこういう性格が、王子様になった経緯、現在の立場へと繋がっているのだろう。

 プリンスを見ながらお弁当を食べていると、丁度食べ終えたタイミングで彼女は自分の頬を指差した。

「プリンセス、頬っぺたにソースついてる。こっち側」

 空になった弁当箱を置いて自分の頬を触るが、何もない。もしかして、反対側なのか。

 そう思って反対の頬を拭こうとしたとき、プリンスが僕の顔を掴む。

「動かないで」

 僕は微動だにしないどころか、呼吸さえ忘れる。

「そのまま」

 プリンスは顔を近づけると、僕の頬をピンクの舌で舐めた。

 意識して敏感になった頬に柔らかくて、温かな舌が唾液越しに触れる。

「ほら、これで綺麗になった」

 言われても自分の頬っぺたなんて見ようがない。けれども僕はそんなことさえ頭に浮かばなかった。

 僕の心身に刻まれたプリンスの舌の感触は、今も脳に焼きついたかのようにはっきりと頬の温もりと柔さを思い出せる。感触はあるのに現実味が無い、しばし夢のようにふわふわとした時間を過ごすが、頬の唾液が空気に触れて冷えると、その冷たさによって今起こったことが現実なのだとわかる。

「舐めたままだと良くないね。唾液はハンカチで拭くから、まだ動かないでね」

 プリンスの菖蒲色のハンカチが肌を擦る。それなりに上質な繊維は肌触りも良く、プリンスの絶妙な力加減と相まって心地よい。

「はい、綺麗になったよ。それじゃあ、そろそろおやつを食べようか」

 プリンスはハンカチを仕舞うと二人の間にクッキーの入った容器を置く。可愛らしさとは無縁のシリコン製の容器を開けると、中からシンプルなプレーンクッキーが姿を見せた。

「張り切ってただけあって数が多いね。はいプリンセス」

 クッキーをつまみ上げたプリンスは当然のように僕の口元へと運ぶ。差し出されたクッキーを咥えると、プリンスは指を離して次のクッキーを摘んだ。

 プリンスの妹が焼いたクッキーはサクサクとした触感や甘さも好印象だが、なによりも香りが良い。僕も過去に作り方を教わったが、彼女の作り方を真似したら完成度が一段階上がったように思えた。

「ボクも食べよっ。んん、も、むん」

 僕の方を見ていたプリンスは摘んでいたクッキーを自分の口へと入れる。僕が食べたクッキーはそこまで大きくないが、サイズが幾つかあるようでプリンスが摘んだのは少し大きめだ。彼女の小さな口では十分すぎる大きさだろう。頬を少し膨らませ、口の中でクッキーを徐々に噛む。

「ん、ふっ、ん……ふう。一口で食べられると思ったんだけど、ちょっと大きすぎたみたい」

 恥ずかしそうに笑うプリンス。今度はクッキーを咥えた状態で噛み、二度に分けて食べる。彼女の薄い唇がクッキーを挟む動作に釘付けにされる。

「どうしたの? あんまり食欲ないの?」

 彼女の仕草に見惚れていると、プリンスに心配された。首を横に振って否定する。

「ううん? もしかして、ボクに食べさせて欲しかった?」

 プリンス悪戯っ子の笑みで新しいクッキーを摘む。白く細い指先が菓子を摘み上げる様は一度意識すると目が離せない。そんなことだから、彼女の言葉を否定する前に小さなクッキーがまたしても口元へと運ばれて来た。

「はい、あ~ん」

 今更拒否する理由なんてないが、プリンスがわざわざ言葉にしてから食べさせようとしてくるのは恥ずかしいかもしれない。プリンスも自分の言葉で意識してしまったのか、紅潮しているのがはっきりとわかった。自分も今は同じような顔色をしているのだろう。鏡を見なくてもわかる。太陽以外の理由でここまで顔が熱いのはそれしか理由が考えられない。

