第44話 母との思い出
その時、USA──石動有素が思い出していたのは、五年よりもずっと前の日々。
まだ母である石動咲夜が生きていたころの思い出だ。
『──有素は、将来なにになりたいかしら?』
優しい母だった。
尊敬できる人だった。
どちらかと言えば気が弱くて、なにかにつけて泣き虫だった有素をいつも抱きしめてあやしてくれるような、そんな人。
『あらあら、またなにかあったの? 本当に有素は泣き虫さんなんだから』
仕方ないなあ、と言いたげに笑って、泣きじゃくる有素をそういって抱きしめる母の腕の中がいつも有素は好きだったのだ。
『今日はなにがあったの? また誰かにひどいこと言われた? それともこけちゃったのかしら? ああ、もしかして怖い夢でもみた?』
問いかける母の言葉に、有素は首を横に振る。
全部を否定した有素に、さすがの母も意外そうな表情で、あら、と彼女を見て、
『じゃあ、なにがあって泣いているの?』
そんな母の問いかけに有素は、わからない、と答えた。
その時の有素は、なにかよくわからないけど、無性に泣きたくなったのだ。
すごく怖いものが近くにあるような気がして。
ただただ無性に泣きたくなったのだ。
そう正直に話した有素に母は、あらあら、とまた声に出して有素を見やる。
『有素。それはね、あなたがすっごく何でも感じられる子だから、泣きたくなったのよ。あなたは人よりも他のものを感じる力が強いから、他の人が感じられない怖いものを感じちゃってなきだしちゃったの』
母が告げる言葉に有素は、その意味が分からなくて首を傾げた。
怖いものってなあに、と問いかける有素に母が答えたのはこのような言葉だ。
『この町にある怖いもの。山の奥にあるこわーいこわーいもの。それを有素のは感じ取ったのよ。それが怖くて、有素も泣いてしまったんだわ』
子供のころの有素には、そう言われてもどういう意味か理解できなくて。
ただ、母がいうのならそうなのだろう、と子供の純粋さで信じて幼い有素はブルリとその体を震わせる。
『やだ。そんな怖いものの近くにいたくないっ』
反射的にそう告げた有素に、母はしかし首を横に振ってこう告げた。
『大丈夫よ。そんな怖いものがあっても、あなたが襲われる心配はないわ。だって、あなたにはお母さんとお父さんがついているのだもの』
言って有素の頭を撫でる母。
その手の優しい感覚が心地よくて、母が向けてくる眼差しが大好きで、いつもそうしてくれた時にはいつのまにか有素の中にあった怖いものへの恐怖が消え去ってしまうのだ。
◇◇◇
それから時が流れて、有素が七歳になったころ。
有素と母、そして久しぶりに仕事が休みになった父と共に海水浴へ三人は来ていた。
大江町の人間しか知らない隠れた海水浴場だ。
町役場が所有している土地で、一応こちらも季節の時は解放されているのだが、普段他の町から来る利用者が使う海水浴場とは、地続きになっておらず、さらに複雑な経路をたどらないと来ることができないから、ということでもっぱら町の住民が使用している。
決して広くないが、弧状の海岸線は町の住民が遊ぶには十分なスペースがあり、有素以外にも町からやってきた子供達がキャッキャッと声を上げて海水浴を楽しんでいた。
『お母さん、お父さん! 見て見て! ヒトデさん!』
海水浴場を泳いでいたら見つけた星型の海洋生物を掲げ持って母と父へ走り寄る有素に、母は、あらあらまあまあ、と口を押え、一方の父は顔を引きつらせて一歩後退する。
『まあ、ダメよ、有素。そんな風に海の生き物をもってきては』
『そ、そうだぞ、有素。は、はは早く返してきなさい。ヒトデさんがかわいそうじゃないか』
おおらかに笑う母と、完全にヒトデへビビっている父という構図に、しかし幼い有素は気づかないまま、近づいてヒトデや他にも持ってきた貝殻などを水着の間から、取り出しては両親に向かって見せつけていく。
『ほら、ほかにもね、いっぱいね。もってきたの!』
『うぎゃあああ⁉ ちょ、有素‼ 頼むからそれを返してきなさい!』
『こらこら、有素。そうやって水着の間に隠していたらはしたないわよ。あなたは立派なレディーなんだから』
