第9話 潮風タルト
ありったけの風を全身に受けて
男は海を堪能していた
己の身に起きた変化にさえ気付かずに…
夜の海に月と俺だけが
『これは…夢か。…きっと疲れて寝ちまったんだな。』
いつ
…と言うより、忘れていたに等しい。
俺の意識を叩き起こしたのは、
「嗚呼ぁぁぁ…やっちまったか…。」
声にならぬ
こんなことは
もう何十年も空を飛んでいなかった。
名を変え、姿を変え、人の世に
そもそも、忘れ果てていた。
気が遠くなるほど仕事の山に追われては、また繰り返し…人間なんてそんなもん。
皆同じような格好をして、皆同じような日常を送る。平穏とは名ばかりの雑踏と
そういや俺、人間じゃなかったっけ。
そもそも何のために
忘れかけていた目的は何とか繋ぎ止めておく…正直かなりヤバい。
これがワーカホリックって奴か。
男は独り月夜に遊びながら、長い指で軽く額を押さえふと我に返る。否、現在天使に還ったばかりなのである。
『嗚呼、くそっ。やっぱり…あの
繰り返す連鎖を断ち切るために再び
よろめきながら不馴れな様子で空を漂ってみる。まるで一度も飛んだことがない、とでもいうように不自然かつぎこちない…
何度か羽ばたきを繰り返すうち、空気を掴む
『こんなことになるんだったら、最後に一服しときゃ良かった………取り敢えず
車内に残した煙草が無性に恋しくなる。
こういう時こそニコチンが必要だ…百歩譲ってカフェインでもいい。悔やまれるものの、舌打ち一つで気を紛らわした。
名残惜しいが…致し方ない。
今は仕事優先だ。
男はすっと深く息を吸い込む。
両腕と共に白金色の翼を大きく広げた。
雲がうねり、星空は
一層激しさを増していく気流から五感が刺激され、皮膚を
その異様な雰囲気の一帯を、月だけが優しく見守っていた。
水蒸気が白い煙を上げ…男の身体を包み込む。
繊細な羽の動きに鋭敏さが加わった。
爪先から指先までピンと張った糸のように。
…懐かしい。
感覚が研ぎ澄まされていく。
その夜
男は風を支配することを思い出した。
海原を吹き荒れる風を
高く…高く…
速く…速く…
満ちゆく月に触れるよう
天使は弧を描いた。
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