『女の園のエデン』その1
『女の園のエデン』の後語りです。
https://kakuyomu.jp/works/16817139556250213421
いやー、これは本当に苦しかった。
ちょうど〆切前にコロナに罹患してしまったというのもそうなんですけど、それ以前に、講義で聞いた話や思索の末に得た知識を、経験として、無垢かつ拙い言葉で紡ぎ直すこと。これが難しかった。
というかそれを『テセウスの孤島』でもうやったというのも辛くて、この世界でやたら持ち上げられる愛、その中でも最上のものとされる博愛のもつ劇毒としての一面、純愛を突き詰めた先にある破滅をもたらすものというのが使えない。
というわけで今作は純粋な愛を薄め、混ぜものをして、穢してしまうところから始めたわけですね。まず素朴な愛を、暴力的にずたずたに引き裂いてしまおう、と。その先に愛というものの本質を見出そうというアプローチ。
まず前提としてある『愛とは自己認識の概念である』という部分を説明しないといけないと思うんですけど、ここは昔受けた講義からの受け売りなのでネタバレでも何でもないので普通にペラペラしゃべろうと思います。
隣人を自分のように愛しなさい、という言葉をきちんと読めば(作中で聖書を引用できないのも辛かった)、そこに隣人を自分より優先しなさいということは一切書かれていないことがわかります。愛の本質とは自己と他者を同質、同等に扱うことであって、自己をないがしろにすることでは決してない。
つまりそもそも自己犠牲って愛じゃないんですよね。
自分の脳や心臓を守るために腕や足を犠牲にする行為はぜんぜん自己犠牲じゃない、というのは同意してもらえると思うんですけど、母が子を守るのはこれと同じ文脈でしかない。母蜘蛛が子蜘蛛に自分の身体を食わせるのは愛ゆえの行動ですけど、別にそれは自己犠牲では全然なくて、むしろ自己を存続させるため行われる戦略的判断でしかない。出産で弱り切った大きな一つの自己よりも、小さくても無数の自己の複製の方が生存可能性が高い。だから小さな自己の複製の方に全力でコミットする。それだけ。つまるところ愛は生物が進化の過程で得た生き残るための武器なわけで。
まず自己愛として、自分の意思で動く自分自身を自己であると認識する。
親子愛として、自分から切り離された自分の複製を自己であると認識する。
夫婦愛として、自分の複製を同様に自己の複製であると認識するつがいを自己であると認識する。
利益を共有し、ともに艱難辛苦を乗り越える共同体の構成員たちを自己であると認識する。
ひいては国家や人類を、生物を、世界のすべてを自己であると認識する。
この世のすべてに執着する博愛とこの世のすべての執着を捨てる無我の境地はすべてがフラットであるという点で完全に同一で、キリスト教と仏教はアプローチが違うだけで目指すところは全く一緒である。
とまあ、そんなことは言ってなくて勝手なぼくの後付け解釈でしかないんですけど、まあ大体そんな感じです。
愛という言葉は自己認識が肉体の外、どこまで広がっているかを示す概念である。
この解釈があまりにしっくり来ているので、正直愛の分類とかは全然ピンときませんね。対象と濃淡の問題でしかない。
こういう『愛』観の下で書いてます。
やっべーこれ下手すると本編より長くなるな……続きます
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