第2話 TimeLag

袖を捲り上げたYシャツにぬるい風を受けながら、薄荷色の空へ煙を吐き出して一服を終えた。

午後6時…浅い夏の終業時はまだ薄明るい。

昼間の熱線に耐え忍んだ愛車を駐車場へ迎えに行く…気だるい足取りでゆったりと歩みを進めていたら、アスファルトの上に散らばった

紅玉るびーが目の端に引っ掛かった。


「硝子…?いや違うな、何だろ。」

誰かの落とし物だろうか…何にせよ構わずにおくのが無難だろう。

しかし、暗いアスファルトに透き通るあかの煌めき。いつもの駐車場…の筈なのに、今日は似つかわしくない。違和感のある組み合わせに心の奥底がざわめきを覚える…唐突に焦りを感じ、愛車へ向ける足を早めた。

今は一刻も早く人気のない場所へ…慣れた空間に腰を下ろし気分だけでも1日の疲れを癒したい。

チャリッチャリッ…ズボンのポケットの内側で握った鍵先のチャームが音を立てる。愛車を見つけると直ぐさまロックを開け、取っ手に手を掛けた。


「熱っ…!うわっ、蒸し風呂だ。」

利き手を激しく振り払い、空いた運転席に腰を投げ下ろすとエンジンボタンを勢いよく押す。

取っ手と室内、両のあつさにやられそうになりながら、むせ返る息を整え窓を全開にした。エアコンも勿論、全力でファンを回し冷風で熱気を追いやろうと試みる。滴る汗が首筋に絡んで止まらない。Yシャツの襟首を湿らせては其所だけを急激に冷やした。


「ふぅ………自販機って…あったかな。」

吹き出す汗を拭いながら回りを見渡す。あの明るい光を放つ缶ジュースの箱が、今はとてつもなく恋しい。一瞬、子供時代の記憶が脳裏をよぎったものの…何処にも見当たらない。取り敢えず、冷たい飲み物を探しにコンビニへ立ち寄ることに決めた。

この日に限っては、冷蔵コーナーでキンキンに冷やされた缶の檸檬ソーダを買ってしまった…ふと気付いたら手に取ってしまっていたのだ。次いで煙草とライター、サンドイッチにアイス珈琲と、まるで小旅行の早朝を思わせる品を揃えてコンビニを後にする。普段より浮き足立った面持ちで車内に乗り込んだ。先ほどの品物を広げ愛車の棚を幾分賑やかにすると、ミラー越しに映った自分を呆れ混じりに火糞笑ほくそえむ。

待ちかねたこの時…冷えたジュースを1番に拾い上げる。冷たい缶の底で一度額を冷やすと、おもむろに開封し直ぐ様ソーダを流し込んだ。ピリピリとした刺激が通り抜け、ツーンッと鼻の奥が痛みに包まれうっすら涙が湧く。熱を帯びた喉に冷たさが広がり、檸檬の酸味と爽やかさに身体中が潤されていった。

「はぁ………美味い。」

冷たさに満たされてほんの少し我に返る。暑さのせいだ、きっとそうに違いない。こんな偏った買い物も、珍しく童心に帰り黄昏にふけっていた仕事終わりも、何処と無く違っている。今日は自分らしくない。


「…疲れた…何処か行ってみるか。」

こんな思いつきのドライブへと気が向くことも久しぶりで、何かを誤魔化すようにエアコンの風向きを変えた。特別なものでもなく、代わり映えのない景色を求めて…いつもと違った時間の小旅行。

誰かに知られたら気恥ずかしい…そんな心持ちで高速のインターへ車を走らせた。オーディオからアルバムを選ぶ気分でもなく、FMラジヲのスイッチを回す。気に入りの番組から昔よく聴いていた歌が流れると、ハンドルに掛けた指先は小気味よくリズムを刻み出した。

何気なく視線を投げた空では日も暮れ始めており、烏の群れが散り散りに飛び去っていく…。

きかけの熟れた葡萄色した夕映えを背中に、高速の街灯がつづる道をなぞり只ただ走る。1人ハンドルを握り、宵闇を追うような錯覚に囚われながら進む…不可思議な夜が今日の空に溶け始めた。

