第8話

明隆あきたかさま……ちょっと気持ち悪い……」

「うるさいぞ、いち


 にまにまと口元を緩ませた明隆に向かって、水干すいかん姿の少年、壱は呆れたように肩をすくめた。口先ばかりは威厳を持ってたしなめた明隆だったが、やはりその表情は緩みきっている。

 沙映さえはあの後やはり熱を出して寝込んでしまった。どうも女房の話に寄れば、昨夜は寒い中月を眺めに出ていたらしい。

 なるほど、それで寝殿しんでんまで渡ってきたのだろう。月を眺めるのには、寝殿の簀子縁すのこべりから庭を望むのが一番雅だ。

 それにしても、まさか声が夢の外にまで漏れ出していたとは。いいや、もしかしたら現実に怨霊は現れていて、寝ている明隆にささやきかけているのかも知れない。

 そのときのことを考えると、いささかうんざりした心持ちになるが、それよりも沙映の言葉の方が明隆には重要だった。


「子かぁ……」

「できもしないくせに」

「うるさいぞ、壱」


 同じ言葉を繰り返したが、今度ばかりは明隆の表情にも苦いものが混じった。そう、できない。子を成すための行為をすれば、自分もろとも沙映も死ぬ。

 愛する妻にあそこまで言わせておきながら応えられない不甲斐なさに、明隆はぎりぎりと歯ぎしりした。


「したいかしたくないかと聞かれれば、そりゃぁしたいに決まってるんだよな……」

「死ぬけどな」

「……そうなんだよなぁ……」


 はあ、とため息をついた明隆は、御座おましの上にごろりと横になった。身体で大の字を作り、天井に向けてもう一度。

 新しい結界を試したが、今日はどうだろうか。だが、ここに現れても現れなくても、呪いが消えなければ同じことだ。とにかく、あの怨霊本体をどうにかしなければ。


「……つって、どうしたものかね」


 胡座あぐらをかいてどっかり座り込んだ少年の言葉に、ううん、と唸り声だけを返す。怨霊が現れるのは決まって夜半を過ぎた頃。明隆が寝ている間だ。一度ならず、起きていて待ち受けようと試したが、これはうまくいかなかった。

 毎晩現れるわけではないが、頻度は高くなっている。少し細くなった顎を撫でて、明隆は再度ため息を漏らした。

 壱の指摘によれば、目の下も隈が浮いているらしい。沙映に気づかれなかったのは良かったが、このままではもしかしたら――何もせずとも自分は死んでしまうのではないか、という考えが頭をよぎる。


(くそ……人間、寝不足でなんか死ぬもんか……)


 最後によく眠ったのは、いつのことだったか。ごろりと身体の向きを変えた明隆は、はっとして身体を起こした。


「沙映姫のところで眠ったときか……?」


 むしろ、そういう時ほど現れそうなものだが。


(なぜだ……?)


 沙映のところで休めば、怨霊は姿を現さないと仮定しよう。理由はわからないが、それなら、とまで考えて、明隆は再びごろりと身体の向きを変えた。


(姫にあそこまで言わせて……のうのうと一緒に寝ましょうなどと言えるか……?)


 それに、と盛大なため息をついて明隆はぼやいた。


「私がそもそも我慢できるか……」

「何言ってんだ、明隆さま」


 壱のさげすむような視線が突き刺さる。どうやら、明隆が何を考えていたかはお見通しらしい。

 苦笑を浮かべながら手を振ると、壱は肩をすくめ、すすっと姿を消した。それを見送って、明隆も目を閉じる。少しでも休んでおかなければ身が持たない。


(沙映姫……)


