第16話 感情
結局、俺が死んだって日常は変わらない。
毎日夜が明け、仕事や学校へ行き、日が暮れ、また夜が来て、朝が来る。その繰り返し。どんなに辛くても、生きている人はお腹も空けば、眠くもなる。
ただ、萌のそばに、俺がいないだけ…
萌も俺も結局、悲しみに囚われてしまって、いつまでも抜け出せないでいる。
そうこうしていくうちに、正路のように記憶も薄れていくのか?楽しくて幸せだった日々までもが苦しみになってしまうのか?
正路のようにいっそ記憶を無くしたほうが楽なのか?
いや、そんなことはない記憶と一緒に感情までも無くしてしまう。心に蓋をしてしまってはいけない。
萠にはそうなってほしくない。そんな生き方は哀しすぎる。
楽しかった日々を幸せだったと思いながら、前に進んで欲しい。
萌は生きているのだから…これからも、生きていかなくちゃいけないんだから…
******
それから俺と正路は、まず相原悠太の家を探して訪ねて行った。
「ここか…正路…なんか思い出すことあるか?」
正路は、少し古びた一戸建ての家を見上げていた。
「なんだか、妙な気分だ…懐かしいような、苦しいような…なんとも言えない感情だ。この感情をなんて言えばいいんだ?」
すると玄関のドアが開き、スーツ姿の五十代くらいの男性が出てきた。白髪で、顔には濃くシワが刻まれていた。
「また、忘れ物ですよ。」
追いかけてきたのは、同じ年頃の中年女性だった。痩せすぎなくらい細く、色白で弱々しい感じだった。
「ああ、ありがとう…もう横になってなさい。じゃあ、行ってくるよ。」
「…はい…」
女性は男性の姿が見えなくなるまで、じっとしたまま見送った。
「正路のお父さんとお母さんだよな?お母さん…体が丈夫じゃないのか?」
「わからない…思い出せない…」
ゆっくりと女性が家に入って行った後、俺たちはその家の庭に忍び込んだ。
庭はリビングが面していた。
チーン…
澄んだおりんの音が聞こえてきた。
「不思議ね…今日は何年振りかしら、体調も落ち着いていて、なんだか気持ちのいい朝ね…」
そう言うと、穏やかな表情だったのがみるみると険しくなり、涙を流しながら嗚咽を漏らした。
「本当に親不孝な子供たちね。2人もいたのに、いっぺんに居なくなるなんて…」
母親らしき女性は、涙をポロポロ溢した。
俯きながら泣く様が、ますますか弱く小さく見えた。
俺はなんだかその姿が自分の母親と重なり、もらい泣きした。それでも、すぐに腕でその涙を拭うと、背後にいた正路の方へ振り向いて驚いた。
「お前!こんな時に何やってんだよ!」
「いや…なんとなく…」
正路は庭に転がった石を積み重ねていた。
「なんとなくじゃないよ…暇持て余して、石積み上げるなんて子供か!お前の記憶を取り戻しにきたんだから、もっと真剣に取り組んでくれよ。」
「そうですね…すいません…」
なんだか急に自分の事になると頼りなくなるのは、なぜなんだ?記憶がないせいか?
「いくぞ!」
俺は先頭を切って、家の二階へと上がって行こうとした。
あとから立ち上がった正路の横で、なぜか先程積み上げた石が触れてもいないのにコロコロと音を立てて崩れた。
すると母親が慌てた様子で立ち上がり、
「悠太?悠太なの?」
そう言いながら、裸足のまま庭に降り、崩れた石の前に駆け寄った。
「え?」
母親には絶対見えていないはずだ。今、目の前に息子が立っていて、顔を見合わせていることなどわかるはずがない。それなのに、なぜ?
「悠太!そこにいるの?いるんでしょ?子供の頃から、そうやって石を積み重ねるのが得意で、どこへ行っても石を見つけると、こうして重ねてたわ。」
正路は驚いて、母親の目の前で、凍りついたように固まっていた。
「だから、今日は気分がいいのね。悠太…あなたが母さんに会いに来てくれたから…」
そう言ってまた大粒の涙を溢した。
「悠太…元気なの?聡太は?一緒じゃないの?おかしいわよね…こんなこと言うの…でも、本当に私には悠太がそばに居るように感じるの…母親の勘みたいなものかしら…私の生きがいだったあなたたちが突然居なくなって、私は抜け殻になってしまったわ。生きていく希望がなくなってしまって…あなた達の居ない世界に何のために生きてるのかわからないのよ。」
正路は、それでも表情を変えなかった。
正路の母親の言葉を聞いていると、俺は萌のことを思い出した。萌と同じだ。今は抜け殻のような日々を送っている。このまま萌にこんな想いを抱え込ませてはいけない。
俺にはまだやるべきことがある。やることをやってからじゃないと俺はまだ逝けないんだ。
******
正路の母親は泣き疲れたのか、縁側に座り込んで、先程正路が積み重ねて崩れてしまった石をぼーっと眺めていた。
俺たちは、二階へ上がり悠太の部屋を探した。
「ここか?」
ドアを開けると、部屋の窓が開いていたようで、風が俺たちに向かって、サァーっと吹き抜けた。すると、今までうつむき加減だった正路が顔を上げた。部屋に入ると、正路はすぐに机に向かい、置いてあった写真立てを手に取った。
悠太と聡太の間に、同級生であろう女の人が3人で仲良く写っている写真だった。
ずっとその写真を見つめているうちに、正路は大粒の涙をぼろぼろと溢した。
「どうした?なんか思い出したのか?」
「え?」
「え?って、お前泣いてるじゃないか…」
「え?え?」
正路は慌てて腕で涙を拭った。
「本当だ。」
「本当だ…って、全く気が抜けるなぁ…なんか思い出したんじゃないのか?」
「いや、無意識…全然わかりません。」
またいつもの無表情に戻った。
「正路!お前自分のことになると本当に間抜けだよな。」
「間抜け?なんですか?その言い方は!ただ記憶がないだけじゃないですか!」
正路が怒った。
「ぷはっ…」
俺は吹き出して笑った。
「何で笑うんですか?」
「正路!お前怒ってる!」
「怒ってますよ!そりゃ!間抜けなんて言われて…あ…」
「そうだよ!感情取り戻してきてるんだよ!泣いたり怒ったり!お前の中の無意識が思い出したがってるんだよ!」
俺は正路の両肩を掴んで揺さぶった。
「私の中の…無意識が…目覚めたがってる?」
「そうだよ!」
正路は呆然としていたが、俺は人間らしい一面が見れて嬉しくなってきた。
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