第2話 微笑みの残り香

 見つけたぞ、という言葉が鼓膜を揺すった。


 いやしかし、と息を呑む声が次いで届いた。


 凛としていて強い女性。


 三百歳を越え、さっぱりとした性格の次期君主の彼女に対し、須佐ノ坊が抱いていた印象だ。


 四百五十二年前、人間の急襲に対し、天狗たちは混乱した。どう行動すべきかわからず、慌てふためく。そんな状況だった。すでに老齢であった先代の君主に代わり、いち早く反応したのが彼女だった。


 当時、天狗に兵団は存在しなかった。始祖の血筋とされる君主にうやまいとおそれれはあった。ある程度の統制もあった。だが、自然と共に暮らしているだけだった。


 逃げ惑う須佐ノ坊は、次期君主に続いて、二、三人の男が茂みの奥に消える姿をみた。


 須佐ノ坊が落ちた先には月魔がいた。男たちが集まっていた。そして天狗とは違う人種の者たちに襲われたことが、ぼんやりと明らかになっていることを知った。聞けば、月魔の兄、陽光ようこうもすでに戦闘しているということだった。


 須佐ノ坊は、月魔と共に男たちに加わった。戦場と化している場所に向かった。


 しかしそのあとのことは、よく覚えていない。


 獣に対抗する武器や収穫に使う刃物を持った天狗と、人を殺す凶器を持った人間が入り混じり、血が舞い、肉が飛び、喚く声が響き、人が倒れ、狂気が立ち、鉄が鼻腔と味覚を刺激し、眼前の男を打ち倒すことだけに支配されていたことは覚えている。


 だが、どれ程の人間を殺し、対峙する相手がどんなかおをしていたか、人間がどのように引いていったのか、自分たちがどうやって再び集まったのかなどはよく憶えていなかった。


 次期君主の姿がないことに皆が気がついたのは、狂乱が去ってからだった。声が届いたのは、そうして捜索にでているときだった。近くに、次期君主に続いて茂みに消えた男たちの死体があった。


 須佐ノ坊は酸素をき、月魔と共に声のもとへと駆けた。


 彼女はすぐに見つかった。


 理解できなかった。


 数人の男たちに囲まれ、彼女は倒れていた。


 おそらく、という程度でも、息をしていないことは捉えていた。


 横たわるその姿が理解できなかった。いや、理解しようとする脳を、胸が拒んでいたのだろう――。


 ひとりの男が月魔の前に立ちふさがった。

「月魔様、これ以上は」


 思考は止まっていた。なぜ動きださないのか。わからなかった。

 動きだすべきだ――それはわかっていた。


 だが、きっかけがみつからなかった。壁にへばりつき、うえに登らなければいけないのに掴む場所が見当たらない。登ってしまえば景色が広がるであろうにも関わらず――そんな感覚だった。


 月魔はなにも言わなかった。ただ、制止を押しのけた。


 押しのけるというにはあまりに静かで、抵抗する気があれば抑え込める力だったに違いない。しかし止めに入った男には、それができなかった。月魔は男に、息をすることさえ忘れさせていた。


 彼は姉に歩み寄った。見下ろす彼が、なにを思っているのか。佇むその姿からはわからなかった。


 次期君主は服が破かれていた。露出していない肌を探すほうが難しかった。腕や首にはあざがあった。抵抗しようとして、きつく押さえつけられたことが明らかな姿だった。


「待て」


 その場にいた男たちが人間たちのもとに向かおうとした時、制したのは月魔だった。


「滅するためには、退かねばならぬ」


 あの時だ、と須佐ノ坊は思う。


 理性、道徳心――。立ちふさがった男を動かしたものは、なんだったのか。


 詰まる所、感情だったのではないかと須佐ノ坊は考える。そして月魔も胸のうち、深いところで発火していたに違いない。周囲を呑み込むほどの底知れぬ感情が、辺りを震わせ、微細な振動が、男を動かすことを許さなかったのだ。


 あの瞬間から月魔は、自覚乏しい怒りと憎しみを包み、無意識的に胸の深海に沈めたのだ。凍える炎と焼けるような冷気が感情のない理性に覆われて、今もなおその瞳に影を落としている。


