16

「たで~ま~」


 帰宅してリビングに入ると、アザラシのようにソファーで寝ていた姉ちゃんが上半身を持ち上げた。威嚇するゾウアザラシの体勢だ。


「あ、もう帰って来たの? 早いね。てっきり朝帰りかと思ってたわ」

「ヤるわけねえだろ……」


 中年オヤジみたいなセクハラ発言だな。


「ね、どうだった? 楽しかった? この前はなんか大変だったみたいじゃん」

「アァン? まあ、それなりにな。てか、疲れたからそこ座らせてくれよ」


 姉ちゃんを飼育員がアザラシに対してするようにどかしてソファに座ると、


「でもねえ、ほんとよかったわ。天音ちゃんとヒロが仲直りできて」

「……知ってたのか」

「そりゃあねえ……あんだけギクシャクしてるの見れば誰だってわかるっての。お母さんも多分知ってて知らんぷりしてたよ」

「え、マジで?」

「うん」


 親の心子知らずとはまさにこのことだろう。そう思うと、なんだか親不孝をしたみたいで申し訳なくなってくる。


「後で肩たたき券とかあげようかな……」

「アンタ高校生にもなってそれで済ませるつもり……?」


 姉ちゃんはテーブルに置いてあるマグカップからオレンジジュースを啜り、


「で、これからどうするの?」

「これから?」

「天音ちゃんのことよ。まさか元通りになってはい終わりってことないわよね?」


 流石にそこまで考える経験値が俺にはなかった。


「これからか。まあ、普通に仲の良い隣人さんみたいな付き合いでいいんじゃねえの? 向こうは向こうで恥ずかしがってクラスではいつもの塩対応だし」

「え~それじゃ面白くなくない? 私が」

「姉ちゃんのことはどうだっていいだろ……」


 姉ちゃんがいたずらっ子っぽい表情を浮かべて俺を見る。いつもは求めてもいない人生の先輩アピールをするのだが、黒い長髪に縁取られた顔には、同年代の友達みたいな表情が浮かべられていた。


「天音ちゃん、ものすっっっごく綺麗になったよね」

「アァ? まあな」

「クラスでもすっごい人気者でしょ?」

「彼女の周りには男女がいつも絶えないな」と批評家風に随想する。

「きっと告白も絶えないんだろうなあ。そしていつか素敵な彼氏さんつくって、デートにばかり時間使うようになって、私らみたいな昔の友達のことなんか忘れちゃうんだろうなあ」

「……何が言いたいんだよ」

「別にい? ただねえ、自分の気持ちに蓋して知らんぷりしてる男にヒロはなってほしくないなあって」

「あのなあ……誤解してるなら言っとくけど、俺は鷹宮を、そういう目で見てねえから」

「とか言っちゃって?」

「……つい最近まで罵倒してきた奴を好きになれって言う方が無理だろうが。まあでも、別に嫌いではないし、これからは仲良くしていきたいとは思ってるよ」

「……つまんないの」


 姉ちゃんはそう言うと、「部屋行くわ」と言ってリビングを出て行った。


 なんだか宿題を出されたような気分だった。それも、授業で習っていないどころか、古今東西、どんな言語でも未だかつて記述されなかったある観念を掴んで答えなければならないような。


 そんな感情は露ほどもない。それは事実である。しかし、それを予防線、ある種の保険のように思っている気持ちがあるんじゃないのかと問われて、自信を持って「ノー」と言えるだろうか?


 俺は鷹宮のなんなのか?


