最終話 ファイブ・デイズ・グレイス

 喫茶店を出たあと、めーちゃんと一緒にレンタルショップに寄る。事務室で店長が今か今かと待ち構えていたから、話し合いの首尾を報告した。予想外の出来事続きだったけど、雨降って地固まるでまあまあいい方向に落ち着きそうだと。

 めーちゃんの頬の傷についてはコメントしないでおく。あとで松橋さんから説明があるだろうからね。店長も突っ込んではこなかった。


 あさっての方向に紫煙を吐き出した店長が、ゆっくりと二度頷いた。


「なんとかなったちゅうことやな」

「店長にはほんとにお世話になりました。何から何まで」

「いやあ、松ちゃんがしっかり仕切ってくれたおかげや。俺にはあすこまではできん」


 何をおっしゃいますやら。今回、めーちゃんのトラブルに真正面から取り組んでくれたのは店長だ。本当に頼りになる。


「細かいとこは、ご両親と松ちゃんとで今詰めとるんやろ?」

「そうです。まとまったら、めーちゃんと店長に報告が行くと思います」

「あとは荷出しをどうするか、か」


 あ、そうか。めーちゃんの部屋にあるものを移さないとならないんだ。


「丈二のあとのこともある。俺らもまだ出番がありそやな。心算こころづもりはしとく」

「え? まだ……なんかあるっていうことですか?」


 めーちゃんがびびってるのを見て、店長がぱたぱた手を振った。


「ちゃうちゃう。めーちゃんやない。丈二のダメージの方や」

「パパの?」

「せや。娘に嫌われ、紗枝ちゃんにどやされ、父親の威厳が木っ端微塵や。あいつもほんま不器用やからなあ。立ち直るまでかーなりかかるで。その間ぁ放っぽっとくわけにもいかんやろ」


 さすがだなあ……。店長は丈二さんを嫌っているわけじゃない。心配してたんだ。ちゃんと先の先まで見据えていたということか。すごく器が大きい。やっぱ只者じゃないわ。


 ソファーからぐんと体を起こした店長が、めーちゃんを正面から見据える。


「なあ、めーちゃん」

「はい」

「俺が最初にめーちゃん言うたん、変やなあ思わんかったか?」

「あ……」


 店長はいつもの皮肉っぽい笑い方ではなく、柔らかく慈しむように微笑んだ。


「俺は、まだ丈二と紗枝ちゃんが一緒に暮らし始めた頃のことを知っとるんや。丈二が二つになったかならんかくらいのめーちゃん肩車して、嬉しそうにそこいら歩ってて。めーちゃん、やんちゃでなあ。丈二のアタマぁぽかぽか叩くんや。丈二がこらぁ萌絵やめー言うてげらげら笑って」

「……」

「めーちゃん、えっらいパパっ子だったんや。最初に言うたんは『まー』やなくて『ぱー』やったって、紗枝ちゃんが悔しそうに言うとったわ。ほんで、次に言うたんが『めー』や。みんなが萌絵ちゃん言うの、舌っ足らずに真似したんやな。そのあとも、自分のことぉずーっとめーちゃん言いよってん」

「じゃあ……」

「めーちゃんいうんは、自分で言うたんや。俺が言い出したんやない」


 そうだったのか……。

 店長が、すうっと目をつぶる。


「早いもんやな。あれから十何年か経ってもうた。その間に変わったもんも変わらんもんもある。覚えてることも忘れてもうたこともある。せやけど、それぇこなしていかな明日が来いひん。あの頃には誰も戻れんからな」

「……はい」


 何かに踏ん切りをつけるかのように。目を開けた店長が錆びた事務机を平手でぽんと叩いた。


「昨日は昨日、今日は今日や。明日から、しっかり頼むで!」

「そうですね。明日はめーちゃんと二人でフルに出ます」

「めーちゃんは初のフル勤務やな」

「はい! 気合い入れてがんばります!」


 めーちゃんが元気よくガッツポーズを見せる。目を細めた店長がポジションを指定した。


「めーちゃん、フロント頼むわ。明日は柳谷の爺さんが出張でばってくるはずやからな」

「ええー? 大丈夫なんですか?」


 私が心配したら、店長がいつもの調子でにやっと笑った。


「あの爺さんな、オンナには絶対に絡まへんねや。せやから村ちゃんがいる時ぃごっつ楽だったんや」


 知らなかった! それもあって、女子バイトを欲しがってたのかー。


「じゃあ、私もふりふりピンクのワンピ着て出ようかなー」

「だあほっ!」


 速攻で、店長に一喝される。


「天使は白限定や!」


 えうー、そっちかーい。

 脱力した私を見て、めーちゃんがぶくくっと笑っていた。ちぇ。


◇ ◇ ◇


 コインランドリーを探し、スーパーで食料と晩ごはんのお惣菜を仕入れ、すっかり暗くなってからシェアハウスに戻った。


「わーい! 帰って来たあ!」


 ぴょんぴょん飛び跳ねるようにして、めーちゃんがシェアハウスの玄関に駆け寄る。鍵を開けるのももどかしいという感じでなだれ込み、すぐに自分の部屋に吹っ飛んで行った。早く戦闘服を脱いで楽になりたかったんだろう。


