閑話 猫か人間か
瞼を閉じていても眼に届く眩しい陽光。
睡眠の邪魔をするそれを遮るように、顔のすぐ横にあるもふもふの物体に顔を押し付ける。
柔らかな手触りと落ち着く匂い。
湯たんぽのような温かさ。
ぬるま湯の中を揺蕩うようなそんな心地よさに包まれ、それを抱く腕にぎゅっと力が入る。
” みゃおぉん ”
どこからともなく天使の鳴き声が聞こえてきた。
(ああ、なんて愛らしい鈴声……ここは天国か。できることなら一生この温もりに包まれて眠っていたい……)
無意識のうちに片手を動かし、その丸っこい頭を優しく撫でる。ゆっくりと、その毛並みを確かめるように。鼻先はそれに埋めたまま、存分にその存在を享受する。
すぐにゴロゴロと喉を鳴らし、すぴすぴと小さな呼吸を繰り返す音が聞こえた。
目で見なくともわかる。その有り余るかわいさに心臓がトクンと跳ねた。
ああ、なんてかわいい───。
「おい、目ェ覚めてんならいい加減起きろや」
夢見心地の気分を切り裂くようにバサリとタオルケットを剥ぎ取られ、強制的に眠りの淵から引き上げられた。
あまりの暴挙に眉根を寄せ、さらにもふもふにしがみつく。
「……なにしてくれとんじゃコラ。こちとらいま虎之助との逢瀬を楽しんでんだよ邪魔すんな」
「いいから起きろ。寝ぼけてんな」
「…うう……虎之助ももうちょっと寝てたいもんね?」
” みゃうぅ "
「ほら、こっちこい虎之助。ご飯やるから」
” みゃおーん! ”
カサカサと餌袋を振る音に反応した虎之助はぴょんっと耳を立ててトテトテと駆けていってしまった。
今の今まで一緒に寝ていたというのにあっさり食欲を取るとは。
自由で気ままなところがまさに猫だ。そんなところも愛らしい。
心地よい温もりもいなくなってしまったことで、泣く泣く上体を起こす。
ふわりと香るコーヒーの匂いと、テレビから流れる情報番組の音。それでここがリビングであることを思い出した。
「ふわぁ……」
手繰り寄せたスマホで確認した時刻は朝の八時を少しすぎたところ。
「……なぜ休日にこんな時間に起きねばならんのだ…」
「もう八時だけどな。つかそもそもソファで寝んな。体痛めるぞ」
「あー…そういえば首がボキボキするような………ん? 玲?」
「今さらかよ」
お行儀よく座った虎之助の頭を撫でてからご飯をあげるのは部屋着姿の玲。
世間から見れば激レアなその姿も、都からしてみればただの日常のひと欠片だ。上下黒のスウェット。モデルだろうとなんだろうと男子高校生なんてこんなものだろう。
「仕事は?」
「休み」
「ふぅん」
陽の光を浴びて一度伸びをした都は洗面所へ行き顔を洗う。
タオルで水気を拭き取って鏡と向き合えば、前髪をピンで留めた自分の顔があった。
都と玲は二卵性双生児だ。だから顔がそっくりというわけではない。
だが目の色とか地毛の色とか、あとは目元とか全体的な顔のつくりはよく見れば似ている。
つまり顔を並べてじっくり観察すれば十分に血のつながりは感じられるのだ。
というようなことを、双子をよく知る小野寺や佐々木が言っていた。
リビングへ戻ると、カリカリとご飯を食べていた虎之助が足元に絡みついてきた。ご飯中のこれはミルクちょうだいのおねだりである。かわいい。
仕方ないなとだらしなく頬を緩めながらも猫型の器に注いでやれば、にゃおんとひと鳴きして嬉しそうに舐め始めた。
やはり虎之助は世界一かわいい。かわいいは世界を救う。
「あれ、そういえば小野寺は?」
「じいちゃんのとこ行った。夜には戻るって」
「そっかー。小野寺も忙しいな」
「主に俺たちの世話でな。コーヒー淹れたけど飲むか?」
「あー、カフェオレにして。砂糖はいらん」
「おっけー」
いい匂いが漂うキッチンでは玲が同時進行で朝食を作っているようだ。
いつもは小野寺がやってくれているのだが、彼は定期報告と仕事を兼ねて時々祖父のところに行っている。
そういう時は作り置きをしていってくれるか、もしくは今日みたく玲がやってくれる。ちなみに都は家事に関してはポンコツなので滅多にキッチンには立たない。
渡されたカフェオレを飲みながら日経新聞を開く。
株を扱っている以上、世の中の情勢は一通り把握しておきたい。どんな些細なことでもそれが儲けのネタになるかもしれないのだから、多様なジャンルのニュースを見ておいて損はない。
ついでにその辺に置いてあった雑誌も数冊手に取りパラパラ捲る。それらの多くは現在朝食準備中の玲が表紙を飾っているものだ。
これらは決して都が書店で買ってきたものではない。
もちろん売れ出す前は玲が雑誌に載っているのが嬉しくていちいち買っていた時期もあったが、今ではそれもなんだか恥ずかしい。
