7
土曜日になった。
今日は俺にとって人生最大の勝負の日だった。いつもより一時間早くアラームを設置し、女児向けアニメのキャラソンによって朝6時に起き、だらしなく腹を出して寝てた姉ちゃんを叩き起こす。
「ふがっ!?」
鼻提灯を破裂させながら目を覚ました姉ちゃんは、上半身を起こして目をこすり、垂れ流しになっていたよだれをぬぐった。
ヨボヨボのオランウータンみたいな顔でこっちを見る。
「……何?」
「教えてくれ」
「何を」
「ワックスのつけ方」
「死ね」
再びタオルケットをかぶって寝ようとする姉ちゃんの両脇を抱えて引きずり起こす。
「今日土曜日じゃん! 寝かせてよ眠いんだから!」
「男一匹が命をかけて今日に臨んでいるんだぞ! 聞かぬか!」
その後も抵抗する姉ちゃんに対し、大音量でアニソンを流し続ける拷問を行使したことにより、起こすことに成功した。
「おはよう」
「……朝ごはん」
「今作るから1階に降りようぜ」
俺は台所に立ち、トーストを焼きながら目玉焼きとベーコンをこしらえた。普段は母さんが食事をつくるのだが、休日は寝ているので俺や姉ちゃんがつくったりしている。
寝ぐせでボサボサの姉ちゃんの頭が揺れるのを見つつ、朝食をとり、歯を磨いて顔を洗っていよいよ身だしなみの段になった。
「一応ネットで調べて評判がよかったやつを何個か買ったんだよ」
洗面所に色とりどりのパッケージングがなされたワックスを並べていく。どうもソフトやらハードやらマットやらウェットやらで色々な種類があるらしいのだが、そういうことにとんと疎い俺は思い切って小遣いをはたいたというわけだ。
「ふ~ん。どんなスタイルにするの?」
「スタイル? 逆説使いとか憧れるけど」
「誰がめだかボックスの話しろって言ったのよ。ヘアスタイルのこと」
「…………………ああ~。何も考えてなかった」
姉さんは美人にあるまじき顔の顰め方をした。
「あんたねえ、あたしの貴重な朝の時間を奪っといてそのザマは何?」
「ごめんなさい」
「素直に謝れるならよろしい。で、あんたってややロングのナチュラルヘアって感じだからさ、ぶっちゃけつけなくてもいいと思うんだよね」
「え、でも不潔感ない?」
「あんまりダメージがひどかったり癖がすごかったりするとそうだけど、あんたの場合はそうでもないし。まあ、センターパートにしとく?」
「よく分からないけどよろしく頼む」
姉ちゃんは面白そうに俺の頭をわしゃわしゃといじくる。そして「髪濡らして」という指示が来たので言われるがまま頭をびしょ濡れに浸した。タオルで水気を取ると、姉ちゃんがドライヤーでやや乱暴に俺の髪を乾かしてくれる。
「……!」
「え!? 何!? 聞こえなーい!」
「ヘアセットはドライヤーで8割決まるの!」
「へえ~」
そんな豆知識を教えてもらっていると、いつの間にか髪が乾ききっている。鏡を見ると、なんだかそれっぽい髪形になっているイケメンがいてビビった。
というか俺だ。
「やっぱアタシに似ず顔はパッとしないなあ」
俺の心は一瞬で折れた。
「じゃ、アイロンかけてくよ」
「え、ついに俺の顔がキモすぎて焼く気になったの?」
「違うわよ。ヘアアイロンね、ヘ・ア・ア・イ・ロ・ン。お分かり?」
姉ちゃんがカチカチと音を鳴らすそれは、確かに服のシワを伸ばす時に使うアイロンではなかった。
「ああ、姉ちゃんが服装に気合入ってる時に使うやつか」
「そうよ。これであんたの髪の毛をレオナルドダヴィンチみたいにする」
さらっと恐ろしいこと言わないでくれます? 頭頂部持っていかれるじゃないですか。
姉ちゃんの部屋まで連行され、化粧台の前に座らされる。俺は腹を決めてギュッと目を閉じた。果たしてここから実の姉による毛根蹂躙劇が俺の頭頂部で繰り広げられてしまうのだろうか。
そう考えながら目を閉じうつらうつらしていると、「ちょっと動かないでよ」と注意されたので睡魔をこらえる。目を開けてみると、姉ちゃんは俺の髪を一つまみずつつかみ、アイロンで挟み込んでいる。
