10

 今日の空は呆れるほどに晴れあがっており、迷子になっていそうな雲の一片さえ見当たらなかった。


 つい最近まで空を覆っていた梅雨の雨雲はどこへ行ったのだろうか。


 梅雨前線はオホーツク海気団と小笠原気団の接面で形成されるというが、どこか南の島にバカンスでも行ったのだろうか。


「南の島……寄せては返すさざ波……小麦色に焼けたエキゾチックな美女たち……」

「邪魔だから早く出ろ」


 玄関の上り框に腰かけながらぶつくさ言っていると、後からやってきた姉ちゃんに背中を蹴り倒される形で、玄関からドゥルンとまろび出る。


 折しも、隣の家に住む鷹宮も玄関から美麗に排出されるところだった。


 今までは向こうから異様に毛嫌いされていたから敢えて見ようともしていなかったが、透き通るような夏空の下で見る鷹宮の美人っぷりは、すごいを通り越してもはや怖いくらいだった。


 熱風が頬を撫で、鷹宮の枝毛ひとつ無い髪が風を孕んで舞うと、彼女と目が合った。


「あ……」

「……おう」


 昨日の今日ということもあり、お互いなんだかぎこちない。


「お、天音ちゃんも出るとこだったんだ。おはよっ」

「あ、お、おはようございます」


 鷹宮と姉ちゃんが話しているところは何回か盗み見たことがあるが、普段高飛車な鷹宮も、姉ちゃんの前では昔日の内気さが出るようだ。


「あれ、お邪魔だった?」

「いや、別にそんなことねえけど……なあ?」

「う、うん」

「そう? じゃあ私今日日直だから! じゃあね!」


 亜音速で自転車を飛ばして消える姉ちゃんに対し、「ならもっと早く家出ろや」と思いながら背中を見送った。


「相変わらずだね。晴菜はるなさん」

「まあな。姉ちゃんって感じだよ。……行くか、学校」

「うん」


 断られると思ったが、鷹宮はおとなしく俺の横に並んだ。


 風が鷹宮の明るい茶髪を吹き上げると、甘く爽やかなにおいが俺の鼻を撫でた。夏の訪れを告げられたかのようだった。


 何年ぶりだろうか。彼女とこうして並んで、一緒に登校するのは。


 中学時代はほとんど無かったし、もしかすると小学生以来かもしれない。


 昔は背も小さくおどおどしていた鷹宮は、男子の平均を上回る身長に成長し、背筋を真っすぐに伸ばして威風堂々としている。襟から伸びた首筋も子供のそれではなく、年月というものが人間をここまで変えるのかと、驚き入るばかりだった。


 やや見下ろす位置にある、綺麗な横顔をぼーっと眺めていると、鷹宮が俺の視線に気が付いて目線を上げた。


「何?」

「いや……なんかいい匂いすんなあと思って。柔軟剤?」

「ああ。これ香水」

「香……水……?」

「結構気に入っててさ」


 鷹宮が何か言っているが、世界観に存在しない言葉を投げかけられた俺はフリーズした。


 そうか、今時のJKって香水も遠慮なく使っちゃうんだな……。


 もはや成長したどころか、俺に対して人生3周くらいの差をつけていた鷹宮は、肩から提げていた通学用のカバンから白色のビンを取り出した。


「これこれ。ちょっと嗅いでみる?」

「え? ああ……」


 鷹宮が指でプッシュすると、噴出されたミストが俺の首あたりへとかかった。少し置くと、花みたいな匂いが俺の首から立ち上って来た。


「へえ~。なんか落ち着く匂いだな」

「そうでしょ。これ、1万あれば買えるよ」


 そう言って、と笑う鷹宮の顔が、フレグランスの大人びた芳香と妖艶な対照性を帯びていた。産毛の剃られた綺麗な額から、シャープな陰影を形作る顎先に至るまで、魔力を帯びたようだった。