ラジヲ放送が耳に馴染む頃、車内では泡の弾ける音色が微かに聴こえていた。未だに冷たさを残しているらしいアルミ缶の淵に触れ合うようで、泡が弾ける度に欣欣きんきんと高く響いている。

我ながら変な気分だ…

1人高速を街灯と並走する己の姿を客観視してみた。

友に連れられた訳でもなく、いい歳をした自分が平日の夕暮れにいざなわれるままてもなく車を走らせている。当然連れ合い(恋人)もおらず、これから宵は深くなる一方だと言うのに…ほんの少しの滑稽さをこらえきれずフッと鼻息混じりに笑いが漏れた。可笑しい筈なのに、何だかそれが妙に心地好くしっくりくる…1人きりのドライブは少しばかりの寂しさを孕んでいるものの、今の自分を満たすには丁度よかった。慣れきった環境、代わり映えのしない人間関係、仕事に追われる日々の中で気付かぬうちに育っていた虚無感。それら全てを拭い去りたい…心の何処かで、ずっとこういう時間を望んでいたのかもしれない。

一頻ひとしきり想いを巡らせると落ち着いてきたのか、コントロールパネルに手を伸ばしてそっと空調を弱めた。オーディオスイッチのつまみをひねり、強弱をつけながらラジヲの音で遊んでみる。


「さて、何処まで行こうか…。」

カーナビを横目にし、いい加減に目的地らしき所を探す素振りで檸檬ソーダの缶を取り上げた。一口着けると、少し温んだソーダ水がわざとらしく甘い香りを振り撒いた。飲み始めには感じなかった人工甘味料らしい薬臭さを交えており、その微量に弾ける気泡を残り僅かなソーダ水と共に流していく。冷房で冷えている缶の表面と裏腹の弱まった緩い炭酸…勢いで飲み干さなければ、いつまでも缶の底に残っていそうな執拗さがあった。何時か欺瞞を孕んだ、ほんの僅かな後悔のように。

飲み終えると安堵の溜め息を着く…此方も気が緩みつつアクセルから力を抜いた。何処と無くこの所在なさに…余裕が芽生え始めている。


「そうだ…行き先は…。」

先程の目的を思い出す。決めかねていると、唐突に先刻の紅玉が脳裏をよぎった。

だるような蒸し暑さに熱を帯びたアスファルト、其所に横たわる不自然なあか。散りばめられた紅玉るびーが幾度となく記憶を掠める。其れは余りにも鮮烈で…毒のように深い紅が艶をちらつかせては俺を惹き付けていた。


「あっ…。」

いつの間に暗くなっていたのか、いちばん星の煌めきが目に留まった。

午後7時11分…不意に時計へ視線を移す。

会社を出て一時間といったところか…既に宵闇の淵から顔を覗かせた夜が此方を手招きしている。僅かにざわついている心を落ち着かせたくて、思い立ち車のオーディオ棚から飴玉を幾つか掴み出した。無造作に包装を引き千切り、昼間の灼熱でべたべたに貼り付いた泣き飴をフィルムから前歯で強引に剥がし取る。口に放り込むと苦味のあるオレンジの味が広がった。

甘ったるいオレンジの香りが鼻を通り抜けていく…微かに残る酸味が怯えた心をなだめてくれる。気がつくと指先は小刻みに震えており、鳥肌立った腰回りや背筋のひんやりとした嫌な感覚は払拭されていた。

恐怖の後からやって来る若干の安堵…安らぎとまではいかないが、そんな和らいだ感覚に包まれている。


ポンッ…!

突然カーナビが音を立て、弾かれたように眼を移す。 触れてもいないのに…画面には目的地らしい場所が蒼白い光で示されていた。

一瞬にして束の間の安寧が崩れ去る。

しかし…その蒼白い灯火ともしびは、俺の思考を目覚めさせるのに充分だった。


「何処だ…これ。…駐車場?」

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