第9話 潮風タルト

ありったけの風を全身に受けて

男は海を堪能していた


己の身に起きた変化にさえ気付かずに…



まぶたを開けば巨大な月。

夜の海に月と俺だけが揺蕩たゆたっていた。


『これは…夢か。…きっと疲れて寝ちまったんだな。』


いつめるとも解らない夢に微かな心地好さを覚え、このまま楽しむ気さえしていた俺は、ある事実から目をそむけていた。

…と言うより、忘れていたに等しい。

俺の意識を叩き起こしたのは、白金ぷらちなを纏って大きく羽ばたく『翼』である。


「嗚呼ぁぁぁ…やっちまったか…。」


声にならぬうめきを溜息に変えて…ほんの少しの後悔が背中をかすめたが、酷く懐かしく落ち着いた心持ちでちゅうを舞う。

こんなことは何時いつぶりだろう…

もう何十年も空を飛んでいなかった。

名を変え、姿を変え、人の世にまぎれ生きながらえて来た…こんなふうに本来の姿を現すことに躊躇ためらいさえなくなる程。

そもそも、忘れ果てていた。

気が遠くなるほど仕事の山に追われては、また繰り返し…人間なんてそんなもん。

皆同じような格好をして、皆同じような日常を送る。平穏とは名ばかりの雑踏とほこりにまみれすさんだ生活。押し寄せる人波を掻き分けて、毎日スーツにしわを刻みながら生きている。その皺さえもアイロンがけしては伸ばし…乗車率120%の灰皿から漏れ出た吸殻すいがらを拾い上げては袋へ投げ入れ、鏡越しにべったりとクリームを撫で付けては無精髭ぶしょうひげを剃り落とす朝。くまをなぞる気力も体力もがれ果てた男鰥おとこやもめの日常に嫌気が差し………

そういや俺、人間じゃなかったっけ。

そもそも何のために此処ここにいるのか………

忘れかけていた目的は何とか繋ぎ止めておく…正直かなりヤバい。

これがワーカホリックって奴か。


男は独り月夜に遊びながら、長い指で軽く額を押さえふと我に返る。否、現在天使に還ったばかりなのである。


『嗚呼、くそっ。やっぱり…あの紅玉るびー只者ただもんじゃなかったか………嫌な予感だけは当たるんだよなぁ。』


繰り返す連鎖を断ち切るために再び目醒めざめた己の姿…普段めっきり使うことはなくなった自身の能力も有り余っている筈であろう。

よろめきながら不馴れな様子で空を漂ってみる。まるで一度も飛んだことがない、とでもいうように不自然かつぎこちない…かえったばかりの雛鳥を連想させる姿である。

何度か羽ばたきを繰り返すうち、空気を掴むすべも風圧に耐える術も、身体が思い出し始めた。そっと潮風に沿って飛んでみると、身体が自然と動き、きしんでいた翼が次第に滑らかさを取り戻す。多少不恰好ではあるが、何とか白金ぷらちなの翼に見合った飛翔を数回繰り出していた。


『こんなことになるんだったら、最後に一服しときゃ良かった………取り敢えず紅玉るびーの検討つけとかねえとな…。』


車内に残した煙草が無性に恋しくなる。

こういう時こそニコチンが必要だ…百歩譲ってカフェインでもいい。悔やまれるものの、舌打ち一つで気を紛らわした。


名残惜しいが…致し方ない。

今は仕事優先だ。


男はすっと深く息を吸い込む。

両腕と共に白金色の翼を大きく広げた。

海面うみずらに月影と彼の姿がしたたる。


雲がうねり、星空はねじれ、無数の気流が男に纏わりついていく。複雑な空気の流れを掴むように、翼はより大きくしなった。

一層激しさを増していく気流から五感が刺激され、皮膚をかすめる全ての空気が自分に味方する。触れ合う風の音も、波立つ海原も…一面白金ぷらちなに染まる。


その異様な雰囲気の一帯を、月だけが優しく見守っていた。


水蒸気が白い煙を上げ…男の身体を包み込む。

繊細な羽の動きに鋭敏さが加わった。

爪先から指先までピンと張った糸のように。


…懐かしい。

感覚が研ぎ澄まされていく。




その夜

男は風を支配することを思い出した。




海原を吹き荒れる風をき込んで、勢いよく舞い上がる。



高く…高く…



速く…速く…





満ちゆく月に触れるよう

天使は弧を描いた。

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