お客様一人目 植木育夫 その後
翌日、いつも通りに会社の座席につく。
もうすぐ始業時間だ。今日は遅刻ぎりぎりになってしまい、朝食も取れなった。
昨日は、あれから倒れ込むように眠ってしまい、そのまま朝になってしまった。
驚いて飛び出るようになんとか会社に来たものの、思わずおおきなあくびが出る。
一体何が起こったのかいろいろ考えたけど答えは出ず、怪しいものには近づかない、話しかけない、関わらないのが一番だと結論付けてもう何も考えないようにした。
「なんだよ、まだ働いてもいねぇのにもうあくびか!
植木はいい身分だな~
眠気覚ましにこれやっておいてくれよ!
ホッチキス!これだけは得意なんだからさ?
十時には使うから!よろしく~」
ニヤニヤしながら大嫌いな上司が自分の机の上に書類の束をドンと置く。
かなりの量だ・・・。
(何がよろしくだよ!自分でやれよ!ばーか!)
・・・とは言い返せず、目の前の書類の山にため息をつく。
仕方ない、やるか・・・。
またため息をついて、作業しようと思う。
・・・・思うだけだった。
どうしていいのかわからないのだ。
紙と目の前にある、ホッチキスと呼ばれる金属とプラスチックでできた赤い馬の頭のようなこの道具の使い方がわからない。
これで何をどうするんだっけ?
考えても触ってみてもよくわからない。
知っていたはずなのに、できていたはずなのに、わかっていたはずなのに・・・。
頭のどこかにもやがかかっているようだ。
書類の山とホッチキスを凝視したまま固まっていると、
となりの席から声がかかる。
「大丈夫?顔色悪いけど・・・あの人意地悪だから気にしない方がいいわよ?
ほら、手伝ってあげるから半分ちょうだい?」
「あ・・・すいません、ありがとうございます」
冷や汗をタオルで拭って、わかるフリをしながら隣の人のホッチキスの使い方の真似をする。うまくできなくて、針が曲がったり、止められたりできなかった。
知っていること、できてたことができなくなることがこんなに不安になるとは思ってもみなかった、一体自分はどうしてしまったんだと不安になる。
知ったふりをしながら数回繰り返して、やっとのことでホッチキスの使い方がわかり、作業をこなしているとまた上司がやってきて留めたばかりの書類束を一つ持ち上げてヒラヒラとさせる。
やっとできたホッチキスの留め方を見て、
「なんだよこの留め方!!きたねぇな!?
唯一の特技だったのに、これもできないんじゃもうほんとの役立たずだな!」
その瞬間、自分の中にマグマみたいな怒りが沸いて口から出た。
「うるせーな!だったら自分でやれよ!
他人を傷つけて自分が優位に立てるなんて思いあがってるんじゃねぇぞ!」
そう吠えて睨みつけると、
「ひゃッ!!・・・な・・・なんだよ!ちょっと注意しただけじゃないか・・・」
ぎょっとした顔であたふたしながら、小さくなってそそくさとどこかへ行ってしまった。
言ってしまった・・・。
その気持ちでいっぱいになったが、悪い気はしない。
ホッチキスで書類の束の残りをパチパチと留めながらざまぁみろと作業を進めた。
隣の席から、
「やるじゃない」
と声がして背中をポンと叩かれた。
「はは・・・まぁ、たまには・・。」
愛想笑いを返して、小さくガッツポーズをしてみる。
上司はそれから自分に対して何か嫌がらせしてくることはなくなった。
その後、自分で文房具売り場に行って、ホッチキスを買いに行った。
驚くほどいろんな種類があることを知ったが、使い方はどれも同じようだったので、
シンプルなものを一つ買い家で練習をした。
練習・・・というのは大げさだったが、難なく使うことができるようになり、ほっとした。
ホッチキスだけでなく、ハサミ、のり、カッター、穴あけパンチ・・・
他にもいくつかの文房具の使い方を忘れていた。これには自分でも愕然とした。
そこで気が付いたのだ。
自分は支払いに文房具の使い方を支払ったのだとふと思った。
(感覚的には取られたといったほうが正しいが)
あの店主がなんの目的で自分から文房具の使い方を持っていったのかわからない。
ただ、あの店主といい読んだ作文といい、自分が生活しているだけではない世界が確かに存在しているのかもしれないと思うようになった。
目の前にある知っているはずのものが本当は全く違うものなのかもしれないと思うのだ。
特にスーパーの野菜売り場のじゃがいもを見ると。
そのあたりを今度またあの店主に会って話を聞いてみたいと思う。
そして、支払いについてはよく相談してからにしようと思う。
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