 同じ見方をする天狗は如何程か、と思う。


 生まれ落ちて齢五十までは、須佐ノ坊にとっても思いもよらぬ人の捉え方だった。


 殺し奪われ、迷い惑う三百五十年。


 その月日が、他者の考えを見失わせた。


 結果、感情という、自身に眠る不調和に触れることになった。その違和感ともいうべきものに、目を向ける天狗は如何程か――。


 それから戻って体制を整え、いくつかの小隊を組んで仲間の救助に向かった。むごたらしく殺されている村もあったが、荒れているだけで人気のない村もあった。


 しかし陽のあるうちに人間は見つからなかった。


 夜になっても捜索は続いた。


 葉の隙間から落ちる光をもと移動していると、多数の声がわずか鼓膜に触れた。音を消して近づくと、奇妙な光景があった。夏の夜、寒くもないのに、火を焚いて人間たちが談笑していた。


 月魔が静かな声を発した。

「好機だ」


「相手のほうが、三倍は数がおります。やつらは村を襲っているわけではありませぬ。捨て置き、休んでいる間に残りの村を探して避難させるほうが賢明と言えましょう」


 年長の天狗が制止すると、いや、と月魔が否定した。 


「やつらは、一時的な休息をしているのではない。動きだすのは明日だ。だが再び村を襲うに違いない。ここで一掃すれば、先回りした村以外にも先の被害が減る。幸い、やつらはこちらに気づいておらず、油断している。囲み、合図とともに矢を放てば混乱するのは必至。惑う相手を討つのは易い」

「しかしそう上手くは……」


 ちらりと覗き見る年嵩としかさの天狗をよそに、月魔は、なにかが奥に沈み込んでいるような視線を先に投げたままだった。闇夜の瞳で、月に照る人間を見ていた。


「必ずなる。三人一組で辺りを囲う。そしてやつらが散じはじめたら距離を詰めるのだ。だが、決してなかには入らず、逃げようと出てきた相手だけを討て。ふたりでこれに当たり、ひとりは矢を浴びせ続けるのだ。集団に飛び込めば、蟻のように群がるやつらに少数の我らが抗う術はない。しかし巣から放たれたそれのごとく、散っているやつらを摘んでいくのは容易なことだ。刻を逃してはならぬ。今が好機だ」


 年長の天狗は唸った。


 天狗は自尊心の強いものが多い。とくに年配者にその傾向が強かった。若年とみている者の言うことなど、本来は聞く耳をもたぬであろう。月魔が始祖の血筋故に、彼は辛抱強く付き合っているだけだった。


「言いたいことは理解できます。休息を終えれば、やつらはまた動きだすやもしれませぬ。私とて、ここで仕留められるのであればそうしたい。ですが、近づく前に気づかれては意味がありますまい」

「そうはならぬと言っている。見ろ」


 月魔は目を振るよう促した。見張りに立っている人間を見ろ――そう言っていた。


「手に、なにを持っている」


「……火、ですか」


「そうだ。あれでは戦闘に支障がでる。片手が塞がっている」


 須佐ノ坊もおかしいと思っていた。火を囲んでいる人間たちに抱いた疑問と同じだ。幾ら寒さに弱くとも不自然だった。夏の蒸す夜、そして満月だった。


「やつらは、夜目が利かぬとみた」


 まさか、と声を漏らした年長の天狗はそこで黙った。可能性を考えていたのだろう。


「火の周りにしかおらず、配る視線からみても明らかだ」


「保障はありませぬ」

 しばらくしてから年長の天狗は言った。須佐ノ坊は驚きに声を失った。

「見ていろ」

 と、月魔がすっと立ちあがったのだ。


 しかし、人間は気付いていないようだった。


 視線の先まではわからなかった。だが、顔は間違いなくこちらを向いていた。見えるのなら、反応を示さないのはおかしかった。掲げた火の明かりが届かない距離にあるのも確かだった。


