第5話 才女は偏る

 仕事を終えたアシュレイは、食堂で簡単な晩飯を済ませた。塩茹で麺のトマトソースがけ。他はチーズと山羊乳。たまには米が食いたいと思うが、メニューには無い。


 街の商店まで出向き、個人的に買い求めれば、米食も可能だった。そこまでするのは面倒な上に、高級食材だ。食物が有るだけ有り難い、とも思う。



「さて、そろそろ書見をするか……」



 程々に腹が膨れると、自室に戻った。中は既にランプが灯されており、何者かがベッドに倒れ込んでいた。


 この相手とは長い付き合いだ。顔を見ずとも気配だけで分かる。



「クエン。ここはオレの部屋だ。お前は隣だぞ」


「アシュレイ様ぁ。今日はクッソ疲れましたよぉ。マジのほんとメッチャ激烈に!」


「疲れた、じゃ分からん。待っててやるから、休んだら報告しろ」


「それでですね、ちこっとだけ肩を揉んで貰えます?」


「何でオレが」


「こちとら一日中、ずうっと作業してたんですよ。暗号化された術式を読み解く仕事! しかも理事長室には入れないから隣の空き部屋から、しこたま遠隔解析でチマチマ、チマチマと!」


「お前の得意分野だろう」


「だからって疲れるもんは疲れるんです! あぁもう肩痛ぁい、明日からパフォーマンス発揮できなぁい!」


「分かったから騒ぐな。揉んでやるから起きろ」


「うひひ。ありがとうござんす!」



 ベッドで半身を起こしたクエンは、既に着替えを終えていた。くすんだ色の麻ローブで、胸元が妙に緩く、艷やかな双房が苦もなく覗ける。更には下着も付けていない。何かの拍子で、センシティブな先端がポロリと溢れそうだ。



「あぁ効く効く。お上手ですねアシュレイ様」


「黙ってろ。そもそも、言うほど凝ってない」


「そんな訳ないですぅ、バッキバキでしんどいですぅ! ほら、私っていつも重たいもの付けてるから」



 クエンは、そっと胸元を指先で広げてみせた。


 際どい、いや、一線を越えたか。角度によっては全てを目の当たりに出来るだろう。普段は下着という拘束を受けた、膨大過ぎる軟肉の塊が、名実ともに自由を与えられたのだ。それと同時に漂う、汗混じりの色香。これには、さすがのアシュレイも衝撃を受けるに違いない。


