第11話 Preetablie

紺碧の海…

紅い人魚は彷徨さまよう。

淡い煌めきに満ち夏の斜陽を受けていた光の檻は何処いずこ

今はただ深い碧に沈む。

行き先もわからないまま、方向感覚もなく揺蕩うだけ。


いざ紅玉を探すとなると、てもないこの海は広すぎて気が遠くなる。

目的地もなくひたすら泳ぐことへの恐怖は拭いきれない。泳げないのではなく、泳ぎを遮断せざる終えない自分の弱さ…それを思い知らされる。

しかし、動かねば始まらない。

この紅い人魚は何も考えないことにした。

今は兎に角、水面へ浮き出て辺りの様子を探ってみる他なかった。彼女は意識を切り替え、無心で泳ぎ出した。

人間の無意識とは恐ろしいものである…意識している最中は何をやってもぎこちないものだが、一度ひとたび無心になれば普段手慣れたことはさも当たり前にできてしまう。

取り分け、彼女は泳ぎに長けている。

水を操る術はまさしく一流。

本物の人魚だ。




コポコポコポ…

規則的に気泡が湧き起こる。

人魚の息遣いが静かな海に微かに響いた。






『…この身体、すごい。』


特別水圧も気にならず、潜水や浮上する際に変化するであろう身体への負担が全くない。あの嫌な耳鳴りや、腹筋、背筋を通して内臓や肺へへ加わる圧力は微塵もなかった。やはり、私の身体は人魚になってしまったのだろうか。

このまま人間に戻れなかったら死ぬまで海の中かもしれない…一抹いちまつの不安が脳裏をよぎる。


ふと、幼少期の記憶が思考の脇に滑り込む。

滝の流れる純和風の趣ある旅館。

小ぶりな十字架のアクセサリーに一目惚れした…何故こんな時に限って思い出すのだろうか。

手頃な値段で年端もない少女が身に付けるのに相応ふさわしい、所謂いわゆる玩具フェイクである。あの時のお香のいい薫り…桃色の硝子玉。沸かしたばかりのお湯で入れられた濃厚な抹茶。添えられた和菓子の鮮やかな美しさ。口に含めば緑の薫りで一杯になり、まだ幼い私には苦く…急いで菓子を頬張った。

まるで走馬燈のように次々と記憶が湧き起こっては入れ替わる。

そんなことを繰り返しながら、どれだけの時間游およいでいたのだろう。気がつけば射し込む光は強まり、碧の境界線が白く波打つ格子を水一面に散らしては呼応していた。こんなにすぐ水面に着けるとは…夢でも見ているのか。

否、彼女の身体は最早もはや人ではない。魚同然である。



『…こんなに水の中にいたのは何時ぶりだろう。』


水面に辿り着くまでどれほど泳いだのだろうか…髪は乱れ、目は虚ろになり、もたれ掛かった岩礁に肘を絡ませている。


泳ぎ疲れた人魚はただ独り…ぼうっと霞懸かる月を眺めていた。



ちゃぷんっ…と全身を軽く沈ませてみる。


『手…全然ふやけてない。やっぱり、人魚になったんだ。…これからどうしよ。』


己の手を水面に付きだし、今後について考える…家族は、友人は、人生への想いは徐々に暗く重苦しく…絶望へと変化する。それでも、諦められない。このままでは駄目だ…打開策はないのだろうか…何とか思考を巡らせようとした矢先であった。


…ッザバンッ…!!!



世界が反転した。

ふと黒い影が目の前を覆った瞬間。






巨大な魚が深紅の人魚めがけて降ってきた。

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