「霧散すれば、火の元から離れたやつらはさらに視界を失う。重ねて言うが、討つのは易い」


 黙考した後、年長の天狗は答えた。

「……矢を射るまでに気づかれたら中止。これは、譲れませぬ」


 ――いいだろう。月魔がそう目で返したのが須佐ノ坊にもわかった。


 移動しながら、須佐ノ坊は胸の鼓動を強く感じた。屈んだりせず移動したことが関係していたのだろう。


 月魔の指示だった。屈めば尻が葉に当たる可能性が高くなり、さらに土を踏む音が立つのを助けるというのが理由だった。夜目が利かずとも、彼らがどの程度の聴力を有しているのかはわからなかった。見えないことを理解するためにも、立ち姿で移動するほうがよいというのが月魔の提案だった。


 脈が鼓膜を打った。汗が玉を作った。筋となった。滴るそれを自覚しながら、自分の呼吸が聞こえるようだった。息を詰めた。細心の注意を払った。相手に気づかれた場合の、落ち合う場所は先に決めていた。襲撃が中止になれば、年長の天狗にとっても損はなかった――。


 配置についた須佐ノ坊は、静かに弓を引いた。


 キリキリと弦を絞る音がやけに大きく聞こえた。耳元で囁く弓の音が、暗闇に滲んでいった。


 無論、囲んでいる天狗たちは木の傍ではあるものの、一様に立ち姿で狙いを定めていた。月魔の読み通り、人間たちに動きはなかった。やはり、見えていない――。


 そう、須佐ノ坊は息を呑んだ。呼吸が浅かった。苦しいことに気づき、全身が酸素を求めていた。


 ――限界だ。


 脳が喘いだ。自覚に苦しみ、腕が震えた。静けさを保ち、抑えることがもうできない――。


 そう思ったとき、ピュン、と音が風を切った。


 一本の矢が放たれたのだ。


 隣の者たちがすぐさま矢を放ち、波のように伝播しながら三十メートルほど先の人間たちに次々と撃ち込まれた。


 息が緩み、腕が解放された。矢が離れていった。数秒と経たず、囲んでいる天狗たちの一斉射撃がはじまった。


 ぐおッ――。

 撃たれているぞッ――。

 敵襲、敵襲ーッ――。

 どこだ、相手はどこだーっ。


 途端、喧騒けんそうに包まれた。混乱が生じ、ひとりふたりと集団を離れる者が現れると、離れていく人間がぼろぼろと出てきた。隊長らしき人物が制止の声をあげているようだったが、悲鳴や逃げ惑う足音に消されていた。


 雑踏から離れる人間は、待ち構えている天狗に気づいたときはすでに遅く、迎え撃つ準備が整う前に血を噴いた。


 樹木の影からの急襲が、一層と功を奏したのだ。


 なかに残った人間たちは矢に討たれ、反対に、反撃に放たれる矢は闇を撃つばかりだった。


 襲撃は、その場の動く人間をすべて屍に変えるまでつづいた。


 あとで聞いた話だが、陽光の率いた部隊は日中、襲われている村に遭遇し、多面的に攻撃を仕掛けてこれを救ったという。


 この初動が攻守の役割を決定づけた。


 月魔は闇討ちを仕掛け、生き延びた天狗たちは陽光のもとに統制されることになった。森羅では、直系の長子が次代の君主となる。長子の姫が亡くなったことで、次の君主となるのが陽光だったこともこの流れをつくった一因だった。


 人間たちが夜襲に備えるようになったとみるや、月魔は昼夜を問わずゲリラ戦を開始した。無論、窮地に陥ったことも一度や二度ではない。だが、この英断によって人間たちが疲れ、弱り、退いていったことに疑いようはなかった。


 民の身を案じる君主陽光と、人間を滅することに心血を注いだ月魔。


 反する性質が均衡を生み、攻守が一体となった。しかし費やす年月はふたりを離した。天狗を想う理性が、根底にある心が、時間を重ねるほどに、重なることが難しくなっていったのだ。


 吐くことができるのなら、須佐ノ坊は同盟に反対だった。


 だが承服している。人間と手を組まなければ、惨たらしく飢え、わめく気力もなくなる。いずれ叫ぶことすらできなくなるだろう。生への渇望かつぼうが、死にのぞむ気力を削ぐ。


