第9話 想いは未だ実らず

 昼休みになると、生徒たちは先を競い食堂へと走っていく。本校舎からは若干離れた別棟である。講師たちも行く先は同じで、食事時になれば老いも若きも、肩を並べる事が多い。


 そんな中でアシュレイは、本校舎内の購買部に足を運んだ。



「肉パンと山羊乳」


「あいよ。42ディナね」



 生徒たちと馴れ合う必要はない。それなら、安く済ませたほうが良い。食堂のメニューも高くはないが、概ねが50ディナを超えてしまう。無駄な差額としか思えなかった。


 見慣れた女性から品を受け取る。パンは温かで、果汁で満ちる木の容器は、ひやりと冷たい。魔緑石の力で、適切な温度が保たれていたからだ。出来立てという程ではなくとも、口にするには十分である。



「疲れが溜まっているな。どこかで仮眠でも挟むべきか」



 本校舎の裏手。そこは遊歩道とベンチがあり、静けさが保たれる空間であった。レンガで仕切られた花壇、ささやかなスペースに季節の花が色づく。その花の名前をアシュレイは知らない。赤い、青いと思うだけだ。


 パンを頬張りながら、そよ風に親しむ。けやきの葉が織りなす梢は、金色に輝き、思わず心を奪われそうだ。このまま眠ってしまいたい。パンと肉を緩く噛み締めながら、空白の時間を愉しんだ。


 しかし、その心穏やかな一時は、長く保たなかった。



「アシュレイ様、ここに居たんですね! お昼をご一緒しましょ!」



 よく通る声だと、振り向きもせずに思う。


 クエンはアシュレイの返事を待たず、隣に腰を降ろす。膝上に持参した小箱。麻の包み布を外し、竹の蓋を取ると、そこには見るも懐かしい料理が詰まっていた。



「海苔巻きおにぎり、卵焼き、肉じゃが。あとは塩コンブきゅうり……?」


「えっへっへ。ちょいと街に行ってですね。あれこれ買ってきたんですよ」


「他の食材はともかく、米はどうした。この辺りじゃ高級品のはずだが?」


「ンヌヌ……! 良いじゃないですか別に。金ならアホみたいにあるんだし、これくらい買っても平気ですから」


「500万の事か。あれは全部仕送りにするぞ。チブチで流行り病の兆候が見られる。薬を送ってやらないと」


「そんなぁ……。ほとんど手つかずの給料も?」


「玩具や書物を買って、送る」


「鬼ストイック! こんなことなら、米も3キロじゃなくて10キロにしとくんだった……」



 見るからに肩を落としたクエンは、竹箱をアシュレイに差し出した。



「どうした。お前のメシだろう」


「1人じゃこんなに食べられませんって。アシュレイ様も一緒にどうぞ」


「それなら先に言え。必要分の食い物を買った後だぞ」


「驚かせたかったんですよ。ウヒョヒョ銀シャリとか最高かよ、みたいな反応とか」


「今のはオレの真似か? 似てないぞ。それにメシごときで、そこまで喜ぶ訳ないだろう。子供じゃあるまいし」


「子供じゃあるまいしって……膝にパンくずが落ちてるじゃないですか。そんなんじゃ、生徒たちに笑われますよ」



 クエンの揶揄する声に返事はない。不思議に思って視線を持ち上げると、アシュレイは瞳を閉じていた。



「アシュレイ様……?」



 頭はユラユラと舟をこぎ、手元のパンも、何かの拍子で落ちてしまいそうだ。



「頑張り過ぎなんですよ。朝晩に修練やって、昼は授業。夜中でもたまに起きて、書見してるとか」



 クエンは、眼を細めて微かに微笑むと、アシュレイの傍に寄り添った。そして互いの肩をつけて、揺れ動く体を支える。食べかけのパンは包み紙にしまい、自身の膝上に置いた。



「私はね、笑って欲しいだけなんです」



 クエンは、アシュレイの寝顔を見るのが好きだ。険の取れた安らかな顔は、幼き頃を思い出させるようで。


 不意に流れるそよ風が、アシュレイの灰色の毛先を撫でた。かつてと比べて、だいぶ髪が伸びた。頬にも余分な肉はなく、アゴ先は鋭い。それでもクエンは懐かしいなと思う。



「昔はいっぱい笑ってましたよね。いつも元気で、勇敢で、ちょっとだけ乱暴」



 見つめる瞳は優しい。こうして眺めるだけで、在りし日の記憶が蘇る。何の不安もなく、喜びに満ちた、輝かしきオーミヤでの毎日が。



(おぉいクエン! 父上ってばスゲェんだぜ、こんなでっかい魚を釣ったんだ! こぉんなに!)


(えぇ? リヒトおじ様が? そんなの嘘に決まってるわ)


(良いから来いよ! 今、屋敷の庭に穴掘ってさ、そこに池を作ろうって話してんだ!)


(いたた。引っ張らないでよ、腕が抜けちゃう!)


(早く早く! 抜けても入れりゃ良いんだ、早くしろって!)



