第3話

(五)

 礼拝堂とは名ばかりのボロ小屋に辿り着いた俺は、荒っぽく扉を叩く。当然、中から返事は返って来なかった。苛々したまま、俺は礼拝堂の中に押し入る。案の定、大男は神を象った木像に寄りかかったままだった。

「あんたがここに留まりたい理由って、ここが故郷だからなのか?」

 俺の声に反応した大男は少しだけ身体を揺らす。

「あんたがここに留まる理由は、思い出に浸りたいからなのか?」

「……分からない」

 大男は悪夢に魘されているような口調で、眉間に皺を寄せると、脂汗を生産し始める。

「何でここに来たのか分からない。気がついたらオレはここにいた。この村での思い出なんか何一つ覚えていないというのに」

「なら、何でここに留まりたいと願ったんだ?」

「……分からない」

 大男のはっきりしない態度に苛立ちを募らせる。

「自分でもよく分かっていないんだ。自分が何をしたいのか、これから何をしていけば良いのか。多分、オレがここに留まっているのは答えを知りたいだけだと思う」

「答え? 何のだ?」

「……分からない。何でオレはここに来たんだろう。何の思い出も残っていないというのに」

 大男は悲しそうな表情を浮かべると、額に滲んだ脂汗を右の甲で拭う。彼の顔は窒息寸前の金魚にしか見えなかった。

「なら、思い出を思い出すために、外に出てみてはどうでしょうか?」

 俺の陰に隠れながら、隻眼聖女は大男に声を掛ける。

「意外と村の中を歩いていたら、思い出すかもしれませんよ。ここに来た理由を」

「……思い出して、何になると言うんだ」

「ここにいて、何になると言うんですか」

 大男と目を合わせる事なく、彼女は淡々と自分の言いたい事だけを告げる。

「何日もここにいるんでしょう? 何日もここで考え続けて、答えが出ないんでしょう? なら、ここに貴方の求めている答えはありません。答えは考えるものではありません。探し出すものです。貴方が答えを出したいと思うのなら、ここから出るのも一つの手だと思いますよ」

 早口で自分の言いたい事を告げた後、隻眼聖女は自らの身体を更に縮こませる。その姿は威嚇している針鼠みたいで可愛らしいものだった。

「……それも、そうだな」

 隻眼聖女の言葉に感化されたのか、大男は木像に寄りかかるのを止める。そして、傷だらけの身体を起こすと、澱んだ瞳で俺の陰に隠れている彼女に視線を向けた。

「少し探してみるとするか。……まだお迎えは来なさそうだし」

 後ろ向きな言葉を口にしながら、大男は俺達と共に礼拝堂と呼ぶには小さ過ぎる小屋を後にする。薄暗い礼拝堂から出た彼に待ち受けていたのは、柔らかい春の陽射しだった。彼の澱んだ瞳に陽射しが差し込む。彼が春空を仰いだ途端、彼の厳つい表情が少しだけ柔らかいものになった。

「……そういや、ここの空は広いんだっけ」

 建物に遮られた街の空でも思い出しているのだろうか。久しぶりに見る故郷の空を見て、彼は忘れていた筈の記憶を思い出す。故郷を知らない俺にとって、思い出に浸る彼の姿は眩しいものだった。

 冬眠明けの熊のように鈍重な脚を動かしながら、彼は村の中を探索する。先ず俺達が立ち寄ったのは見ず知らずの民家。煉瓦で建てられた築何十年の建物を見て、大男は目を細める。何か思い入れがあるのだろうか。彼は民家をじっと見つめたまま、ぴくりとも動かなくなってしまった。

「何か思い出したのか?」

「……いや、何でもない」

 言葉を濁した大男は俺の追求から逃れる。次に向かったのは家畜小屋だった。大男は今にも崩れそうな家畜小屋を横目で眺めた後、潤んだ瞳で春空を仰ぐ。家畜小屋の中には何も入っていなかった。勿論、家畜もいない。多分、今は使われていないんだろう。欠伸を浮かべながら、大男の背中をぼんやり眺める。大男は口をへの字にしながら、右の拳を握り締めていた。

「何か思い出したのか?」

 大男は俺の質問に答える事なく、大男は村から少し離れた所にある畑に向かう。畑には何も植えられていなかった。所有者が畑を手放したのだろう。雑草さえ生えていない殺風景な土地をぼんやり眺める。大男は不毛の地を見るや否や泣き出しそうな表情を浮かべた。

「傭兵さん、傭兵さん」

 思い出に浸る大男には聞こえない声量で隻眼聖女が俺の注意を惹く。

「彼の思い出話に付き合ってやって下さい。きっと今の彼に必要なのは、思い出した思い出を口にする事だと思います」

「何で俺が、……というか、そこまで分かっているんだったら、あんたが語ればいいだろ」

「やれません」

「なぜ?」

「…………私は人間ができていないので」

 隻眼聖女は右目に刻まれた縦一文字の傷を指でなぞりながら、視線を地面に向ける。その態度でようやく理解できた。彼女という人間を。

「あんた、……もしかして人見知りしているのか?」

 眉間に皺を寄せながら、隻眼聖女は小さく首を縦に振る。その行為により、ようやく彼女の『俺より人間ができていない』という言葉の真意を理解できた。

「……なるほど。知らない人と話せないから、大男を俺にぶん投げた、と」

「……はい、恥ずかしい話ですが、……」

 罰の悪そうな顔で隻眼聖女は地面に群がる蟻を見つめる。蟻は列になった状態で、どこかに向かっていた。

「私では彼と上手く喋る事ができません。ですから、貴方が彼をどうにかしてやってください。私はいるかどうか分からない神に上手くいくよう祈っとくので」

「一応、言っておく。俺はあいつの気持ちに共感する事ができないと思う」

 彼女の言葉を遮る形で、俺は自身の情報を彼女に開示する。

「物心ついた時から、俺は戦場で生活していた。その所為で、俺は同じ場所に長期間止まった経験を持ち合わせていない。だから、彼の気持ちに共感する事はできないと思う」

「でも、聞くだけだったらできるでしょう?」

「聞くだけだったら案山子にだってできる。けど、ちゃんと彼の話を聞いてやれるのは、郷土愛とやらを理解できる人間にしかできない」

 隻眼聖女の宝石のように綺麗な左の瞳を覗き込む。彼女は俺の瞳を覗き返してくれた。初めての経験だ。ようやく俺は彼女と向き合えたような気がする。

「一度も愛された事のない人に愛の尊さ説いたら、どうなると思う? 鼻で嗤われるだけだ。それと同じで、俺はあの人の気持ちを理解も共感もできない。多分、あの大男をどうにかできるのは、俺じゃなくて、あんたの方が適任だと思う」

「……そうですか」

 隻眼聖女は俺と大男を交互に見ると、何故か深呼吸を始める。そして、弱々しく両拳を握り締めると、意を決したような顔つきで空を仰いだ。

「んじゃあ、……明日から頑張ります」

「今やらんのかい」

「心の準備ができていないので」

 隻眼聖女は明後日の方を見ながら、右人差し指で頬を掻く。俺とも大男とも目を合わせようとしなかった。

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