 森羅は、北から北西に向かって寒河、西を平河、東を邪馬台という国に囲まれいている。それぞれ人間が統治する国だ。四百五十年余り、天狗の数も増えたが、人間の繁殖力は比にならなかった。そしてそれぞれの領土は、一定を境に拮抗するようになったのだ。


 だが近年、大陸の北東に広がる、鬼の国である阿毘あびが目覚ましい領土の拡大を西に向かってみせていた。その侵攻の勢いは激しく、寒河を西に押し込んだ彼らは、ついに森羅の北東にまで迫ってきていた。そこで対抗すべく、寒河、平河、森羅の三国同盟が成立したのだ。


 月魔が同盟に賛成できないのは無理ないことだった。突然襲われ、失ったのだ。理不尽に奪われ、殺戮さつりくが目を焼いた。その後、四百五十年余りのときを戦に費やしている。


 彼の意志の根は、姉の死という土壌を食っている。陽光もその死にざまを聞いているだろう。しかし直接現場を見ているわけではない。肉眼を通して焼き付いた光景が情動じょうどうの幹となり、育った精神は、陽光のそれとは比較にならないのではないか。須佐ノ坊はそう実感している。


 あの姿は脳にへばりつく。胸を焼く。血を煮て、身体を蒸気で満たす。そして気づかぬうちに理性を侵すのだ。同盟を結ぶなど、できるものではない――。


 回想の海を泳いでいると、須佐ノ坊の意識に、失礼、と部下の声が届いた。

咲耶さくや殿がお見えに」


 須佐ノ坊は部下に眼で答えた。立ちあがり、客間に向かう。


「少し、ふたりで話したい」

 部下が頭を下げた。出て行く彼を見届けた後で腰を下ろす。咲耶が口を開いた。


「お時間を頂き、ありがとうございます」

 はきはきとした口調だが、丁寧だ。須佐ノ坊は答える。

「かまわぬ。久しいな」

「ご無沙汰しております」

 須佐ノ坊は微笑した。


 寂しい気持ち、か――。


 胸のうちで、あざけりに似る笑いを重ねた。


「東は今も争い激しく、そなたの働き奮迅と聞く。自ら先陣に立って刃を交え、男児に勝るとも劣らぬとな……。無事でなによりだ」


 有り難く、と咲耶が頭を低くした。礼節を含んだ動作だ。


 過ぎゆく時を強く感じた。


 無作法ではなかったが、昔の彼女はもっとくだけた口調と態度だった。


「礼を言わねばならぬのは、我々のほうだ。東を抑えていればこそ我が国はある。月魔様は、すでに御戻りになられたか」

 いえ、と咲耶が否定した。


 脳から懸念けねんいた。胸が沈む。疑いが深まる。


 月魔は、何故とどまっているのか。


「邪馬台は今、西に対する足をとめた阿毘を警戒し、北の守りを固めております。故に我々も失った力を取り戻すことにそそぎ、さらなる強化を求めて動いております」


 急いで戻る必要はないということだろう。中央の天狗と、軍備を整えるためになにか交渉こうしょうしているのかもしれない。


「加えて、さらに東でも怪しい動きあり、と聞き及んでおります」

 須佐ノ坊の眉がわずかに沈んだ。


「さらに東――。蛇尾だび、もしくは尼河あまかわか」


 邪馬台の向こう隣は、南半分が、比較的小さな小鬼の国である蛇尾と隣接ている。北半分は、人間と小鬼が混在する国、尼河に面していた。


「その二国に、浄沼じょうしょうを含めた三国すべてです」


 浄沼は、大陸の東南端にある小国だ。


 つまり東に海があり、西を小鬼が住む蛇尾、北を尼河に囲まれている。河童の国だ。薄くすっきりした顔立ちの河童にはくちばしがあり、頭頂部には皿と呼ばれるものが乗っていて禿げかかっているように見える。眼の虹彩は黄色だ。


