泡羽風花は距離を詰めたい

第7話 放課後、部室で。

 部室に入ると、既に泡羽がいた。

 机の上で教科書を広げている。勉強していたようだ。

 向かいに座ると、泡羽は顔を上げた。


「分からない問題ある?」

「え、えと、これ……」


 指された先を見ると、数学の標準問題の5問目。微妙に難しいラインだ。


「あぁ。これは、X+2をカッコでくくって、外に出したら、最大値は5になるでしょ? それでいけると思う」

「なるほど……!」


 泡羽はスルスルと手を動かす。飲み込みが早い。

 そのまま1度も手を止めることなく、問題を解き終えた。


「できた……!」

「今の問題、早く解けるのすごいよ。期末でも8割はいくんじゃないかな」

「ほんと?」

「うん」


 自信を持って断言できる。それに俺は嘘はつかない。嘘をついた瞬間、あとでややこしいことになるのは目に見えているからだ。

 しかし続く泡羽の言葉に、思わず絶句する。


「私、中間テスト、全部ほぼ40点だった」

「……あっ、そうなんだ」


 どうにかそうなんだ、と返したけど、頭の中がごっちゃになる。

 ……え? マジ?

 全教科ほぼ40点って、超ギリギリ回避じゃん。俺の学校の赤点は、40点未満だから。

 泡羽は見た目が真面目だし、もっと点が良いと思ってた。下手したら俺より上だろうし、頼まれたときも俺じゃ役不足かな、なんて。

 そんな俺の頭の中に反するように、泡羽は頷く。


「そうなの。だから教えてほしかったの。絶対に赤点取りたくなかったから。春野くん、たぶん賢いだろうし、教えてもらったら、点上がると思って」

「そっかそっか。とりあえず次の問題見よう。絶対良い点取らせるから」


 混乱したまま、次に移る。

 次の問題も、さっきと同じようなレベルのやつだ。

 教えたらまた、簡単に解き終えた。

 前回は勉強してなかったのか? じゃなきゃ、こんなに解けるわけない。だけど、嘘をついているようにも見えない。

 ……まぁでも、俺が混乱したところでどうしようもないんだけど。俺は期末テストの勉強を教えてほしい、って頼まれただけだし。

 勝手に納得し、次は? と催促する。この感じだと、思っていたより早くテスト範囲を終わらせられそうだ。


「じゃ、次」


 ふと泡羽が立ち上がった。

 そのままテクテク歩き、俺の隣に座る。それも、少し俺の近くまで椅子を引いて。


「この問題」


 綺麗な黒髪から、いい匂いが立ち上る。

 急激に距離が近くなった。そもそも部室にある長テーブルは、相手との椅子の間隔がはっきり決まっているわけじゃない。だからだろうか。普段の授業で隣になるより距離が近い。肩が軽く触れている。肩だけじゃない。足もだ。

 

「いや、あの……」

「ん?」

「距離、近くない……?」


 どうにか声を絞り出した。偉いぞ俺。

 雰囲気に呑まれそうだったけど、勇気が打ち勝った。

 しかし泡羽は、おかまいなしといった表情だ。


「この方が、手元よく見える」

「あっ、そうだよな」


 うん、そりゃそうだよな。真面目な泡羽が意識して近づくなんてするはずない。逆に気にしない方がいいか。


「えぇっと、それで、次の問題は……?」

 




 結局、学校の下校時間になるまで、ほぼひっついた状態で俺たちは勉強会を続けていた。

 泡羽が数学のテスト範囲を終えて、各々自習してるときもその体勢だった。

 なぜかは分からない。離れたら離れたで気まずくなりそうだったし、別に嫌なわけではなかったから。泡羽も離れようとしなかったし。


 チャイムが鳴って、そろそろ帰ろうか、と荷物をまとめる。泡羽も頷いた。

 部室の外に出ようとした瞬間、また裾を引かれる。


「どうしたの?」

「あの、今週の日曜日、うちに来てほしいの」

「えっ、なんで?」

「勉強会をしたくて。他の教科でまだ少し、分からないところあるから。日曜は親もいないし、気使わなくていい」


『親もいない』

 逆にその言葉に緊張する。一瞬断ろうと思ったが、『全教科ほぼ40点だった』という言葉が頭をよぎった。

 日曜までかけて勉強会をしたら、格段に勉強時間は増える。そうすると、ほぼ確実に赤点回避はできるだろう。


「あっ、じゃあ、お願い、します……」


 まぁ、お互いただの生物部員だし。"間違い"はないだろう。いや、俺が起こさなければいいだけの話……って、別に俺は起こす気はないんだけど。

 ただ、2人きりであの距離感が続くと、なんとなく心臓に悪いというか、なんというか……


 俺の弱々しい声に泡羽は嬉しそうに頷いた。

 

「それとあの、聞きたいんだけど、春野くんの眼鏡って、本物?」

「どういうこと?」

「ダテじゃないの?」

「あぁ、うん。ちゃんと度入ってるけど」

「そっか……」


 何が言いたいんだろうか。

 考えあぐねていると、泡羽が自分の眼鏡に手を伸ばした。そのまま、スっと抜き取る。


 思わず、息を呑んだ。


 目の覚めるような美人だ。アーモンド型の深青の瞳に、綺麗に通った鼻。

 それが夕日に照らされて、言葉が出てこないほどに美しい。


「私、ダテメガネなの。アイナから話、聞いたでしょ。アイナと同じグループで、元アイドルなの」

「……へっ!?」

「元アイドルだから、知ってる人がいたら嫌だから、目立ちたくなくて、眼鏡してたの」

「な、なるほど……」


 今まで、本当に気づかなかった。彼女のことをただの地味な同級生だと思っていたし、みんなの印象もそうなはずだ。

 こんな美人でよく見ればスタイルも完璧なのに、完全に気配を消していた。


「あの、勉強会、楽しみ」

「……あぁ、うん」


 泡羽は少し微笑んだ。




 ――これ、勉強会なんかして、大丈夫なんだろうか。

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