「何してんの?」
「こうすればナチュラル感が出んの」
しばらく姉ちゃんに好きにいじらせていると、いよいよワックスを取り上げる。
「あんまガッチリセットするのもあれだから、柔らかいやつ使う」
「うん」
ワックスをつけた姉ちゃんの手が俺の頭をワシャワシャといじくりまわす。なんだかくすぐったい。
しばらくそれっぽく髪をいじると、
「はい、できた」
鏡をまじまじと見る。劇的な変化はないが、強いて言うとこざっぱり感が増したような気がする。
「ありがとう、姉ちゃん」
「飯、奢りね」
そう言って姉ちゃんは熊のようにのっしのっしと自分の巣へ帰っていった。二度寝するのだろう。
俺はカオルとの買い物で購入した服を身に纏い、姿見の前に立った。
「いいんじゃねえの?」
目の前には、ぱっと見イケメン風の男が立っていた。興奮であまり眠れなかったせいで充血気味の目玉が不気味だが、それ以外はかなりさわやか感が出ている。
手早く歯磨きと洗顔を済ませ、ハンドバッグを肩にかけて家を出る。
インドみたいにぎゅうぎゅう詰めになった電車に乗りながら、俺は今日のオフ会について考えた。
アネモスさんはさわやか高校生なのだろうか、それとも俺のような冴えない高校生なのだろうか。いずれにせよ、ネットのみならず、現実でも友達になれたらいいなと思う。新しい出会いは入学式以来だ。
ようやく池袋駅に到着し、スマホ片手にうろちょろしてはすれ違う通行人に舌打ちされつつ、右往左往していると、デュナオンのコラボカフェが入るビルにたどり着いた。3階に目指すカフェがあるが、アネモスさんとはビル入り口で待ち合わせする手はずになっていた。
『今ビル着きました!』
チャットアプリでメッセージを飛ばすと、すぐに、
『自分ももう着いてます! ビル前にいます』
と返信が来た。もうアネモスさんは到着してるのかと思ってスマホの時計を見ると、待ち合わせの15分前だ。向こうも張り切ってるらしいと思うと、思わず笑みがこぼれる。
『どんな服装ですか?』
と送ると、
『黒いトップスと黒いズボン履いてます』
というメッセージが来た。黒×黒の服装って何かオタクっぽいなと、クスリと笑い、キョロキョロ辺りを見回す。
「当てはまりそうな人は……」
行き交う人に待ち合わせらしく突っ立てる人、様々な人を見回すが、それらしい人がなかなか見当たらない。
なおも諦めずにキョロキョロしていると、不意に視界に、見覚えのある明るい茶髪が入ってきた。
「げっ……鷹宮……」
老若男女の入り混じった人込みの中においても、鷹宮天音の輝きというかオーラというか、とにかくそんな感じの何かすごいものが放たれているのが目に見えるようだ。
黒のオフショルダーに黒のショートパンツ、そして黒のブーツという黒一色のコーディネートは、オタクがやれば陰キャ丸出しになるのに、どうして彼女の場合はこんなにも似合うのだろうかと思わせる。初夏だというのに暑苦しさを感じさせない。
俺が思わず眺めていると、スマホから目を上げた鷹宮とばっちりと目が合ってしまった。
向こうが驚愕に目を開く。俺も同じような表情を浮かべていただろう。
見つめあうことしばらくして、俺が何か言おうとする前に、
「なに?」
と、鷹宮が口を開いた。
今日はロングの茶髪をウェービーにしており、ますます大人ギャルっぽい雰囲気だ。というか夜の街にいそう。しかし、アイロンで髪を整えたという点では俺も同じなので、同じ土俵に立ったはずだと己を鼓舞する。
「いや……こんにちは?」
「ふざけてんの?」
「……なにしてんの?」
「待ち合わせだけど」
そう言うなり、彼女はまた手元のスマホに視線を落とす。
誰と、と尋ねそうになったが、そういえばこの前のフードコートで男と会う約束があると話していたことを思い出した。
とすると、デートなのだろう。