「でも男がつけるのもなあ」

「今時男子もつけるって。香水くらい」

「バスケ部の連中とかも?」

「うん」

「でもなあ」


 見惚れているのが恥ずかしくて、誤魔化すようにアレコレ言っているうちに、学校の校門が見えてきた。


 そのまま何気なく学校にチェックインしようとすると、玄関のところで靴を履き替えている最中の二人のクラスメイトに出会った。


「あ、天音おはよ~」

「おはよ!」

「おはよ」

「おはござ~」


 最初に挨拶してきたのは佐々木ささきと言って、美術部に所属している真面目系女子だ。


 もう一人は高村こうむら。陸上部に所属しているスポティッシュな女子生徒。今日は朝の部活動があったためか、スポーツシャツのまま、上履きをつっかけている。ちなみに最後に挨拶をしたのは俺だ。


「え、てか隣にいるの笠井じゃね?」

「あれ? ほんとだ。珍しい組み合わせだね」


 目ざとくも二人はこの場における異分子である俺を発見する。普段鷹宮が俺を蛇蝎の如く嫌っているから、まさか二人で登校してくるとは思いもしなかったのだろう。


 だが、今日の俺は自信に満ちていた。


 何故なら週末の一件で、中学からの空白を埋められたと自負しているからである。それは通学中のやり取りでますます確信へと変わりつつあった。


 俺は堂々と一歩前に出る。


「いや、実は俺らおさなな――」

「だだだだだよねえ!」

「え? ――ぶへえっ!」


 突如慌てだした鷹宮に突き飛ばされ、下駄箱に顔面を思い切り打ち付けた俺の断末魔である。


「いやーなんかコイツと登校中にたまたま会ったんだけどそのまま付いてきてさー! マジストーカーって感じ?」

「え、ああ……」

「うん……笠井大丈夫?」


 鷹宮が何やら自己弁護を図っているが、二人は朝イチの玄関で発生した惨劇にドン引きである。俺は流血した鼻と口を押えて立ち上がるが、突然の凶行に理解が追い付いていない。


「ああ、うん。……いや、え?」

「あ、アタシ数学の宿題やってなかった忘れてたから先行くねじゃあまた教室で!」

「あ、おい!」


 陸上部顔負けのダッシュで階段を昇っていく鷹宮の背中に声をかける。


「今日は数学ないぞー!」

「え、いやそこじゃなくない……?」

「……やっぱ笠井って、変だよね」


 血をまき散らしながら叫ぶ俺の横で、佐々木と高村が何か言ったような気がしたが、残念なことに俺の耳はその言葉を拾わなかった。




* * *




 絆創膏を常備していた高村に分けてもらって応急手当を済ませてから教室へ行くと、殺人未遂犯はチャラついたオスと派手なメスのグループの中心に君臨しており、いつも通りの朝の光景に完璧に溶け込んでいた。


 何というか、今ここで写真を撮影し、「意味が分かると怖い写真」と題してテレビ局に送り付ければ番組で取り上げられるんじゃないだろうか。


 アナウンサー「実はこの写真には……つい10数分前、人の顔を下駄箱に叩きつけた凶悪犯が紛れ込んでいるのです」


(一同騒然)


「おはよ、ヒロ」

「おう」


 席に向かうとカオルが真っ先に声をかけてくる。続いてナオヤも、


「おっす。お前その傷どうした?」

「おう。さっき野良猫に襲撃された」

「へえ~。朝から災難だったな」


 と言ったきり、ナオヤは中断していた読書を再開した。薄情な奴だ。


 柔らかな、と言うには強すぎる朝の陽ざしを受けた教室内は既に蒸し暑く、男子はスラックスを折り曲げたり制汗剤をぶちまけたりしている。


 女子もワイシャツの裾をまくり上げるのに加え、スカートもギリギリ限界まで折りたたんでおり、なおかつその状態でバタバタと扇いでいるから非常に扇情的だ。


 こんな光景が朝から繰り広げられるこの時期のこの時間を俺はゴールデンタイムと呼んでいるのだが、「~部活の朝練を終えたオスガキどもを添えて~」なのが玉に瑕だ。


 いつもの朝だった。


 しかし俺はこのの下に潜んでいる狂気に気付いている。


 それは無論、鷹宮のことだ。彼女は何事もなかったかのようにカーストの頂点に居座り、我が物顔でスマホをいじっている。まさかあんなすまし顔をしている女子が、今朝俺を血まみれにしたとは誰も思わないだろう。