 しかし彼には効いていない。そもそも考え事をしており、天井の方を仰ぎ見たままだ。



「アシュレイ様、こっちこっち! 今すんげぇ眼福な事になってますよ!」


「なぁクエン。お前は魔術にも詳しいよな?」


「ハァ? うん、まぁ、専門は精霊術ですけど。魔術も同じくらい使えます」


「今日、生徒にやらせてみたんだ。初級の術式で上位の魔法を発動させる事を」


「何だってそんな無茶を」


「成り行きだ。そうしたら中級どころか、合成術が発動しかけた。そんな事は可能なのか?」


「無理だと思いますよ。聞いたこともないし。そもそも合成術は、曖昧な術式でやらないですから。危ないんで」



 聞くまでもない。アシュレイが認識する通りの答えが、クエンの口から返ってきた。



「そうだよな。普通に考えたら」


「それよりもアシュレイ様。仕事の事なんか忘れて、ちょいとコッチ見てもらえます? きっと気に入って貰えると思うんです」


「普通に考えたら……そうなんだよな」


「ちょいちょい、聞いてます? アシュレイ様? もっと楽しいことしましょうよ。偶然にも手元に、ヌルッヌルで遊べる小道具があるんですけど」


「じゃあ、普通でない何かが、アイツにはあるって事だよな……」


「うぇぇ、すっげぇ伸びるよ! この謎の液体、ベットベトンですわ!」


「おいクエン。明日の昼過ぎ、予定を空けとけ」


「良いですけど何を……もしかしてデート!? 近くの街でショッピングとか、食べ歩きみたいなやつ? それとも川辺で水遊びとか!」



 結局その夜は、アシュレイがひたすら熟考を重ねて終わる。小躍りしてはしゃぐクエンを他所に。


 翌朝。訓練グラウンドにセリスを呼び出した。



「サポート講師……?」


「そうだ。オレより魔術に詳しいから、コイツにも見てもらう事にした」


「クエスでぇす。よろしくおにゃにゃーーっす」



 唇の先で喋るような自己紹介だ。機嫌の良し悪しなら、問うまでもない。



「さっそくだが、的を用意しておいた。魔術をやってみろ」


「分かった。今日こそ合成術を成功させる。期待してて」


「違うぞ。扱うのはファイヤービット。魔力も相応分だけでいい」


「そうなの。つまらない」


「お前の魔術は、とにかく訳が分からん。詳しいやつが見れば、課題も見えてくるだろ」


「合点。理解した」


「だったら、すぐに始めるぞ」



 セリスを促すと、杖が掲げられる。そして先端に、昨日と同じような文様が浮かび上がる。


 それを数歩後ろからアシュレイは眺めていたのだが、隣のクエンは顔をしかめた。



「ん? んん? 何か違和感が……」


「どうしたクエン。気になる事でも?」


「離れてちゃ分かんないですね。おチビちゃん。ちょっとそのままで、発動させないでくださいね」



 クエンは訝しみながら、杖の傍に寄った。そして首を捻り、不審そうに唸る。



「ええと、炎魔法ですよね? オリジナルとかじゃなくて」


「もちろん。ファイヤービット。初級の術式」


「ほんとに? マジで分かんねぇ。火の、精霊、サルム……シャラマン……?」


「おいクエン。何が問題なんだ?」


「アシュレイ様もこっち来てください。近くじゃないと分かんないんで」



 しかしアシュレイが近づいた途端、術式は消え、辺りにそよ風が吹いた。セリスは荒い息をついて、俯いてしまう。



「もう無理。キープするの。しんどい」


「ハァァ。これだから甘ちゃんは。だったら地面の書くだけで良いですよ。それでハッキリするし」



 セリスは息を整えると、促されるままに描いた。杖の端を使い、地面に古代語をツラツラと。それらは術式として活用される単語で、本来であれば、アシュレイにとっても見慣れたものだ。


 しかし彼は、相棒と肩を並べて首を傾げてしまう。



「なんだこれ。ヒュノシェイレ、とでも読めばいいのか?」


「火の精霊」


「その後はシャマラン、いや、シャラマヌディ?」


「サラマンド」


「なぁクエン……これってまさか」



 アシュレイの問いには、確信めいた頷きが返された。実に力強い肯定だ。



「はい。このおチビちゃん、とんでもない癖字なんです」


「癖字……!?」


「せっかく覚えた古代語も、キチンと描けなきゃ意味ないです。正しく認識されないんで。意図通りには使えないと思いますよ」


「それなら、どうして魔術が発動するんだ。何かしらの術は出てるんだぞ」


「一応、学会なんかじゃ、文字を崩す研究もやってますよ。どこまで崩せば失敗するか、みたいなの」


「頭が痛い……こんなケースが有り得るのか……」


「ギリで認証できる感じなんでしょうね。危なっかしくて、私は試す気もおきませんけど」


「だからか。唐突に合成術をやらかした時、術式が1度歪んだ。それが癖字とあいまって、たまたま偶然、式が一致してしまったと……」


「すんげぇ低確率だと思いますよ。でも、そう考えるのが自然でしょうね」



 アシュレイは、片手で目蓋を多いながらも、セリスを見た。そこには相変わらずの無表情がある。今の会話が響いているようには見えない。


 それからも、セリスには文字を描かせた。そして予想通り、判別の難しいものばかりであった。



「この2と3って、どうやって見分けるんだ」


「アシュレイ様。5と6もヤバいです。言われなきゃ、どっちなのか分かんないくらい」


「そういう事か。だから狙いがズレたり、発動タイミングが狂うのか……」


「原因が分かりましたね。おチビちゃんの魔術が訳分かんないのは、クソヤベェ字のせいだって」


「対策は?」


「対策ったってなぁ……なるべくキレイに描くしか?」


「だ、そうだ。今度は丁寧に発動させてみろ」



 アシュレイは、気怠げな視線をセリスに向けた。当の本人はというと、落胆や失望はなく、涼しい顔を晒すばかり。



「聞いてたか。お前の話だぞ」


「もちろん。精霊すら惑わす達筆という事。むしろ誇らしい」


「物は言い様だな。まぁ、いちいち泣かれるよりはマシか」


「涙なら捨ててきた。アイツはこの先の人生で、役に立たないから」


「そうか、頑張れ。あと80年くらいあると思うが」



 軽口の応酬が済むと、訓練を再開。セリスは、丁寧にという命令を素直に実行し、緩やかに立式を進めていく。



「ファイヤービット」



 掛け声と共に杖先が煌めく。そして、いくらか大きな火球が、ワラ人形の傍を駆け抜けた。この期に及んで的を外したのだ。


 その魔法が向かう先は、ジョギング中の一団だ。別クラスの生徒達が、息も絶え絶えになって走る。そこに突然、火球が迫ろうとしていた。もちろん全員がパニックになる。



「キャアアーーッ! なんで魔法が!?」



 雪崩を打って倒れる生徒たち。しかし、火球は宙空で消え去る。グラウンドを囲むように張り巡らされた、結界が無効化したのだ。それでも生徒たちは腰が抜けてしまい、地面にへたり込みながら、荒い呼吸を繰り返した。


