名もなき大陸 ー八つ国軍記物語ー
向野 空
第1話 靄
――本殿。
天狗たちは、
――久しいな。
西から人間に同行してきた
半生紀。寿命半分程度の年月を天狗たちはそう呼んでいた。千年生きるとされる彼らは、その年齢に達する者もいるが、概ね八百年程で生涯を終える。故に、五百年を半生紀と言うこともあれば、四百年程度のことを示すときもある。天狗にとっての百年とは、元々その程度の感覚だった。
目まぐるしい変化を見せたのは、四百五十二年前からである。
突然の出来事だった。
人間が攻め込んできたのだ。
獣に襲われて命を落とす者はいた。しかし彼らは賢く、古くから知性があった。すでに生態系で地位を確立していた。故に関心がなかった。世の動向に無頓着だった。
知らぬ間に繁殖し、進化していった人間の
音が鼓膜を突いていた。泣き喚く振動は、誰のものか。わからなかった。自分のものか。他者から届くものか。声が響き、ぶつかり合い、積み重なっては膨張する一方だった。静けさはまるでもとからなかったかのように忘れ去られていた。
「右は手遅れだ。だが、決してやつらを生きては帰さぬ。左から回り込み、横から急襲せよ。私は残り、やつらを堰き止める。須佐ノ坊、共に残るか」
「無論――」
月魔、一五一歳。須佐ノ坊、五一歳。肉体には生気が満ちていた。天狗の身体の成長は、人間と等しく二十年程で充実する。盛りに達した肉体が、五百歳頃から非常にゆっくりと衰えていくのが天狗という種族だ。
彼らは森林が埋め尽くす森羅を生者の熱い吐息で包み、凍えるほどに死体を打ち捨てた。血と金属を
しかし彼女の死にざまを知る者は少なかった。
誰もそれを望まなかった。感情と理性が
湧いて血流を巡る感情――。不安定とも自覚せぬ精神。それが一体なにから生み出されるのか、須佐ノ坊にはわからなかった。自分を持て余すのは初めてだった。
だが、煮えて冷めぬ血潮は、尽きぬ動力だった。
須佐ノ坊と月魔がすれ違ったのは、
向かってくる月魔は、須佐ノ坊に目を振らなかった。
その姿にわずか、胸がざわついた。
背筋を走る感覚。悪寒というには乏しい。しかし確かなものがあった。
陰る瞳。刻まれた皺。より深みの増した顔の掘り。月魔の
――起こしてはいけない。
そんな言葉が脳を打つ。人生の
かつては戦火の興奮に、尊敬を交えて月魔を見ていた。わずかな感覚の歪み。自覚せずにはいられない。
「須佐ノ坊様、このあと、少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか」
声に引き戻された。咲耶に目を向ける。顔に表れていたかと心配したが、それはないだろう。態度を崩さずに答える。
「何用か。今でも構わぬが――」
いえ、と彼女はさっと視線を配った。
「この場では、控えたく」
悪い予感がした。
「そうか」
答える胸に疑念が落ちた。
わかった、とだけ短く告げると、咲耶が頭を下げた。機敏な動きだ。彼女は月魔の後を追った。一連の何気ない所作だが鮮麗されている。有能な戦士であることがそれだけでわかる。
須佐ノ坊は彼女の首に、革ひもがかかっていたことに気づいていた。衣服の下に隠れていたが、月魔が、咲耶の功績を称えて送った品が胸にあるのだろう。彼女の首飾りは、見せびらかすようなことがないよう隠しながらも、肌身離さず身につけていることから噂になっていた。誇示しないところが彼女らしい――そんな話を須佐ノ坊も幾度か耳にしていた。
須佐ノ坊が咲耶に出会ったのは、三百五十年に足りないぐらい前のことだった。まだ月魔と戦場を共にしていた頃の話だが、彼女は戦争で身寄りをなくしている。須佐ノ坊は咲耶を見る度に、複雑な感情を持て余さずにはいれなかった。
かつて彼は、本殿を訪れる際に咲耶としばしば顔を会わせていた。言葉を交わしていた。ふたりはよく月魔の話をした。それが共通の話題だった。また会話のなかで、月魔に救われたことや君主への感謝、武芸を習っていることや、君主の次女である
西との争いが山場を迎え、どうにか安定するようになってから本殿に
咲耶は月魔のもとに向かっていた。彼女はそのために修練を積んでいるのだとよく話していた。君主のために、君主が大切にしている
後三百年の間に、幾度月魔と咲耶が戦場を共にしたかは知れない。東は、いまだ激しく争っている。
――よもや、暗殺の相談ではあるまいか。
君主を見舞いに来た、
疑いが脳裏をかすめた。思考をさらっていく。須佐ノ坊は、人間たちを案内するために同行した。暗殺を成すための橋渡しとしてこれ以上の適任はいない。
気がかりが沸いた。脳が痺れる。彼は頭を振った。
無理な相談だ。死の際に立つ君主と言葉を交わし、その胸のうちを知った直後なのだ。
そう思う一方で、割り切れない気持ちもあった。
君主の選択に対し、背く気はない。今までも、そしてこれからもそうだ。だが決断が正しものだったかどうか、君主自身も疑っていた。同盟に対する疑問の声もいまだ大きい。
胸のうちには、うっすらと靄が居座っていた。
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