 須佐ノ坊は眉を曇らせた。

 三国と聞いて頭をよぎることがある。しかし受け入れがたい考えだった。


 浄沼は大陸で一番小さな国ではあるが、迫害された歴史があり、非常に好戦的な態度で国を強く保っているからだ。


「ご懸念されている通りにございます。同盟の動きあり、と」


 咲耶は表情を読み取ったようだ。須佐ノ坊にも隠すつもりはなかった。


 彼女は重ねて訊いてきた。


「どう思われますか」


「……どう、か。模倣もほうあざけることもできるが、賢明だと賛すべきだろう。西が難しいとみれば、自然、他国に目が向く。近年急速に国土を広げた阿毘と違い、邪馬台はもとより大国だ。鬼に知恵があるならば、地盤の固い邪馬台よりも、東をみ易しと考えるのが妥当」


 率直に言えば、と須佐ノ坊はつづけた。


「東南の三国が同盟を結ぶとは驚きだ。浄沼はおろか、蛇尾の小鬼たちも、人間と共存する尼河の小鬼を快く思っていなかったはずだ。いずれかの国に、よほどの知者がおるとみておくべきだろう。これは、我が国にとっても脅威となる」

「変わらずの慧眼けいがん、恐れ入ります」


 そう言う咲耶に驚いた様子はない。彼女も考えのうちといったところだろう。


 しかし、と彼女は言葉を継いだ。


 目に不穏ふおんが宿っていた。須佐ノ坊は胸のうちをけわしくする。悟られぬよう身構えた。


「――同盟が、必ずしも良い結果を生むとは限りません。我が国の、皆の考えは、須佐ノ坊様の御耳にも届いているはずです」


みな、と言うのは些か誇張だ」


「ですが、お気づきになられているのではありませんか?」


 国とは、住まう人だ。如何に君主の意向が第一とはいえ、理性が離れれば統制が乱れる。思想の土砂が崩れる。危機の波紋を生む。揺らめきは跳ね返り、戻ってくるだろう。政局を担う代表の天狗たちも、同盟に反対している者が大勢を占めていた。乖離かいりが生じているのだ。


 しかし――。

「わたしも、半生紀前から戦にこの身を投じている。無論、人間への不信は消えておらぬ。おそらく、憎しみもな。だが、人種や世代の違いを、我らも受け入れねばならぬのだ。五百年、天狗にとっては長くも短くもないこの時を、人間は五世代以上に渡り、至っているのだ。五世代……。半生紀前なら変わらぬ姿が想像できた。しかし今は違う。天狗の五代先など、想像がつかぬ……。人間もそうではないのか。我らの考えを次代の者たちへ着せることは、我欲を満たす行為だと思わぬか」


 咲耶は黙り込んだ。


 反論がないというよりは、言葉を慎重に選んでいるようだった。


 果たして彼女は口を開いた。


「……憎悪が、根底におありなのですね?」


 須佐ノ坊はなにも言わなかった。


「そのうえで、今おっしゃった選択を取ると」


 静かに顎を引いた。


 彼女はなにも言わなかった。ただ感謝を述べた。咲耶が最後に、とでも付け加えるように口を開く。


「近く、沙女しゃめ様が御戻りになられるとか」


 須佐ノ坊は頷いた。


 森羅の君主が臨終りんじゅうと聞いて、娘の面会を平河の君主は約束していた。見舞いにきた平河の人間たちが告げたことで、須佐ノ坊も知って間もないことであったが隠すようなことではない。準備に動きだしている者も多いだろう。咲耶が知っていても不思議はなかった。


「そなたは幼き頃の沙女様に、姉のように慕われていたな。城にとどまっている人間に代わり、君の見舞いへくることになっているのだ。無論、双方わたしが同行する」

 須佐ノ坊の言葉を聞いた咲耶は微笑み、退室していった。


 彼女の笑みは、なにを意味していたのだろうか。


 もやいた。


 その顔が、なぜだか悲しそうに映ったのだ。出ていくときの表情も硬質に見えた。


 この会話を通して咲耶がなにを思ったのか。


 これが須佐ノ坊を葛藤かっとう狭間はざまに落とすきっかけとなっていたことを、彼はまだ知らない。


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