完全に恥も外聞も捨てて悲鳴を上げる父と、やはり動じず笑う母。
楽しい日々だった。
まだ家族三人が揃って笑いあっていたころの、楽しい思い出だ。
◇◇◇
そこからしばらくたって、有素が昼寝をしている時。
うつらうつら、と夢現と現世の間をいったりきたりしていた有素の耳に、両親のこんな会話が届いてくる。
『──そう、やっぱり兄さんは見つからないの』
『すまない。ほうほうを頼って調べているんだが、君のお兄さんは見つかりそうにもない』
寝ぼけている有素の耳に届く両親の会話。
有素が目覚めていることにも気づかず両親はそのまま話を続ける。
『そもそも君の兄──義兄さんは本当に生きているのか? 十年前に起こったあの迷宮災害からずっと行方不明だと聞いているが』
『兄さんは必ず生きているわ。何といってもずぶとい人だもの。あんな迷宮災害にまきこまれたぐらいで行方不明になるわけがない。兄さんも、凛音さんも』
『……うにゅっ。おかあさん?』
そこで有素が起きた。
気づいた二人は目覚めて起き上がる有素を見て、慌てて会話を打ち切る。
トコトコと二人へ近づいて行って、二人へと抱き着く。
『お母さん、お父さん。なんのお話をしているの?』
『んー。大事なお話よ。お母さんの家族の、大事なお話』
そう告げた母の声は、優しくて──なによりそれ以上に悲しそうだった。
◇◇◇
さらに時は過ぎて有素は十歳となる。
そのころ、母がよく体調を崩すようになった。
『………ッ』
『お母さん!』
台所に立って料理していた母が倒れた。
慌てて有素は駆け寄り、母の体をゆする。
しかし母は意識を失ったままピクリともせず、その代わり体表には緑色の紋様──エーテルの痣が刻まれ、薄く光り輝くそれを見て有素はヒッと息を飲んだ。
『びょ、病院! 早く病院に連れて行かないと!』
慌てて走り出して、家の固定電話に飛びつくまで五分。
事情を放して救急車がやってくるまで三十分。
それから母が各種検査と治療を受けるまで十時間以上。
ずっとそれまで母の治療に付き従っていた有素はほとほと疲れ果てていた。
『有素! 咲夜‼』
病院の廊下に響き渡る叫び声。
朝からずっと緊張が続いていて、疲れにうつらうつらしていた有素は、ハッと顔を上げてそちらを見やる。父がこちらへ走り寄ってきているところだった。
『お父さん!』
『ああ、有素……!』
駆け寄って有素を抱きしめる父。
それからほどなくして母の治療が終了する。
『──奥様は、エニグマ病を患われております』
医者が告げた診断はそのようなものだった。
エーテルが登場して以来発生している原因不明の難病。
治療方法がいっさいなく、一度体に沈殿したエーテルは、ずっと体内に残ったまま、その範囲を広げていって、最後はひどい苦痛と共に患者を死に至らしめる病。
それに母は罹ったのだ。
『……ごめんなさいね、有素。あなた』
『……ッ。なにを謝るんだ! 君が謝る必要なんてない!』
『そうだよ、お母さん! お母さんは病気に罹っただけ! そんなの速く治してまた一緒にあの海へいこ? ね、お母さん!』
父と二人でそう母を元気づけようとする有素に、しかし母は笑みを浮かべた。
儚くて、いまにも消えてしまいそうな笑みを。
『違うのよ。これは宿命なの。いずれ私達がこうなるのはわかっていたんだから──』
そんなことを母が告げてから十日後。
『……あ、がっ……⁉』
『え──』
今日も見舞いに来た有素の目の前で、それは巻き起こった。
突然そんな声を上げて、喉を押さえた母。
その体のすみずみにまですさまじい勢いでエーテルの痣が広がって、それに合わせて母が苦しみだす。慌てて有素は、ナースコールのボタンを握りしめ、それを押し込んだ。
『お母さん、お母さん、お母さん!』
『あががががぎゃぎゃぎゃがああががぎゃッッッ!!?!??!!?!』
苦悶のまま絶叫する母。
全身を痙攣させ、叫び続ける母の異様な状態になんとかしようととびかかって、しかし振るわれた腕に弾き飛ばされて尻餅をつく有素。
そんな有素の背後からあわただしい足音を立ててお医者さんがやってくる。
