第6話 どうもすみませんでした

 ……からだが、重い。手足が鉛みたいだ。


『おい、飯はまだか』


『知らないよ。アタシにきかないでちょうだい』


 しまった、もうそんな時間……?


 起きなきゃ……はやく。


『チッ……懲りずに寝坊か。たいそうなご身分だなぁ』


『あぁっ! お気に入りの披帛かたかけにしわが! まったく、洗濯もろくにできないの!』


 いますぐ起きないと……じゃないと。


『おいユイ! この糞餓鬼! さっさと支度しろ!』


『でないと、わかってるね!』



「──ごめんなさい、すぐにやります、だから殴らないで、おねがいします、おねがいしますっ!」



 飛び起きたそばから、寝台の外へ身を投げ出す。


 半狂乱になって懇願をくり返すけれど、はっと気づいた。


 土下座する僕の髪をつかんで、両ほほをぶつ平手や、僕を罵る金切り声が、いつまでたってもやってこないんだ。


「えっ…………あ」


 僕のへやじゃない。ゴテゴテした宝玉類にまみれた広いだけのあの場所とは違う。


 卓に椅子、寝台、化粧台、きものがけ。すべての調度品が紅木で統一され、清潔感あふれる寝室。


 寝台から転げ落ちるように打ちつけたひたいは、ジンジンと熱を訴える。脳が覚醒してくると、こんどは頭痛にみまわれる。


「そうだ、僕……村を、飛び出して……うっ」


 あの雨夜に起きた凄惨な出来事が脳裏をよぎり、嘔吐えずく。空っぽな胃からは、酸っぱいものがのどにせり上がるだけだった。


 十五年だ。僕を十五年間利用し、廃人寸前まで消費しつくしたあの夫婦は、もういない。殺された。……殺された。


「因果応報だ、ざまあみろ……ふふ、あははっ」


 口から笑いがこぼれる一方で、四肢が小刻みにふるえ出す。


「まさか、ほんとうに死ぬなんて……っ!」


 滑稽だな。「死ねばいい」なんてほざいたのはじぶんのくせに。その先に達成感とか爽快感とか、洒落たものは存在しない。


 あるのは、からだの芯から底冷えする恐怖だけだ。


「はっ、はっ……はぁ、あ」


 ガクガクと暴れるじぶんのからだを抱きしめて、浅い呼吸をくり返す。


 あの男に傷つけられたわけじゃない。だけど、でも、こんなに息苦しいのに、「生きてる」って言えるの?


「いき、なきゃ……」


 絨毯にひじをつき、足の底に力を込めて、思いっきり体重を押し上げた。


 裸足で室内を突っ切り、観音開きの木製とびらをぐっと押す。


「──動くな」


「……へっ……」


 そのときだった。ろくにあたりを見回しもできないうちに、視界を覆う影。


 一歩をふみ出した前傾姿勢のまま、ぴしりと凍りつく僕の喉笛に、ひんやりとした無機質な感触が押しつけられている。


「あんた、何者だい」


 頭上にふり注ぐのは、女性の声だろうか。すこし掠れた低音で、研ぎ澄まされた刃のような響きをやどしている。


「ここが人魚さまのご寝所だって、わかっての狼藉か」


 ……なにを言ってるんだ、このひとは。あんたこそ、どこを見てるんだ。


 つい腹を立てそうになって、あぁ、そうだったとふいに思い出す。


 たしかに、人魚じゃない。


「だんまりか。まぁいい、くわしい話をきかせてもらうだけだからね。いっしょに来てもらおうか──」


「うがぁっ……!」


 沈黙を抵抗と受け取られたのか。


 どす、とみぞおちのあたりに衝撃を食らう。鞘に入った剣が、水平にのめり込んでいる。


 こいつが、のどに突きつけられた硬い感触の正体らしかった。


「……なんなんだよ、もぉっ……!」


 ひっくり返った情けない声が出た。


 それが余計に歯がゆくて、眼球をつつむ水の膜が、にらみ返さなきゃいけない相手のすがたをにじませる。


「……ちょっと待て」


 ところが、次にうろたえたのは僕じゃなかった。


「やけに細いと思ったら……あんた、こどもじゃないか」


 はじめて気づきました、とでも言うように、いまさらな事実に言及される。


 とたん、背部でひとまとめに拘束されていた両手首を解放され、バランスをくずした僕は、尻もちをつくしかない。


「やせっぽちな坊やだね。そこらのかつらの木のほうが、よっぽどすくすく育ってるよ」


「……貧相でどうもすみませんでしたね」


 悪気はないにしろ、盛大にディスられたんだ。恨みがましく返してもゆるされるだろう。


「違った、華奢な美人さん、だ」


「べつに……男なのに、そうやってほめられても嬉しくないですし」


「悪かったって。いきなりどつかれてびっくりしたろ。立てるかい?」


 さっきまでの緊張感がうそみたいだ。


 女性らしい柔和な声音で、謝罪とともに手を差しのべられる。すこしためらって、


「……赤ん坊じゃないんで、じぶんで立てます」


 結局、そんな可愛げのないひと言で一蹴した。


「そうかい」


 生意気な僕に気を悪くするまでもなく、女性はかがめていた姿勢をしゃんと正す。


 ようやく詳細を観察できた彼女は、艶のある紫紺の髪と紫水晶のような瞳が印象的な、いわゆる美女だった。


 ぱっと見では、二十代前半くらいの外見。まなじりはきりっと上がり、僕よりも長身だ。目測で一七〇センチくらいはあるだろう。たぶんだけど。


 そしてなにより、僕を一瞬で拘束してぶちのめした身のこなし。とても素人とは思えない。


「あたしは艶麗イェンリー。ここの室でお休みになってるっていう人魚さまの、護衛をまかせられてね」


 なんだ、そういうことか。


 つまり、その人魚さまの寝所から出てきた不審者だけど、ひ弱そうなこどもだから見逃されたってわけか、僕は。


「ふはっ!」


「なんだい急に。変なきのこでも食べたか?」


 突然笑い出した僕のすがたが、脈絡なく思えたことだろう。


 紫の瞳を細めていぶかしむ女性へ、決定的なひと言をくれてやることにした。


「その人魚さまっていうの、僕だって言ったらどうします?」


 言い終わらないうちに、だれもいない室の、半開きだったとびらの開け放たれる音が、朝の空気にこだました。

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