 気がつけばクッキーだけでなく、プリンスの顔までもが僕の顔のすぐ近くまで接近していた。

 あんまり待たせるのも良くないので先程と同様にクッキーを咥えて食す。

 流石に見合ったままでは食べられなくて、僕はプリンスの指が離れた瞬間に顔を背けた。

 隣りに座るプリンスは僕に身を寄せたままクッキーを食べ続けているらしい。ガサガサと容器から音が聞こえる。

「はむ、ん」

 プリンスはどれだけ近づいているのだろうか。サクサクと彼女がクッキーを噛む音がはっきり聞こえる。それとも、わざと僕に聞かせているのだろうか。

 ずっと顔を背けたままではいられない。僕は意を決してプリンスの方を向いた。

「んむっ!?」

 刹那、プリンスの目が見開かれる。プリンスは僕に寄りかかるようにして座り、僕の方に顔を向けながらクッキーを食べていた。僕は、振り向くときに勢い余ってプリンスの方に顔を近づけてしまった。

 僕たちの距離は唇が触れる寸前。プリンスの咥えていた食べかけのクッキーに、僕の唇が掠る。

 硬直した僕の目に、驚いたプリンスの瞳が映し出された。動きどころか呼吸までも忘れた僕とは対照的に、プリンスは咥えていたクッキーを二、三回噛んで飲み込む。

 プリンスの甘い吐息が僕の唇にかかる。

「そんなにボクと一緒にクッキーが食べたかったのかい?」

 目を細めたプリンスは視線を動かさないまま最後のクッキーを掴む。

 そして、僕が呼吸を再開したタイミングで一際大きなクッキーを咥えさせてきた。

「最後のクッキーさ。どう食べようか考えていたんだけど、キミにも食べてもらうことにしたよ」

 位置は多少前後しても、相変わらずお互いの距離は近いまま。僕はクッキーを少しずつ齧る。そして、歯でクッキーが固定された瞬間、プリンスは僕と正反対の方からクッキーを咥えた。

 プリンスが端を摘むと、クッキーはパキッと綺麗な音を立てて割れる。あまりにも綺麗に割れたクッキーを咥えたプリンスは、僕から少し顔を離すと小さい口を何度も動かしてあっという間に平らげた。

 僕は咥えたクッキーを落としそうになりながら、眼前で起こったことを必死に受け止める。

 どのくらいそうしていたかはわからない。ふと気がつくと、放心仕掛けた僕の耳にチャイムが鳴り響いた。

「あ~あ、予鈴鳴っちゃったよ」

 プリンスはエメラルドの瞳に怪しげな光を湛えて再度顔を近づける。

 陽の光を浴びて煌めく指が僕の咥えるクッキーを軽く押した。

 僕はされるがまま口の中へとクッキーを受け入れて食べる。折れたクッキーは難なく口内に納まった。

 プリンスは僕が最後のクッキーを口に含んだところを見てそのまま顔を寄せる。幼少期の別れ際にそうしたように、僕の首に腕を回して耳元に口を近づける。

 耳に熱っぽい吐息がかかって、僕の意識も神経も全てがそこに集中しているようだった。

「急いで食べないと、授業に遅れるよ。それとも、このままボクとサボっちゃう?」

 何も言えない僕の口からは、ただクッキーを噛む音だけが鳴った。

「ふふっ、ちゃんと食べるんだ? じゃあ、この続きは放課後。これはその約束だよ? はむっ」

 プリンスは僕をぎゅっと抱きしめると、耳の端っこを唇で食む。

 ぞわぞわとした感覚が背筋から脳天まで駆け抜けて僕の感情も思考も目一杯掻きまわされた。

「それじゃあ、ボクは先に行くね。プリンセスも早く来ないと、ホントに遅刻しちゃうから急いで」

 プリンスは僕に笑いかけると自分の荷物を纏めて屋上を後にした。

 僕はプリンスがドアの向こうに消えてから荷物を纏める。これまで食べさせ合うくらいはしていたけど、ここまでしたことはなかった。今日のプリンスは何かが違う。

 何が原因なのかを考えても答えは出ない。

 ただ、耳に触れたマシュマロみたいな唇の感触だけがいつまでも消えなかった。

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