彼らは暴れる母を押さえて、なんとかしようとするが、すさまじい力と勢いで暴れる母に医者ですら、なにもできず。
そして──
『……残念ですが、奥様の治療をこれ以上当病院ではおこなえません』
『そ、そんな⁉ この付近ではここでしか、エニグマ病の治療ができないんですよ⁉』
『奥様は重度のエニグマ病患者です。そもそも、我が病院でできるのは対処療法のみ。これ以上となると、大都市のもっと大きな病院に搬送しないと、とても……』
『し、しかし、それらの病院はどこも病床が空いていません⁉ そもそもここに治療薬があるから妻を入院させたのですよ⁉』
『……ッ! それらの治療薬は、まさにその大病院に持っていかれたのです! もともと症例が少なく、しかも保険がきかない未認可の薬品なんですよ⁉ そりゃあ都会のお金持ちのほうに優先されるに決まっているでしょう⁉』
医者ですら、そんな絶叫を上げる程度には、母の状態は最悪だった。
それから間もなく。
『──奥様は、お亡くなりになりました』
『ああ』
結局治療薬を手に入れることもかなわず、母──石動咲夜はこの世を去った。
まだ夏になる前、あと一週間もすれば海開きとなる日のことだった。
『お母さん』
そこからの記憶はどこか曖昧だ。
有素自身、呆然としているうちに葬儀を終えて、母は埋葬された。
骨壺が破壊しの下に埋められるのをただただ見ていることしか有素にはできなかったのだ。
『あ、そうだ』
顔を上げて、有素はのろのろと立ち上がる。
そうして彼女が向かったのは、毎年いっている町民にとって隠れた名所となるあの海岸。
今年も行こうと母と約束していたそこに、せめて自分だけでも行かなければ、という想いにかられて有素は一人向かう。
いつもなら母が、最低でも父と一緒じゃないと外へでもしないはずの、そこへ、しかしその時ばかりは感情に衝き動かされるまま、有素は歩いた。
歩いて、歩いて、歩いて。
そして、そこへたどり着いた有素が見たのは、
『え──』
ここより先は立ち入り禁止、と書かれた看板。
続いて、その横に立てかけられた紙には「ごみ焼却処理施設建設予定地」の字が躍っていた。
『うそ』
母との思い出の場所が。
今年も行こうと願ったそこが。
もう、行くことができなくなっていた。
『──近くの都市が発展して、ゴミ処理が間に合わなくなったんよ。それなら、ごみ焼却所をたてねばならんでしょ。で、うちがその割を食ったってわけ』
平然とした顔で、家に挨拶へ来た町議会のお偉いさんのおじいちゃんがいった。
『残念だけど撤廃はむりだね。都会とこんな田舎じゃ根本の政治力が違う。むこうさんは国会のお偉い議員さんとかお役人さんと繋がってるけど、こっちにそんな伝手はないからなあ』
そう告げる町議の言葉に、父が最後まで押し黙っていたのを有素はよく覚えている。
それから間もなくしてだ。父が町議会選挙に出たのは。
ごみ焼却場の撤廃を掲げて父は当選。
しかし焼却場の建設は周辺地域の圧力あって、結局は押し通ってしまった。
そうして都会の思惑で、何もかもを奪われて、あとに残ったのは若者も出ていくようなさびれた田舎町。
おじいちゃんおばあちゃんしか残っていない、そんな場所を見て、有素は拳を握りしめた。
『……お母さん、決めたよ』
さびれた田舎の、故郷のその光景を見て有素は誓う。
墓前の母に、最期まで頑張ってくれた父に。
ごみ焼却場の反対に協力してくれた町の人達に。
なにより母と父を愛した自分自身に。
『私、いずれこの町を立て直す。もう二度と、都会の人達に好き勝手されないような、そんな町に、絶対この大江町をしてやるんだから!』
そうして一匹の兎は産声を上げた。
◇◇◇
しかしそれも、
「USAさんは、このダンジョンにもう入るべきじゃない」
告げる士道の言葉。
有素──USAを冷然と見やって、そう告げる彼は、いまにもUSAから大江町を救う手を取り上げようとしている。
都会から来た、彼が。
大江町の人間であるUSAから。
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