第3話 薄っぺらの決心
みなさま、こんにちは。
さび猫ぺちゃこと申します。
後から知ったのですが、ワタシが薄っぺらの家で暮らす契約が保護主と結ばれる前に、薄っぺらの家では事件が起こっておりました。
薄っぺらの母トモ子は、そんじょそこらの猫嫌いという範疇には収まりきらないほどのスーパー動物嫌いでした。
いえ、正しくは過去形ではなく、現在もれっきとした進行形の動物嫌いです。
小さな虫から、犬、猫、その他全ての小動物に対して、恐怖と嫌悪感しか抱けないという体質を持っております。
愛する(触る)事ができるのは、お庭に植えたお気に入りのバラと、玄関前に無造作に置いたすみれや小さな白い花々、そしてミモザの木、柿の木くらいです。
そんな母の元で育った薄っぺらは、ひとりっ子という事もあり、母トモ子から与えられる情報のみを浴びて育ちました。
物心付いた頃より、いかにペットとの暮らしはよろしくないものであるか、動物は汚いし、噛みつかれて怪我をするだけであるといった、今思えばなんの根拠も無い酷く偏った造り話でいっぱいでした。
特に”猫”にいたっては、一緒に暮らしている飼い主は、全員化け猫みたいな顔になってしまって恐ろしい、あの女優も、この女優も、そしてかの女優も、やっぱりと思ったら、たいがい猫を飼っているのよ、と毎度テレビを観ながら、
それほどの嫌いようでした。
幼少の頃から、薄っぺらは、そのような偏った情報を浴びて育っていたので、外を歩いている野良猫を見る度に、オソロシイもの、汚いもの、触ってはいけないもの、抱き上げてみたりしようものなら、オソロシイ化け猫顔になってしまうかもしれない、、という、とてつもなく真実からはかけ離れた偏見の中で生きている子供に仕上がっておりました。
とは言え、薄っぺらも徐々に成長し、母トモ子以外からの情報も入ってくるようになっておりましたので、例えば、真逆のタイプであった父親が、動物には親愛の情しか抱かないような人(元農家の末っ子で、馬も飼育していたそうで)でしたから、あえて母トモ子の恐怖心を否定する事もせずであったとはいえ、父の子供の頃の馬とのエピソードなどを聞きながら、実は、世の動物達は、そこまでオソロシイものでは無いのかもしれない、と少しずつ感じ始めてはいたようです。
ただ、薄っぺらが小学生の頃、何度も野良猫を触っては、驚くほど目が痒くなり、目の中の何か出てはいけないものがデロンと出てしまって腫れ上がり、何度も眼科にかかる事がありましたので、その都度、やはり母トモ子の言うことは正しいのかもしれないし、たとえそうで無いとしても、自分は猫アレルギーを持っていて、触れ合ってはいけない体質なのだと、結構早い段階で認識していたようです。
中々の偏り生育と、アレルギー体質を兼ね備えた薄っぺらが、猫を家に迎えるというのは、かなり想像し難い事でありまして、どういう成り行きでそうなったのか、ワタシとしては特段興味は無いものの、薄っぺら達がこの話を、時には楽しそうに、時には感慨深げに繰り返し話すので、すっかりその経緯を理解してしまいました。
今では、彼らの思い出話を拾って来ては繋ぎ合わせるのも、中々楽しい時間となっています。
当時、薄っぺらは結婚をしておりました。
びっくりです。
ワタシの知っている薄っぺらは、ワタシと同レベルかそれ以上の神経質、ビビリ、そして見かけによらずの人見知り(ワタシは見かけ通りの人見知りですが)ですので、他のニンゲンと一緒に暮らすなんて、しかも結婚生活を営むというのは、想像しただけで恐怖です。
夫であったその人は、幼少の時分にミケ猫と暮らしていましたので、再びその生活を楽しみたいと常日頃より言っていました。
しかしながら、薄っぺらは、母トモ子仕込みの猫偏見ありニンゲンですので、夫の希望には聞く耳を持ちませんでした。
ずっとずっと無視していました。
しかし、ある日、夫は意を決して彼女に言いました。
「あなたは、母親と暮らしているの?それとも私と暮らして行くの?」
薄っぺらの心に鋭く突き刺さったその質問は、核心を突いたものでした。
