第2話
深海の幻想は消え去ってしまいましたが、くるみの頭のなかに影のように残っていました。くるみは、それを吐き出すように、スケッチブックに書きなぐりました。あの海を、あの恐ろしさを再現しようと、苦心します。くるみは絵の上手な子でした。学校に行かなくなってから、前にも増して絵を描くようになりました。お母さんがそのスケッチブックを見て、嬉しそうにしたり、心配そうに眉をひそめたり、泣きそうな顔をしたりするのを、くるみは知っていました。なるべく、明るい絵を描こうと心がけていましたが、ときおり頭に住み着く暗い影は、こうして絵で描き表して外に吐き出さなければ、いつまでもくるみのなかにくすぶってしまうのです。
夢中に描いているときは、佳織ちゃんの恐ろしい形相や、お母さんに痛いくらいにひっぱられた腕の痛みや、世界にひとりぼっちでいるかのような心細さや、自分が弱虫で悪い子であるという強い思いから、解放されている気になれます。それらがとおい世界の出来事のように思えます。けれど、それは、現実の、くるみの生きている「いま」なのでした。とおくで、お母さんの声がします。「くるみ、ごはんできたよ」という、優しい声でした。けれど、その声は、くるみを怖い現実に呼び戻す、悲しい声でもありました。
お昼ご飯は、くるみの好きなカレーライスでした。食欲をそそる、おいしそうなにおいがリビングに広がっています。けれど、くるみの頭のなかには、まだ深海の影が漂っていたので、ただ機械的にスプーンを口に運ぶだけでした。お母さんの心配そうな「カレー、おいしくない?」という問いかけにも、くるみはうわの空で答えました。ますます心配げに顔をくもらすお母さんの様子に気づきながらも、くるみの心はふわふわと「ここ」ではない、暗い淵に吸い寄せられることに、抵抗できないのでした。
ご飯を食べ終えると、くるみは、また絵にとりかかりました。深海の影をすっかり描き終えると、脱力感で、抜けがらのようになりました。部屋には画用紙が散らばっています。その、どれもが、おどろおどろしく、暗い、色の重なりに埋めつくされています。
ぼうっと、心をさまよわせていたくるみですが、心のなかで闘っていました。暗いどろどろした、茶や青や黒のうずのなかに、新しい、明るい何かを、生み出そうとしていたのです。それは、とても難しいことでした。少し前まで、いとも簡単に、新しい、明るいものを、いくらでも心に生み出し、動かすことができたくるみでした。けれど、暗い淵を知り、そこに親しんだくるみにとって、そのころ生み出した何かは、はるかとおいかなたに、かすかに浮かぶ幻で、それを取り戻すことは、闇夜に瞬く星に手を伸ばして、つかもうとしてもつかめない、あの感じと同じに、気のとおくなるほどに難しいことなのでした。
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