第5話 溺れる人魚

『なんでこんな所に宝石が…?』


今日は貸し切りの筈…叔父が市の職員だという友人に頼んで、泳ぎを忘れた私のためにこのプールが用意されたのである。都会では存分に練習できまいと友人に連れられ、この田舎でひと夏を過ごすことになった。友人の実家から通える距離で、一人きりの自由な夏休みを堪能する…昨年、夏休みの練習中に起きた怪我は私の自信を奪い去った。それ以来プールを目にする度、足枷あしかせのように纏わりついた苦味を思い出していた。それなのに…此処から何かが変わる気がした。

ウォータースライダーや噴水、流れるプールなどがある遊楽施設の大規模なプールは市の中心街に程近く、人気ひとけのない此方こちらを快く貸し出してくれたのである。2年前にリフォーム済みで真新しい上、町外れにあるので利用客はほとんどど居ない簡素なプール。貸し切りにするため2~3日前から職員さんが点検してくれている筈…プールサイドには石ころ一つ落ちていなかったのに。


コポコポコポコポ…しばらく潜水して考えてみるが、そろそろ息がもたない。彼女は息継ぎをするため水面へ向かおうと身体をひるがえした。途端とたん、背後から凄まじい水流と共にうごめく紅玉の闇が沸き起こる。驚きながらも水上を目指そうとするが、紅玉るびーの波に呑み込まれてしまう。必死でもがくものの、あかに染まった波が手足に絡みついて離さない。無数の気泡が爪をかすめ、指先から腕へ、爪先から太股ふとももへと辿たどる。水流をなぞる肢体と黒髪はしなやかさを増し、煌めくその姿は…まるで紅玉ルビー色の人魚さながらに美しい。


…チャプンッ…

一際ひときわ大きな波紋が広がる。


彼女は闇へ吸い寄せられるように、突如姿を消した。



絡みつく無数の気泡と激しさを増す水流の中で、まぶたは堅く閉じたまま…縮めた身体をゆだねるほかなかった。夏の午後に輝くアクアブルー…昼下がりの斜陽に乱反射する水面みなもは一変し、凶悪な紅玉ルビー色のうねりが私に襲いかかる。簡素で平穏なプールサイド、夏休みの初日に相応ふさわしい一日になると勝手に思い込み始めていた。それなのに…この奇怪極まりない出来事は何なのだろうか。一体なにが起こったというのか。


其も此も全部


『…私が泳げなくなったせい?』



ピーッ!!!

笛のが水音を横切った。

一閃を描くように水飛沫さえつらぬいて…耳をつんざく笛の響きに身体が強張こわばる。ピタリと動きを止め、選手全員が一斉にコーチを振り返った。

それから先は…思い出したくもない。怒号の末の選手交代。昨年の怪我を引きってか、私の泳ぎはまるで生気をうしなっていた。

「はぁ…。」

こぼれる溜息を隠そうともせず、ページめくる手を止めた。どこまで読んだのかわからない、内容もおざなりに捲るだけの本。こうして日がな一日、逃げ込んだ図書館で空を仰いでいる。怠慢極まりない学生生活を送っている私に、水泳の世界はもう関係ない…アクアブルーの世界は程遠く恋しささえも霞んでいた…それなのに。

授業中、教室の端から窓越しにプールが見え隠れする。あの透明な光を目にする度、胸の中で何かがうずき出す。居たたまれなくなるのと同時に、飛び出したい気持ちが先行して気がつけば此処に来てしまっている。当然、成績も前より悪くなっていた。とにかく、怪我をしてからろくなことがなかった。


『…なんでこんなこと、今思い出すんだろう。』


コポコポ…と静かに気泡が上昇していく。

水流に巻き込まれ瞼を開くと深い靑に包まれていた。

暫く気を失っていたようだが、身体に痛みはない。あれだけの水圧と激しい流れに耐え、無傷でいることは信じ難いが…どうやら無事のようだ。不思議なことに息は続いており、なるべく冷静になろうと辺りを見回してみる。深淵というのはこの事だろうか、底がまるで見えない水だけの空間…見上げると微かに光が届いているようだが、どこまで泳げば辿り着けるのか。この世界は果てしなく続いている気がしてならない…暗い靑の檻に閉じ籠られてしまったようだ。


『変なことになったけど仕方ない…絶対あの紅玉ルビーのせいだ。息もできるみたいだし、取り敢えず探してみるしか…。』


ふと、自身のたもとに視線を落とす。其処には、かつての自分と明らかに異なる煌めきがあった。


「…えっ…何これ…まさか鱗っ!?」

胸元から手足に至るまで、紅く輝く鱗らしきものが身体を取り巻いていた。更に目を疑うも、爪先からは金魚の尾ひれのようなものが広がっている。薄く柔らかく紅玉ルビー色に染まった其は、僅かな水流の中で美しく揺蕩たゆたう。


「嘘だ…こんなの…絶対夢だ…。」


『私が、人魚になってる。』


彼女は両の手で頬を覆うと、今在る自身の姿が理想にして最悪な状況だと理解せざるおえなかった。今日は不可思議なことばかり起こる。其も此もあの紅玉ルビーのせい…そもそも宝石なのかすら怪しい。気を落ち着けようと深く息を吐くも…大きな気泡が零れるばかり。一抹いちまつの不安を抱えて漂うしかなかった。


孤独の海にあかい人魚が独り。

紅玉るびーを探し当てなく彷徨さまようている。

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