くるみの翼

みのり

第1話

 その女の子は、色のないまなざしで、一心に空を見つめていました。久々にからりと晴れた三月のお昼どきのことです。ありふれた住宅地の片隅の、灰色のマンションの一室のベランダで、微動だにせず、ただ空を見つめています。さわやかな風が、女の子のほほをなでますが、その顔色は晴れません。

 女の子は、名前をくるみと言います。しばらくの間、部屋に閉じこもる生活をしていたのですが、やわらかな陽のひかりに誘われて、ベランダに出てみたのです。

 くるみが立っているのは、マンションの八階です。そこからは、町の様子を見わたすことができます。小さなアパートやかわら屋根の人家が立ち並ぶなか、ぽつぽつとひときわ高いマンションが建っているのが見えます。広い道路には車が行き交い、ときおりバイクが走り去る大きな音が聞こえます。おじいさんやおばあさんがゆっくりと歩く姿や、女の人が自転車に乗って走る姿もあります。視界の端には、古びた小学校の校舎と広いグラウンドが映ります。

 それらを囲むようにして、とおくに青々とした山が連なっており、その上を雲ひとつない空が広がっています。くるみは、一生懸命その空を見つめ、そのすんだ青さで心をいっぱいにしようとしていました。そうできれば、心のなかをどろどろさせる、暗いもやが晴れるはずでした。けれど、不意に耳に飛び込んできた、子どもたちの明るい声が、くるみの邪魔をしました。

 小学生たちが広いグラウンドにあふれ出て、甲高い喜びの声をあげ、遊びはじめたのです。ちょうど給食が終わり、束の間の自由な休み時間が始まったところでした。

 くるみは、そちらを見ないよう努めていましたが、声に吸い寄せられ、グラウンドに目を向けてしまいました。数カ月前までは、くるみもあのなかの一員でした。木が好きだったので、こんな気持ちのいい日には、グラウンドの一角にのびる銀杏の木の下に寝そべっていたものです。静かに、ひとり、木と心を合わせることが、くるみにとっては楽しみで、たいせつな時間でした。それなのに、必ず、佳織ちゃんはついてきました。くるみの隣に寝そべったり、じっと動かないくるみの腕をつねったりするのです。

 思い出すと、お腹にするどい痛みが走りました。くるみは、眉をぎゅっとしかめ、体を丸め、すがるように目の前のてすりを握りしめました。てのひらで感じる、てすりの冷たさに集中して、痛みの波がひくのを待ちます。お腹の痛みは、徐々にやわらぎましたが、心の動揺は、なかなか消えてはくれませんでした。くるみは、落ち着かない気持ちで、目に映る、家々の屋根の色をぼんやりと眺めました。

 平屋のかわらの赤茶や紺、アパートのコンクリートの灰色をじっと見下ろしながら、くるみは「ここから、飛んでいけたらなあ」とぼんやり思うのでした。眼下に広がる、色の連なりは、あまりたのしげな感じのしない、暗いものでした。その色たちを、くるみは、じっと心を空っぽにして見つめていました。そのうちに、それらはくるみの頭のなかで混ざり合い、まるで意思をもっているかのように荒々しくうずを巻き、大きなうねりとなりました。くるみの目には慣れ親しんだ街並みは消え去り、激しく波打つ、暗く、深い海が広がっていました。

 くるみのいる八階までをも飲み込んでしまいそうに、海は荒れ狂い、ぐんぐん水位をあげています。人の力がおよびもつかない、巨大な水の化け物が、くるみに迫ってくるのです。くるみは、恐ろしさに身がすくみましたが、心のどこかが、目の前に広がる情景に、吸い寄せられていました。

 恐れと憧れがない交ぜになったひとみで、くるみは深海に魅入っていました。もう、いっそ、何が潜んでいるかわからないうずのなかに身を投げ出してしまいたい、という衝動がくるみのなかを突き抜けました。くるみは、自分のなかの小さな勇気のかけらをかき集めて、そのなかに飛び込もうとしました。

――さあ、行くんだ。飛び込め、飛び込め。

 そう、くるみは自分自身をふるいたたせ、心の手で、背中を押します。その最中、くるみの頭に、お母さんの笑顔がよぎりました。

 くるみは知っていました。そこに身を投げ出すことは、お母さんとのお別れであることを。お母さんを悲しませることであることを。お母さんの笑顔は、くるみの深海の幻想をあっさりと消し去ってしまいました。そこには当たり前の街並みが広がっており、くるみはパジャマを着て情けない顔をした、ただの小学三年生の女の子なのでした。

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