それにわざわざ買わずとも、こうして玲が載っている雑誌は玲のマネージャーが置いていくのだ。おそらく都に見せるために。
せっかく持ってきてくれるのだからと一応都も毎回すべてに目を通す。
他のページに比べて玲が載ったページはわずかに、本当にわずかに都の手が長く止まるらしい。本人でさえ知らないことをこの家に来る大人たちだけは知っていた。
そうやってなんとなく目を通していれば、ふと、とあるページで手が止まった。
「あれ、こいつ……」
そこには、こちら(というかカメラ)に向かって緩く微笑む男がいた。
随分と綺麗な顔をしていると、容姿には一切の頓着がない都でさえ思う。
日本で最も白馬が似合う男。
世の女性たちを虜にする国宝級王子様フェイス。
見つめられて微笑まれた日にはもう恋をせずにはいられない。
なんてことを別に都が思ったわけではなく、雑誌にそう書いてあるのだ。
ついでにこの被写体の名は『
「……『碧』ってたしか旭がめっちゃ推してるモデルじゃなかったっけ? こいつのことを言ってたのか」
友人兼BL仲間である旭の口から、玲と同じくらいこの名が出ていたのを思い出した。
旭情報によればこの男も八代学園の芸能科にいるらしいが。
「うーん…やっぱどこかで会ったことあるような……そりゃ同じ学園にいたら見たことくらいはあるかもしれないけど……どこだっけか…」
「なにお前、樫野に興味あんの?」
「樫野?」
たまたま都の手元が目に入ったらしい玲が話を振ってきた。
玲の口からこの男の名前らしきものが出た時点で、ふっと記憶の糸が繋がった。
「ああ、こいつこの前廊下でぶつかった時にいたやつか」
「今思い出したのかよ」
この前、というのはあの不良三人組に追いかけられた日のことだ。
逃げている途中で玲を含めた全員芸能科であろう四人に遭遇した時に、たしかこの男もいたはずだ。
「……あの時もなんか初めて見たような気がしなかったけど、そうか。宮本さんが置いてく雑誌に高確率でこいつも載ってるんだった。そりゃ見覚えもあるわけだ……」
うんうんとひとり納得した都。
ちなみに宮本さんというのが玲のマネージャーをやっている人だ。仕事関係でこの家にもちょくちょく来るし、都ともわりと関わりが深い大人のひとりだ。二十八歳、独身。だが仕事のできる男である。
パラパラとページを捲り、また違う雑誌を開いては、そこに写る『碧』を眺める。
(ああ、やっぱりこの男……)
端正な顔を惜しげもなく魅せる姿を何度か見たところで、おそらく仕事仲間であろう玲に問いかけた。
「ねえ、こいつ。樫野だっけ?」
「本名は樫野碧な。そいつがどうした?」
「こいつさ。王子様とかなんとか言われてるけど、絶対裏表あるタイプだろ」
「へぇ、よくわかったな」
身内であろうと人気モデルの素顔は秘密にするのかと思いきや、まさかの即肯定である。
少しは仕事仲間のプライベートを守秘しようとかいう気概はないのだろうか。
「自分から訊いといてアレだけど、ここから情報が漏れて週刊誌とかにすっぱ抜かれたらどうすんだよ。こいつにすっごい恨まれんのお前じゃん」
「んなこと微塵も心配してねぇって。そもそもお前、人気モデルだろうが一般人だろうが興味なんてねぇだろ。無関心のくせに暴くだけ暴くのやめろよな」
呆れたように溜め息を吐く玲は本当に片割れのことをよく理解している。伊達に十数年の年月を一緒に生きてはない。
胡散臭い(と都は勝手に思っている)笑みを浮かべる雑誌の中の『碧』を一瞥し、世の女の子たちに人気であろう他のページのイケメンたちにも一応目を通して。
そして最後に、いつの間にかソファに座る都の脚にぴたりと身を寄せていた虎之助の尊顔をじっくり見る。
「はっ、虎之助しか勝たんわ」
「なにを当たり前のことを」
揃ってうんうん頷く双子の感性はやはり似ていた。
虎之助のあまりのかわいさにでれっと頬を緩めるところも似ていた。
人間の中でも確実にトップレベルの顔を持つ双子に愛でられ尽くされる虎之助は、みゃおんとひと鳴き。
果たしてこの状況になにを思っているのか。猫の言葉なんて誰にも分からない。
ただ。
すりすりと都の膝の上に身を寄せ、喉を撫でる玲の手に気持ちよさそうに琥珀色の瞳を細めるあたり、双子が虎之助に向けるものと同じものを、虎之助も双子に抱いていそうだ。
” にゃぁう ”
こうして人間よりも猫が優遇される雨宮家では、今日も今日とて虎之助がそのヒエラルキートップに君臨しているのだった。
八代学園の変わり者たち 夏風邪 @natsukaze_shiki
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