第17話 しあわせが仕返し

 マイについて、またひとつ、わかったことがある。


 それは見れば見るほど、かわいいやつだ、ということだ。


「だめだよ」


「……」


「まだだめ、いいこだから」


「……ウゥ……」


 うずうず。


 落ち着きなくゆれている、小麦色の大きな三角耳とふさふさのしっぽ。


 一匹の子狐が低くうなりながらも、僕の言いつけを守り、へやの前で『おすわり』をしている。


(おりこうさんだなぁ)


 くすっと笑って、廊下を歩くこと三メートル、五メートル、十メートル。


 突きあたりにやってきた僕は、うしろをふり返ると同時にひざをつき、両手をひろげた。


「よしおいで、麦!」


「……!」


 ぴょこん! と三角耳が反応した次の瞬間、麦は前足で思いっきり駆け出す。


 とててて、っと一直線に廊下を疾走して僕の腕の中へ飛び込んでくるまで、あっという間。


「おっと! 麦は足がはやいんだねぇ。すごいねぇ」


 チワワよりちょっと小さいくらいの麦を、抱きあげる。


 野生の狐を見たことがないからたしかなことは言えないけど、麦も小柄なほうなのかな? 僕が難なくだっこできるくらいだもん。


「クゥ……」


「っふふ、もふもふだぁ、くすぐったい」


 だっこした麦のまるい背をぽんぽん、と軽く叩いていたら、うっとりしたように鳴いて鼻先を僕のほほにすり寄せてきた。


 淡い橙色の毛はふわふわで、ぬいぐるみみたい。


 こんなかわいい子に甘えられるんだ。僕までうれしくなっちゃって、麦をぎゅっとだっこしたまま、あてもなく廊下をぶらぶらする。



 お屋敷かってくらいにひろい客栈やどは、ファンさんたち商団御一行が貸し切っているらしく、あまりひとけがない。


 僕も、使わせてもらっている一室がある離れ内なら、自由に出歩いていいって言われてる。


 本日の護衛、松君ソンジュンさんのすがたは見当たらない。お昼休憩中なのかな?


 なんにせよ、だれにも見張られず、無邪気な麦に遊んでもらって、窮屈だった空気がうそみたいだ。


「ありがとね、麦」


「……?」


「こんなにのびのびすごせたの、ひさしぶりだよ」


 そういって笑ったつもりの僕は、つぶらな鼈甲飴色の瞳には、どう映っただろう。


 僕の肩に前足を置き、ひょこり、と上体を起こしてじっと見つめてくる麦は、なにを思っただろう。


 ふいに、そよ風がふく。


 腕の中が軽くなったような気がして、目の前にまばゆい小麦色の髪の少年がたたずんでいた。


「麦……?」


「……ん」


 突然ひとのすがたになった麦にびっくりしていると、距離を一歩縮められて、ふわりとつつみ込まれる感触があった。



 藍染めの袖に、つつまれている。


 麦に、抱きしめられている。


 目にした光景を、数秒後に遅れて理解した僕は、どんなまぬけ面をさらしていたことだろう。


 だれかに抱きしめられるのは、いつ以来だろう。


「……麦、どうして」


「……」


 麦は答えない。ぎゅっと腕の力を強めて、ぎこちない手つきで、頭をなでてくるだけ。


 僕がしてあげたことを、なぞるみたいに。


 そして近づいたからこそ、わかることがある。


「……ねぇ、僕たち、あんまり身長変わんないね」


「……」


「でも、麦のほうが、手がおっきいや」


「……」


「麦はきっと……おっきくなるよ」


 麦はしゃべることができない。


 声帯から声は出せるけど、舌がないから言葉にはできない。


 会話はいつも、僕の一方的なものだ。


 言葉を交わすことはできない。だけど。


「おっきくなって……しあわせになってね。それが、麦をいじめたやつへの、一番の仕返しだから」


「っ……」


「わ! 麦……」


 たまらない、とでもいうように歪んだ表情が。


 痛いくらいに抱きしめられる感覚が。


 ふれあった体温が。


 こんな僕でも、必要としてくれるひとがいるんだって教えてくれて、泣きそうになる。


「うぅ……ぁ……」


「……麦?」


 はくはくと、口を動かしている麦に気づく。


 なにかを言おうとして、でも言葉にはならなくて、もどかしそうに眉をひそめている。


「んぅぅ……」


 麦はふるふる、と首を左右にふってから、すこしだけからだを離す。


 それから僕の両肩に手を置くと、妙に真剣なまなざしで、まっすぐに見つめてくる。


 鼈甲飴色の瞳は、心なしか潤んでいるように見えた。


(うわ……やっぱり美少年だなぁ)


 とかなんとか、他人事のような感想をいだく僕は、実にのんきなものだった。


 息がふれるほど、ご尊顔が間近にせまってるっていうのに。


 キラキラかがやく瞳に、吸い込まれそう……と思った刹那、ふに、とやわらかい感触。


「……んっ?」


 唇に、なんかふれてるものが。


 なんだろう? 唇だ。麦の。……え?


「……! っふ……」


 がば、と顔を離す麦。


 どうやら、わざとじゃなかったらしい。


 でも、じぶんの唇にふれた麦は、ほほをほんのり朱に染めたまま長いまつげを伏せると、きゅっと唇を引き結んで──


 いまだ思考停止している僕に、もういちど、顔を寄せた。



 ふにゅりと、唇全体が押しつけられる。


 こんどは寝ぼけているわけでも、うっかりふれてしまったわけでもない。


 麦の意思で、僕に、口づけていた。


 永遠のように感じる、一瞬のうちの出来事。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る