 しかし、なぜ彼女はあのような凶行に出たのだろうか。


 オフ会の日の解散時には、あの頃に元通りとはいかずともここからまたやり直せるような雰囲気になっていたというのに、また元の木阿弥になってしまったようだ。女心は秋の空と言うが、単に気が変わったのだろうか。


 真相を確認すべく、俺は彼女にメッセージを送った。



* * *



 昼休み。


 母さん手製の弁当をパパっと食べ終えた俺は、屋上へとつながる扉の前にある、踊り場のような空間に来た。並べられたスペアの机に腰掛けていると、待ち人がすぐにやって来る。


「な、なに? 急に呼び出して……」


 鷹宮は顔を青ざめながら、右手でしきりに左腕をさすっている。首に提げたネックレスが所在なさげに揺れていた。


「どうしたもこうしたもねえよ、え? 天音ちゃんよォ~」


 ポケットに手を突っ込んで近寄り、鷹宮を壁際に追い詰め、見下ろしながらガンをとばす。それから右足で壁を蹴りつけると、鷹宮の肩がビクンと跳ね上がり、そして恐る恐る窺うように、


「や、やっぱり怒ってる……?」

「ったりめーだろうが! どういう了見だよテメェー!」

「そ、それは……だって恥ずかしかったんだもん」

「アァン!?」

「だ、だから! ……今更アンタと幼なじみだって知られるのが恥ずかしいっつーかさ……これまでずっとアンタのこと散々キモいとかオタクとか言ってきたし。それで急に仲良くするっていうのも変じゃん? クラスの皆になんでか聞かれるのもメンドーだし……」


 両手の人差し指をツンツンと突き合わせながら、幼子のように鷹宮が言う。


「……まあ、分からなくはねえけどよ。危うく俺のあだ名が『血染めの笠井ブラッディ・ヒロ』になるとこだったぜ」

「ご、ごめんてばほんとに。でも、そういうわけだからさ。学校では今まで通りにしない? 急に普通に会話するのもおかしいし」

「……ああ、わかったよ。その代わり、一つ教えてくれ」

「なに?」


 俺は少し間をおいてから、


「お前、なんで中学からなったの?」


 今回のひと悶着の底に横たわっている、永年の疑問をここでぶつけてみることにした。それが氷解すれば、俺は納得できると思ったからである。


「……言いたくない」

「なんでだよ。教えてくれよ」

「やだ!」


 あくまでも強情にノーを通す鷹宮に業を煮やし、俺は鷹宮の顔を覗き込んだ。


「なんでだよ、教えろや! な、悪いようにはしねーからさ。へへ」

「いーやーだー! 無理! 離して!」

「お前がゲロれば済むことだろうが!」

「だって言いたくないんだもん!」

「言えよ!」

「やだ!」

「言え!」

「やだ!」


 と、何を言っても「やだ」の一点張りで、まさに立て板に水状態。これ以上押しても引いても無駄かな、と思った俺は、鷹宮から離れた。


「わかったよ。もう聞かねえ」

「あ……うん。ごめん」

「別にいいよ。今までだってお前に散々迷惑かけられてきたんだし」


 ついつい、心にもない嫌味を言ってしまう。案の定鷹宮は罪悪感に駆られた表情を浮かべ、そんな顔を見て、何やってるんだ俺はと自己嫌悪が湧いてきた。


「じゃあ俺、戻るわ」

「ああ、うん……」


 教室への道すがら、人間関係って異様に難しいな、と俺は改めて考えた。

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