ひつじのさんの、じゆうちょう
ひとつ、わるくちを いい ませ ん
子供の字がのたくっていました。
黒いクレヨンで書き殴られたようです。そも、わたしの通っていた幼稚園にクレヨンはありません。正しくは、年少組の教室にしかないのです。
ひつじのさんの自由帳は、年長組のための仕様でした。クーピーや色鉛筆で丁寧に色を塗る訓練をするための自由帳なのです。そんな自由帳にクレヨンを使おうものならば、クレヨンのべたべたとした汚れを嫌う先生たちが黙っているはずがないのです。
なによりも、そこに記されているのは、ひつじのさんの綺麗な字ではありません。
字を構成する線はがたついていて、「る」や「ま」の丸い部分はそっぽを向いています。「ん」に至っては「え」に近い形をしていました。
ひつじのさん以外の──当時の取り巻きの誰かの字でした。
ひとつ、いじわる を しませ ん
同じ字が続きます。
ひとつ、うそ を いい ま せん
ひとつ、しずか にし ます
ひとつ、たたた き ま せん
五つの文章が見開き一杯に、縦書きで並んでいました。それだけです。前のページまでの牧歌的な絵の名残などどこにもありません。
次のページにも、子供の字がのたくっていました。けれど先ほどとは違うクセがあります。やはり、ひつじのさんの取り巻きの誰かが書いているのでしょう。
ひとつ、わるぐちをいいません
ひとつ、いじわるをしません
ひとつ、うそをいいません
ひとつ、しずかにします
ひとつ、たたきません
次のページで、ようやくひつじのさんの綺麗な字が出て来ました。
文面はまるきり同じです。
悪口や意地悪、嘘を言わないこと。静かにして暴力をふるわないこと。その誓いが並んでいます。
その次のページにも同じ文章が、別の子の字で書かれていました。
順当に考えるなら、最初のひとりが書いた文言をみんなが真似しているのです。
字の汚い子が三人と、ひつじのさん、そして程々の字の子。計五人が同じ文章をなぞっていました。
五つの誓いを五人が書き終えた次のページには、オレンジ色の折り紙が貼り付けられていました。
三角形の顔に三角形の耳を持つ、キツネの顔の折り紙です。
幼稚園で配られる折り紙は全て、開いて伸ばしてから回収されていました。何度も折り目がつき破れてしまっても、必ず先生に返す決まりだったのです。
それなのに、ひつじのさんのキツネには、無駄な折り目など一本もありません。
つまり、自由帳に貼られているキツネの折り紙は幼稚園で作ったものではなく誰かが個人的に、自分の家で作って貼り付けたものなのです。
そのページには、キツネの顔の折り紙が貼られているだけでした。前のページまでの、黒いクレヨンで書き殴られた乱暴さのない、綺麗なページです。
その次のページは、真っ白でした。
いえ、所々に茶色くなにかで引っ掻いた跡が残っています。光に当ててみるといくつもの傷がてらてらと光っていました。
どうやら木の枝か鉛筆の角で紙を擦って字を書いたようです。
──か お かえ し いつ おと
いくつもの文字が重なり合って光っています。一様に乱暴な、端的に表現すれば汚い字でした。ひつじのさんの字は見当たりません。
光を当てて観察したところ、「おかあさん」「かえって」「いつ」「おとうさん」「ぱぱ」「まま」「どっち」といった単語が読み取れました。
違和感を覚えつつ、わたしは次のページへ進みます。
同じよう茶色くこすれた跡がある他は、白紙のままです。
けれど、光を当てても言葉らしきものは見えません。ぐるぐると何重にも円を描いた跡が白く浮き上がるばかりです。
さらにページをめくります。
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