 鷹宮にとって俺はなんなのか? そして


 妹的存在とか幼なじみとか腐れ縁とか、うまい具合に包み込んでくれる単語が、泡のように胸のうちに浮かんでは、消えていく。しっくりこないというより、既にその場所を占領している何者かがそれらを適用しようとすると妨害してくるような、そんな気分だった。




***




 プレステの電源をつけてデュナオンを起動する。


 セーフティエリアであるニムドという街が、俺のホームグラウンドだ。海に面したこの国は、かつてザーミヤ大陸から渡ってきたフィドラ人が建設した国家だという設定になっている。フィドラ人は世界で先駆けて航海技術を確立したため、交易で財を成して現在に至るらしい。


 俺の操作するキャラクターは、白い砂浜の広がるフィールドに設置されたベンチに腰掛け、エリア限界まで広がる海を見ている。最近のテクノロジーの発達は目覚ましいもので、現実そっくりとは言わずとも、砂粒やその上に這う蟹の瞳、海の波打ちから海中を及ぶ魚のヒレに至るまで鮮明に見ることができる。このグラフィックのこだわりも、デュナオンがロングセラーのMMORPGとなっている理由の一つだった。


 進化し続けているのだ、このゲームは。


 そして俺が海を見に来ているのは、夏休みの海水浴に引っ張られてのことだった。


 現在、俺のアバターであるエルフ女性は、パレオのついた水色のセパレート水着を着ている。


 肌色は白で、髪は金髪。萌え系のグラフィックもあって、普通に可愛い。たまにリアル女性と間違えられて即結厨のおっさんからチャHの誘いが飛んでくるくらいだ。ネカマやってるわけでもないのに不思議なことである。


「しかし、海か……」


 モニターの向こうに広がる大自然を見ながら呟く。


 前回海へ行ったのは物心つくかどうかという頃で、当然記憶にはない。


 湘南の海はどんなところなんだろうか。インターネットで見ると、さして透明度の高くない海にやたら日に焼けたグラサンの男女がバーゲンセールのように詰め込まれていたが、俺が行く時はどうなっているのだろう。


 そんなことを思いながらぼーっとしていると、俺のアバターへと近づいてくるキャラクターがいる。


 ここら辺のサブクエストを進めている初心者かなと思ったら、そのキャラクターの頭上には『アネモス』という名前が表示されていた。


 すぐにゲーム内のメッセージが届いた。


『何してんの?』

『海見てた』

『なんで?』

『夏休みに海行くから予習してた』


 アネモス――すなわち鷹宮は返信せず、海の方へと向かった。水しぶきが光るエフェクト、物質が水を叩く音。


 鷹宮のキャラクターが波間をかき分けて海へ向かっていく。


 彼女のアバターが波を割り、白い足が浜辺の砂を蹴上げるところまで再現されているのを見ると、ゲーム開発陣に対する脱帽の思いが湧いてくる。


 彼女は無言で泳ぎ回った後、再び砂浜へ上がり、俺が腰かけているベンチから少し離れたところに立った。


『何してたん?』

『魚獲ってた。金策用の』


 ちょっと幻想的な光景だったのに台無しである。


『アンタって泳げるの?』

『プールの授業で25メートル泳げたから、海でも泳げると思う』

『ふーん』


 ……。


『え、お前もしかして泳げないの?』

『そんなことないけど』


 異様な速度で返信が来た。コイツカナヅチなのか?


『それよりもさ、地行かない?』


 「地」とはデュナオンにおけるコンテンツの難易度を指す用語である。ストーリーで攻略必須となるダンジョンなどには設定されていないが、エンドコンテンツとして実装されたものには、人・地・天という文字が付されていて、左から順に難易度が高くなる。


 鷹宮が誘っているのは地だが、それでも普通にやればクリアするのに数週間は必要となる難しさだ。それを「天気いいしピクニックいかね?」というノリで誘ってくる鷹宮はやはりオタクなんだなと再確認した。


『人集まるか?』

『いるんじゃない? 知らないけど』

『うーん、でも装備コンプしたからなあ』

『どうせ暇じゃん』


 そう言われるとぐうの音も出ないので、ついていくことにした。


『あ、そうだ』

『ん?』

『通話できる?』


 努めて話題に出さないようにしていた話を出されてしまった。


『分かったよ。今ヘッドセット出してくる』


 ノロノロと籠の中からヘッドホンを引っ張り出して装着し、その旨をチャットで報告すると、通話アプリで『アネモス』から着信がかかってきた。


 応答ボタンをクリックすると、


『……あー、あー、聞こえる?』


 少し低めの、透徹した声が、マイクのノイズを通して耳に通り過ぎた。

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