 誰よりも元気に笑う少年。自分にとって、もう1つの太陽のようで、大切な大切な友達だった。歳が少し離れた幼なじみ。兄のようなものだと感じた事もある。


 それが何故、今は別人のように育ったのか。考えるまでもない。今日に至るまで、多くの血を流しすぎたのだ。喪った仲間は、家族はあまりにも多く、重たくのしかかる。若者の両肩が潰れそうなほどに。


 だからクエンは支えたい。自分とは比較にもならない程に大きな、アシュレイの重責を。



「もっと、いっぱい頼ってくださいね。その為に私は居るんですから」


「そうか。そこまで言うなら、今後もコキ使ってやろう」


「えっ! アシュレイ様、起きてたの!?」


「ちょっと意識が飛んだだけだ。深くまで眠ってない」


「フヌヌヌ……! 食事中に寝たフリなんか止めてください! キチンと食べる、寝るのはその後!」



 クエンは、膝に置いたパンをアシュレイに投げつけた。それからすぐに、自前のおにぎりを齧りだす。その姿はさながら、肉食獣が獲物に食らいつくかのようだ。



「美味いか。久しぶりの米は」


「えぇ、そりゃもう。大変美味でしてよ。アシュレイ様は要らないっつうから、私の胃袋に全部入っちゃいますねぇ」


「なんだその言い回し」


「この特製ドリンクもあげませぇん。クエンさん1人で飲んじゃいまぁす」



 クエンは陶器の縁に口を付けて、一気に煽った。喉を鳴らす飲みっぷりは、傍目から見ても爽快なのだが。



「うぇぇ、酸っぺぇ……。配合間違えたかな」


「どうした。苦行の亜種か?」


「いえね、いつ何時、アシュレイ様の御子を授かるか分からないでしょ。だからこうして、酸っぱいものに慣れておこうかなって」


「それは無用な先回りだ。そして、妊婦の全員が酸味を欲しがる訳じゃない」


「まぁ、ほんとは、失敗しただけなんですけどね。珍しい果実を、手当り次第に絞りまくって……」


「何やってるんだ。それに反応も大げさだったぞ」


「そこまで言うなら、飲んでみてくださいよ」


「どうしてそうなる」


「物は試しですって。それにホラ、柑橘系の果物って、眼が醒めますよね?」


「まぁ、眠気覚ましには、良いんだろうが……」



 そう言いながら、アシュレイは眉を潜めた。というのも、東方人はおおむね、酸味を苦手とする。この国では、ポピュラーな乳製品に慣れる事でさえ、それなりに苦労させられた。


 だが、あくまでも慣れたのは一部の食品だ。せいぜい牛乳やチーズ止まり。レモンやオレンジ、ヨーグルトなどの関門は、未だ突破できていない。


 

「これも修練だと思えば……!」



 アシュレイは陶器を一気に煽った。口中に流れ込む液体。熱い。喉を焼く。鼻腔も隅々まで侵されたようで、反射的に両目を見開いた。



「ゲホッゲホ! なん、これゴホッ!」


「あーっひゃっひゃ! 全然ダメじゃないですか、そんなんじゃ酸味マスターにはなれませんよ?」


「むせただけだ。これくらい、大したこと……ゲホッゲホ!」


「いやぁ、面白いですよアシュレイ様。ほっぺがメチャクチャひきつってて」


「笑うな、これくらい簡単に……!」



 アシュレイは、改めて陶器に口をつけ、底を天に向けた。眼を見開き、喉を鳴らす。そうして飲み干すなり、大きな息を吐いた。豊かな食事風景には程遠い仕草だ。



「どうだ。これで全部だゲッフ……」


「うわぁ凄いですねぇ。さすがさすが!」


「腹の深い所で小馬鹿にしてるだろ……!」



 アシュレイは陶器を突っ返すと、それに続けて木の容器も手渡した。山羊乳に使用された器だ。



「んん? 何ですコレ」


「木の容器を購買部に返しておけ。2ディナ返ってくる」


「がめつぅ……。2ディナって」


「抑えられるコストは抑える。当然の事だ。欲しけりゃ駄賃にくれてやる」


「要りませんよ。子供のお小遣いじゃないですか」


「ともかく任せた。オレはこれから、腹ごなしの修練に出掛けてくる」


「うぇぇ……。もう行くんですか? 食休みくらい挟みましょうよ」


「そんな贅沢は、全てが解決した後だ」



 アシュレイは、そんな言葉を残して、いずこかへと駆け去っていった。学園の壁を飛び越し、手頃な僻地を目指して。


 その様をクエンは、ベンチに腰掛けたままで見送った。



「そういえば、負けず嫌いでしたよね。子供の頃から」



 手元に残された木の容器は、耐摩耗コートの為された品だ。汚れに対して強く、水洗いだけで、新品同様に使い回す事が可能である。


 微かに飲み残された雫が、午後の日差しを浴びて、容器の底で光った。コート加工により、木材による吸収は阻害されているのだ。



「今はちょっと、忘れちゃってるだけなんです。失くした訳じゃない。だから、また笑ってくれますよね。あの頃と同じように……」



 アシュレイ本人に語りかけるかわりに、手元にそっと告げた。まだかすかに、山羊乳の香りが漂っている。



「頑張りますから、私。希望に満ちた毎日を迎える、その日まで……」



 クエンは、木の容器にそっと唇を寄せた。そして残された雫を口に含み、丹念に味わう。


 それだけに留まらない。容器のフチに唇を滑らし、存在しない温もりを求めて彷徨う。気持ちの昂りに合わせて眼を見開き、徐々に充血していった。時どき口角が持ち上がるのは、笑っているのか、それとも鼻だけでは足りない呼吸を補うためか。余人には計り知れない。


 この恍惚なひとときは長い。執拗ですらある。更には口から漏れるジュルリという音が、生き血に吸い付くかのようで、道行く人々に怖気を提供してしまう。ただでさえ少ない人通りが、普段にも増して閑散としてしまう。



「クッハァ、うんめぇアシュレイ様の唾液! マジたまんねぇわウヘヘヘ!」



 台無し。これまでに積み上げた、その全てが。


 この花も恥じらう乙女は、自分の行いに何ら疑問を抱かない。仮に問い詰められたとしても、これは忠義心の現れですと、悪びれず答えるだろう。


 クエン・ナイト・オーミヤ。この優秀なる腹心は、クセも相当に強いのである。

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