 そうだ、少なくとも――手を出しさえしなければ、万が一自分は死んでも沙映のことは守れるはずだ。もちろん、怨霊を退けられれば一番だが。

 何かが足りないから、退けられない。だが、取り憑かれ、その姿を夢の中で垣間見るようになってからずっと、それがなんなのか明隆にはわからずにいた。



 ――異変が起き始めたのは、それから幾日か過ぎた頃のことであった。

 初めは、女房たちが震えながら「女のすすり泣く声がする」と訴えた。これには、明隆もまぁ心当たりがある。だが、これまで明隆以外がその声を聞いたことはなかったはずだ。


(いや、違うな……)


 沙映だ。沙映は確かにあの日「女の声を聞いた」と言ったはずだ。

 どういうことだ、と頭を悩ませる明隆の元には、次々と安倍邸で奇っ怪な出来事が起きるという声が届けられる。

 藍も壱も、それとなく見回ってくれているが、一向に原因がつかめない。

 あの怨霊は、それほどの力はないはず――だった。

 だが、出現頻度が上がっていることを考えれば、もしかしたら力を増してきているのかも知れない。

 じりじりと体力を削られ、気力を削られ、そうして邸内にまでその手が及んで。もしかしたら、と明隆はぞっとするような不安に駆られた。


(このままでは、もしかしたら――沙映姫にまで良からぬことが起きるやも)


 一度頭に浮かんでしまえば、それはまるで今後確実に起きることのように思われる。

 悩んで、悩んで――そうして明隆は、断腸の思いで一つの決断を下した。



「……なん、と?」

「申し訳ないが、離縁して中務郷なかつかさきょうみや家に戻って欲しい」


 本来の通い婚であれば、このようなことは必要なかった。ただ通わなくなるだけでいい。だが、一度邸に迎え入れておきながら、こうして元の家に帰すなど――通常ならば考えられないことだ。

 いくらなんでも、沙映もそこまでは予想もしていなかった。たとえ、彼にほかに想う相手がいたとして――ただ見向きもされなくなるだけで、家に戻されるとまでは思いも寄らない。

 ましてや、今の沙映にとって明隆のそばを離れると言うことは何よりも辛いことだった。

 たとえ、一室に押し込められ、宮家でしていたように縫い物ばかりをさせられるとしても、ここにいる方がずっとずっと幸せだ。

 涙混じりの声で「嫌です」ばかりを繰り返せば、明隆が大きなため息をついた。


(明隆さま……呆れていらっしゃるの……?)


 びくり、と大きく肩が揺れ、心臓がぎゅっと縮み上がる心地がする。すると、明隆は慌てたように沙映の肩にふれ、穏やかな声音で語りかけてきた。


「……そうですね、あなたに宮家に戻れというのは、酷な話かも知れない。けれど、ここにいては……その」


 はっとしたように口をつぐんだ明隆を涙に濡れた瞳でまっすぐに見つめると、彼は観念したようだった。

 きっと、沙映の顔には「本当のことを話してくれなければ、絶対に頷かない」と書いてでもあったのだろう。


「いいですか、このことは他言無用に。いえ、沙映姫ならば、きっとお約束は守ってくださると明隆は信じます」


 こう前置きして語られた内容は、沙映にとってはただただ驚くばかりの内容であった。話したのが明隆でなければ、ただの与太話と笑ってしまったかも知れない。

 だが、沙映の目の前にいるのは陰陽少将安倍明隆おんみょうのしょうしょうあべのあきたか。どのような不思議があっても、決しておかしくはない。それでなくとも、沙映にとって愛おしい男の言うことを信じないという選択肢はなかった。そして。


「……であれば、私も共にその怨霊と戦います……!」


 がっしりと明隆の手を握り、沙映はそう宣言する。

 ほかに想う人もなく、夜な夜な聞こえる女性の声は怨霊。さらには、沙映のことは憎からず想ってくれているという。ならば、この問題さえ解決すればおそばには置いて貰える。


 そしてこの宣言は、沙映が――これまで、何もかもを諦めと共に過ごしてきた少女が、たった一つ譲れぬもののために戦うという、決意の表れであった。

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