お姫様になれなくてごめんね

じゅき

第1話 あのときから

「ねえプリンセス、ほんとに明日で引っ越しちゃうの?」

 僕の隣に座る女の子は目尻に涙を湛えていた。僕をプリンセスと呼ぶ彼女は、近所に住む幼馴染だ。僕は彼女をプリンスという愛称で呼んでいる。

 夕焼けにも負けない赤い癖毛が印象的な彼女は、小さな手を胸の前でそっと重ねる。

 僕はなんて言えばいいのかわからなくて、ただ頷くことしかできなかった。

 公園のベンチに座る僕たちの間にしばし無言の時間が訪れる。静寂を打ち破ったのは、風にさえかき消されてしまいそうなほど小さい、ささやかな抵抗だった。

「そんなのやだ……」

 誰もが聞き逃しそうなほど弱々しいのに、僕にだけははっきりと聞こえる声。けれども、プリンスの抵抗はそれだけだった。あとで聞いた話では、彼女は前々から両親たちから僕の引っ越しの話を聞かされていたらしく、引き留めるのが無理だとわかっていたようだ。

 プリンスは涙をゴシゴシと袖で拭い、僕の方へと身体を寄せる。衣擦れの音と共に密着した彼女の重みや温かみが伝わって来る。

「ねえプリンセス。ボクたちさ、この公園でたくさん遊んだよね。プリンセスはお姫様役で、ボクはプリンセスを助ける王子様だった」

 思い出をなぞる彼女は僕を真っ直ぐと見つめていて、吸い込まれるようなエメラルド色の瞳は徐々に近づいているようにさえ思えた。

「プリンセス、ボクの夢は知ってるよね? 絵本に出て来るような王子様になるって夢。ここで誓う。ボクは絶対に王子様になってみせるよ。だからそのときは……」

 プリンスは一瞬、躊躇うように息を呑んでから僕に抱き着いた。

 驚く僕の首に腕が回され、頬を擦りながら全身で密着される。

 耳元に温かな吐息を感じていると、年相応に柔らかくも芯のある声で囁かれる。

「ボクがプリンスになったら、そのときはキミをボクだけのプリンセスにしてあげる。ボクをプリンスって呼んで良いのはキミだけだ。絶対に忘れないでね? ボクのプリンセスっ」

 いつも遊んでいるときに演じていた王子様のように、少し陽気そうで、でも根の彼女の悲しみが微かに滲んだ声だった。僕はこの言葉を生涯忘れないだろう。

 プリンスがいつも使っている石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。密着されているせいか夕陽なんて気にならないほど身体が熱い。

 僕は反射的に彼女を抱きしめ返したまま強張ってしまう。

「ふぅっ……」

 固まった僕の耳にプリンスの吐息が流し込まれた。僕は弛緩して彼女を抱き締めていた手を離してしまう。

「ボク、頑張るから」

 二人で指切りをした。細い指にはしっかりと力が込められている。

 その後は二人で思い出話を少しだけして、またいつものようの王子様とお姫様として遊んだ。

 翌日の出発前、彼女は姿を見せなかった。だから、僕の知っている幼少期のプリンスはこの日の姿が最後だった。

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