疎遠になったとはいえ幼なじみのデートに鉢合わせることに妙な気まずさを覚えつつ、俺はなんとなく近い場所に、ビルを背にして寄り掛かった。すると、
「そっちは?」
と鷹宮が言う。
「俺も待ち合わせ」
「ふ~ん。……女と?」
「いや、男……だと思う」
「は? どういうこと?」
相変わらず鷹宮はぶっきらぼうだが、一方で、学校にいる時と比べて、会話のキャッチボールが続くことに気づいた。
「なんか、学校の時と違って普通に話してくれるんだな」
「何それ、どういう意味?」
「いや、なんかさ、学校だとマジで会話すらしないじゃん。俺たち」
「それは……なんというか――」
その次の言葉を待ったが、それきり口をつぐんでしまった。
無駄なことを言っちゃったなと思いながら、スマホにメッセージを打ち込む。
『すいません、なかなか見つけられなくて……!』
『いえいえ~。自分も知り合いに会って話しこんじゃってましたw』
『へえ~奇遇ですね。俺もなんですよ』
なるほど、アネモスさんも知り合いにばったり遭遇しているのか。
そう思ってぺちゃくちゃ話し込んでいる人を探したが、ビル前で待ち合わせているらしい人々は、スマホに目を落としているか、スマホで電話しているかのスマホに寄生された人類しかおらず、誰かとお喋りしている人はいない。
『すみません、やっぱり見当たらないです……汗』
『あ~今はもう話してないですからね。じゃあ、これから自分がちょっと思い切り伸びをしてみるんで、それで判別してください!』
『おけです!』
俺がその時を今か今かと待ち構えていると、不意に真横から「う~ん」という、やたらセクシーな声が聞こえてきた。
見ると、鷹宮が左ひじのところを、右手でつかみ、そのまま頭の上まで持ち上げながら発している声だった。
ボディラインが出やすい服を着ているせいで、いつも以上に強調される胸部が男子にとって目に毒だ。今もすれ違う若者からおじさんまでの幅広い世代の目線をほしいままにしている。
心なしか頬を赤らめた鷹宮が、
「……何見てんの?」
「いや、急に何してんだって思って」
「何って、普通に伸びしてるだけだけど」
ふ~ん、伸びねえ。
伸び。伸び。野比のび太。伸び。伸び。ノビーディック。伸び。ノビリティアズアサービス…………………。
…………………………………………………………………………………………え?
「お前、今……」
「しつこいなあ。何? さっきから。キモいんだけど」
鷹宮はあくまで平常運転の振れ幅の範囲内というところだが、こっちはそれどころじゃない。頭の中に台風が上陸した気分だ。
にわかに浮上した可能性を信じたいような信じないような複雑な気分で、まだこんがらがった頭を解きほぐしたい気分で、俺は鷹宮の方を向き、一歩前に出る。
「な、なに……?」
怯えたような表情を浮かべて鷹宮が後ずさった。
「エンシェント・ゴーレム……」
一歩。
「は?」
「暗黒騎士、白魔導士、黒魔導士……」
一歩。
「ちょ、な、なに?」
「アイスドラゴン、ギルガメシュ、宝探し……」
一歩。
「は? え? なに、噓でしょ。ちょっと待って――」
「地蔵、アネモス」
鷹宮がぴたりと止まった。
彼女も俺の発した言葉から真実にたどり着いたようで、すべてが凍り付いていた。
「やだ……そんな……やだ……」
この世の終わりに立ち会ったような鷹宮の顔。
対する俺は、どんな表情を浮かべているのだろう。
「ね、ねえ。嘘って言ってよ。お願い、笠井」
鷹宮が涙目で懇願する。
そういえば久々に名前を呼ばれたなあと、どこか他人事のように思った。
「お前がアネモス、俺が地蔵。つまり、今日会う俺のフレンドがお前で、お前がデートする予定だった男は、俺だよ。はじめましてか? 笑えねえぜ」
こうして。
俺たちのボーイ・ミーツ・ガールは再び始まったのだった。
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