 そんな騒ぎを起こした本人(セリス)は、少しだけ満足げである。



「ちゃんと出た。ファイヤービット。これは成功の部類」


「失敗だよ。的から外れてるだろ」


「失敗は成功の前触れ。次は上手くいく」


「待て、やり方を変える。発動前に術式をチェックするからな。これ以上の面倒は困る」



 今も立ち上がれない生徒たちには、クエンが頭を下げた。愛嬌たっぷりの笑顔に、少なくとも、男子生徒は赤面して微笑んだ。



「よし、じゃあ続きだ。やってみろ」


「まかせて。もう完璧」


「おい待て。また2と3がおかしい。それだと角度が……」


「ファイヤービット」


「話を聞け!」



 火球はワラ人形の寸前で向きを変え、地中にめり込んで破裂した。開いた穴から黒煙が吹き出す様は、さながら火口のようだ。



「お前この野郎。指摘されたらすぐ直せ、間違っても打つな」


「分かった。だからその顔やめて。子供に向けていい表情じゃない」


「あぁそうか。止めて欲しいか。だったら一度くらい、まともに打ってみせろ」



 杖が掲げられる。3度目の正直。今度はアシュレイとクエンが左右から挟み、チェックを入れた。



「スアマランドってなんだ。サラマンドだ、書き直せ」


「あっ、また5と6がごっちゃになってる。これだとラグいんで。パッと出ないんで、止めたほうが良いです」


「無駄にキリモミ回転とか付け加えるな。そんな技は、基本をマスターしてからだ」



 術式を描いては消し、また描いて。何度も繰り返した後、ようやく、2人からの許可が降りた。



「よし、大丈夫だろ。たぶん」


「良い感じだと思いますよ。たぶん!」


「そろそろ術式の維持もしんどい。ファイヤービット」



 セリスの杖が煌めく。魔術によって生み出された火球は、赤く輝きながら一直線に宙を駆け抜ける。それは見事、ワラ人形に的中。頭が白煙を吐き出しては燃えていく。


 アシュレイにとって、初めてと言って良い成功例である。



「ふぅ。どうにか上手くいったな」


「そうですね。出来たっちゃあ出来たけど……」


「皆まで言うな」



 実戦では使えない。のんびりと術式を展開し、散々手直しを重ねて発動するのだ。敵が親切に当たってくれるはずがない。手直しの最中に襲われるのがオチだ。


 これでは一人前に至る道は遠い。ゴールなど見えず、遥か彼方で霞むようだ。しかしセリスは鼻息を荒くして、傍らで飛び跳ねてはしゃぐ。



「出来た、出来た。これ以上無いくらい。お手本通りの完璧に」


「あぁそうだな。ご苦労。次からは1人で出来るようになれ」


「じゃあご褒美。撫でて先生」


「ハァ? 何でだよ」


「上手く出来たらご褒美。この世の摂理」


「また訳の分からんことを」


「扱いが冷たい。悲しくて泣いちゃう。えーんえーん」


「涙は置いてきたんだろ?」


「撫でてお願い。じゃないと辛すぎる。そのまま暗黒面に落ちて、闇夜に蠢(うごめ)く妖艶なる魔術師になっちゃいそう」


「分かったから騒ぐな。邪魔くさい……」



 アシュレイは、セリスの頭に掌を置き、乱雑に撫でた。褒めてやるニュアンスは感じられない。例えるなら、飼い犬や狼を撫でる仕草と同じだった。



「どうだ。満足したか」


「ギリ及第点。今日はこれで勘弁してあげる」


「偉そうに言うな」


「筋は悪くない。次までに練習しておいて」



 セリスは、まるで意趣返しのような言葉を告げた。そうして突きつけた指は、横入りしたクエンにより遮られた。



「ちょっと待ちなさい、おチビちゃん。頭ナデナデとか、私でさえ3回しか経験ないんです。それなのに常設コンテンツにしようだなんて!」


「私はまだ1回。だったら後2回は、優先的に撫でてもらえる」


「こんのガキ……今のは宣戦布告として受け止めますよ? 後悔すんなよオウ?」


「退く理由は無い。だったら全力で迎え撃つまで」


「アタシの眼が黒いうちは絶対に許しませんから!」


「先生とヤルのは私。若者の未来を塞がないで」


「おいお前ら。恥ずかしい事を叫ぶんじゃない。そろそろ痛い目みさせるぞ」



 それからは、三者三様に口調を荒くしながら、舌戦を繰り広げた。4回目早くとか、私のほうが先だとか。とにかく騒ぐのをやめろ等など。


 そんな3人を、遠くの物陰から睨む女がいた。先日と同じ場所に隠れるが、今回は1人だけである。



「何なのよアイツ……。今に見てなさい、絶対に追い出してやるから」



 サーシャの口から恨み節が溢れ、歯ぎしりまで鳴る。そして、一刻も早く計画を練ることを、固く決意した。





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