 私はリビングの明かりを点け、食料品を冷蔵庫に格納してから椅子に座った。


「短い間にいろいろあったよなあ……」


 今朝撮ったスマホ画像を出して見比べる。画像が、もう何年も前のもののように感じられる。それくらい、私を取り巻く状況の変化が早い。


 不思議だなあと思う。

 先生とのシェア生活がまだまだ続くと信じ込んでいて、その日常の堰が突然切れた。濁流のような五日間を必死に泳ぎきって。今、なぜかここにいる。めーちゃんと一緒に。

 めーちゃんは堰を自力で切ったけど、流れを泳ぎ越す腕力はまだなかった。運命の激流にもみくちゃにされて、今ここにいる。あの時は、私と暮らすなんて予想もしていなかっただろう。


五日間の猶予ファイブ・デイズ・グレイス、かあ」


 もし。もし運命の神様に五日間しか猶予がないよと最初に期限を切られていたら。私もめーちゃんも、運命の激流を乗り切れなかったんじゃないだろうか。

 私たちのチャレンジがなんとか成功したのは、神様がその期限を告げずに五日間の猶予を与えてくれたからかなあと……思ったりする。


 そして今。私たちは猶予の五日間を残らず使い切った。無駄なく。全て。

 ここから先は新たなチャレンジになる。小さな入れ物から流れ出た私たちは、まだ海がどこにあるかすらわからない。果てのない海を目指す旅は、今まさに始まったばかりなんだ。


「あれー? ルイ、何見てるの?」


 髪を下ろして今朝と同じ服に着替えためーちゃんが、すっきりした顔で戻ってきた。私の真向かいにぽんと座って、スマホを覗き込む。


「今朝撮ったやつを見てた。まだ全然探検し切れてないからね」

「うふふふふ。楽しいよねえ」


 めーちゃんも自分のスマホを出して、サムネイルを流し見し始めた。おっと、忘れないうちに話しておこう。


「あ、それでさ」

「うん?」

「提案……というか、お願いがあるんだ」

「お願い? なに?」

「ここらへんの桜の名所を探して、お花見したいの」

「お花見ぃ? いいねー、やりたいやりたい!」

「めーちゃんは普通に見てると思うけど、私はまだ桜の花の実物を一度も見たことがないんだよね」

「あ……」


 すんと口を閉ざしためーちゃんに、なんだかなあのポーズを見せる。


「去年家を出たのは五月だからもう桜は終わってたし、大学の入学式の時には多分散っちゃってるでしょ? 見逃すかなあと思ってさ」

「そっかあ」


 これまで得られなかったものを、過去に遡って取りに行くことはできない。店長が言ったみたいに昨日は昨日、今日は今日なんだ。ぼけっとしている間にも日々は容赦なく過ぎていく。欲しいものには躊躇なく手を伸ばしていかないと、結局何も手に入らない。

 私は、欲しいものの最初の一つを桜にすることに決めた。初めて見上げる満開の桜を心にくっきり焼き付けられるように。そして……感動を分かち合える友人と一緒に桜を見たことを、生涯記憶に残せるように。


 すぐに咲き出すからぼやぼやしてられないよなあと意識をあさってに飛ばしていたら。もじもじしながら、めーちゃんが小さく頭を下げた。


「うん? どした?」

「あの……ルイ。シェアしてくれて、ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうだよ」


 お世辞でもなんでもない。実際、めーちゃんがシェアを承けてくれなかったら私の危機はまだ続いてたんだ。それに店長と岡田さんのコンビほどじゃないにせよ、二人だったから乗り切れた部分がいっぱいあると思う。


「幸先いいよね。大学生活始まる前に、もう友達ができたんだからさ」

「うん」


 ほっとした様子のめーちゃんに、一つ注文をつけておく。


「ただ」

「なに?」

「私を最初で最後の友人にしたらだめだよ」

「ううー、そうなんだよなー」

「ははは。大丈夫さ。作ろうという意識次第でしょ」


 そこがなかなかという風に、めーちゃんがはあっと深い溜息をついた。まあ……美人はそこがね。高嶺の花になっちゃって、アプローチしにくいからなー。

 でも入学式までまだ二週間以上あるんだ。スタートアップの期間を有効に使って、友人作りに使える話題のネタを仕込みたい。助走も含めてしっかり楽しまないとね。


「さて、とりま晩ごはんにしようか。お腹空いたー」

「きゃっほーい! 今日は中華パーティーだーっ!」


 半額の値引きシールがついたオードブルを捧げ持ち、テンションあげあげのめーちゃんが電子レンジめがけてすっ飛んで行った。そのプラ容器を見て、すっかりチェックし忘れていたことを思い出す。


「ゴミを出せる日と分別の仕方、ゴミステーションの場所を調べとかないとなー。めーちゃん、そっち系全然ダメそうだし」


 ああ……。海への長旅はまだ始まったばかりだ。



【 ファイブ・デイズ・グレイス 了 】

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