結婚して5年が経っていました。
夫は、母トモ子の偏ったモノの見方で造られたもう一人のトモ子と暮らしている感覚がずっとあったのかもしれません。
この「質問」は、薄っぺらにとって転機となる言葉になりました。
自分の人生は、今後、この人と暮らして行くためにあるのであるから、今までの価値観を用いて生活をするのはもう止めよう。
薄っぺらは、その時そう決心しました。
この決断は、この後考えていた以上に不穏な結末を一旦迎えるのですが、先に申しますと、結果としては母トモ子の偏りに偏った価値観がまるっきりひっくり返るというハッピーエンドになります。
どんでん返しの一番の功労者は、自分で言うのも幅ったいものではありますが、ワタシの頑張りがあってのことというのは、相当遠慮がちに言っても変えようの無い事実でありましょう。
薄っぺら:「猫を迎えようと思います」
母トモ子:「あなたは、私が猫に嫌悪感、恐怖心があるのを知っていて、尚そのような仕打ちをするというのはどういうことですか」
薄っぺら:「仕打ちをするつもりは全く無いです、少しでもあなたが遊びに来た時に居心地が悪くならないように、できる限り環境を整えますので、どうか引き続き遊びに来てください、いつでもお待ちしております」
母トモ子:「それは無理です、これだけ言ってもこちらの気持ちを踏みにじるのであれば、縁を切ります、こんりんざい遊びに行くことはありません」
薄っぺら:「・・・」
母トモ子:「縁を切る覚悟が出来ているのであれば、好きにすれば良いでしょう」
これが、電話であったか、メールでであったかは詳しくは分かりませんが、「猫と暮らす」というだけの事を巡って、血の繋がった母と娘の会話としては、驚くほど大げさというか、今思うと、笑ってしまうほどの深刻なやりとりであったなと、感心すらしてしまいます。
この後、薄っぺらは泣きはらしました。
涙の理由は、母親と縁を切る事を決断して、夫と改めて暮らして行くのだと決意した自分自身の勇気に対するある種の称賛の涙というのもありましたが、やはり、実際に母親と縁を切るという重たい事実が辛かったのです。
ニンゲンは大体「いつも自分が正しい」で成っています。
それを変えることは、ほぼ無理でしょう。
「自分が正しい」は「自分を守る」ことに繋がっているいるからなのかもしれません。生きるためには自分を守らねばならないのですから。
その為、攻撃をして、同じ考えに変えようと試みます。それは、自分の為、そして、別意見の相手方の為と錯覚しているからだと思います。
別の意見は間違っていて、生きていく上での脅威になると信じてやまないのです。
大体のニンゲンはこれです。
まれに、自分の意見がグラグラ揺らいでいて「優柔不断」と呼ばれるようなニンゲンがいます。
色々な角度からモノゴトを見ようとするあまり、自分の意見がどっちつかずになっていて、筋が通っていないと、場合によっては修正を強いられてしまう人たちです。
こういうニンゲンは、ワタシからすると、むしろ安心して見ていられます。
その都度その都度の状況に応じて、軽やかに変化できるからです。
にょろにょろとその時々の状況に大じて
話がそれました。
母トモ子と縁を切った薄っぺらは、良い年をしながら、子供のように沢山の涙を流しました。
そして、たくさん泣き切ったところで、急におかしくなって来ました。
なんだか笑えて来ました。
これが吹っ切れたという事なのでしょうか、いよいよ数日後にワタシを迎えるというタイミングでしたので、ギリギリセーフで間に合いました。
この時の薄っぺらに言ってあげたいです。
結局、自分の価値観は、実は自分が作ったものではないから、そうそう信用できないものだということ。
そして、ニンゲンの悩み事というのは、時が解決するとよく言ったものですが、実母との縁切りにまで発展したこの騒動も、わりと近い将来に、笑って話ができるほどのちっぽけなものになりましたよ、と。
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