第7話 切り断たれたもの

「はああっ……」


 主役のめーちゃんが議事進行役の松橋さんと一緒に退場してしまい、会議室の中が微妙な雰囲気になった。そりゃそうだよ。残った四人で何を話せっていうわけ?

 父さんは腕組みしてノートを睨みつけてるし、丈二さんはずっと俯いたままで微動だにしない。紗枝さんも、まだショックなのか顔を伏せて小刻みに震えている。もちろん私も黙っているしかない。口からは溜息しか出てこない。


「はああっ」

「あの」


 顔を上げた紗枝さんが、突然何か言い出した。ずっしり重い雰囲気に耐えかねたんだろう。視線は私に向けられている。


「小賀野さん。娘とは……萌絵とはどこで知り合われたんでしょうか」


 詰問するようなきつい声じゃない。単にわからないから聞いたっていう感じだ。丈二さんがこれでもかと囲い込んでいたのにって、不思議なんだろう。ごまかす必要はないので正直に答える。


「不動産屋さんです。私はシェアで暮らしていたんですけど、シェアメイトが急に退所することになって。バイト先の店長が不動産屋さんを紹介してくれたので、物件を探しに行ったんですよ。そこでです。四日前ですね」

「前から知り合い……というわけではないんですね」

「もちろんです」

「そのシェアメイトさんは、どのような……」


 そうか。私の風体がおかしいから気になるんだろう。女子寮のはずなのにって。一緒にいられなかったと言っても、母親だから心配なんだろなあ。でも、紗枝さんを安心させるための嘘はつけない。


「私の家庭教師だった人です。八つ年上の女性。彼女の結婚が決まったのでシェア解消になりました」

「??」


 私が男か女かでニュアンスが変わってしまう。きっと大混乱してるんだろうな。和やかな雰囲気ならぶっちゃけて馬鹿話のネタにするんだけど、今の状況だと不安の種を増やすだけだ。棚に上げておこう。


「私の事情を詳しくお話ししてもいいんですけど、萌絵さんとは全く関係ない与太話になってしまいます。あ、そうだ」

「はい?」

「私は萌絵さんへの付き添いを店長……中里さんから頼まれたんです。その時にお母さんのことも少しだけ伺いました。店長の古いお知り合いだったんですね」

「……ええ」


 丈二さんに配慮したのか、紗枝さんが渋々という感じで認めた。やっぱりね。

 店長の性格ならきっと根回しする。店長はホスト時代の知り合いを通して紗枝さんの居場所を割り出し、直接話し合いの説明をしたはずだ。松橋さんが紗枝さんにいきなりアクセスしたら大事になっちゃうもの。


 紗枝さんに肩をすくめてみせる。


「私のことなら店長からいくらでも聞けますよ。イジリ大好きな店長に、年中ネタ扱いされてますからー」

「あら」


 紗枝さんも店長の性格はよくわかっているんだろう。それはお気の毒にという顔になった。

 それにしても。ここに来た時にはひどく萎れて存在感の薄かった紗枝さんが、毒物を吐き出して楽になったみたいに生気を取り戻しつつある。

 反対に、丈二さんが完全にどつぼっちゃった。意固地になって黙っているというより、口を開くのもしんどいというか……。


 めーちゃんに対しては強気一辺倒の丈二さんも、どうしても嫌われたくない紗枝さんには強く出られないんだろう。

 めーちゃんは丈二さんには歯向かえないけど、いないも同然だった紗枝さんを無視してる。さっき爆発した時も、紗枝さんの方は一度も見なかった。

 で、紗枝さんは負い目があるからめーちゃんには強く出られない代わりに、丈二さんの手綱は引ける……か。

 見事な三すくみだよなあ。


 めんどくさそうな関係に見えるけど、パワーバランスはうちより単純な構造なんだ。三すくみの中からめーちゃんが抜ければ、丈二さんが紗枝さんのコントロール下に入るはず。紗枝さんが丈二さんを見捨てない限り、そのまま安定するんちゃうかなあ。

 うちは、父さんが母さんのケアにすごく苦労している。母さんが、依存していた私の離脱後ひどく精神不安定になったからだ。めーちゃんのところはうちよりずっとましに思えるけど、私の予測は楽観的すぎるだろうか。


「あの……」


 いろいろと考え込んでいたら、また紗枝さんに話しかけられた。


「はい?」

「娘は……やっていけると思いますか?」

「ええと、新しい生活様式でということですか?」

「はい」


 家から離れためーちゃんを見たことがないから不安なんだろな。こてこての箱入り娘に下宿生活がこなせるのかって心配するのは当然だ。でも、バイトにもシェアハウスでの生活にも短時間でさっと慣れてる。順応力は水準以上だと思う。

 そう言って安心させてあげたいけど、この先どう転ぶか予測できない今はまだ手の内を明かせない。やんわりとぼかして答えた。


「まだ知り合って間もないのに、そんなのわかりません。私にとっても大学生活はまるっきり未知の世界なので」

「未知、ですか」

「ええ。私も萌絵さんと同じ、D大の新入生ですから」

「あら!」


 紗枝さんがびっくりしている。私が年上の先輩に見えたんだろうな。


「私は二浪してます。年は上ですけど、立場は紗枝さんと同じで新入生なんです。萌絵さんは文学部、私は経済学部で、学部は別々ですけどね」

「そうだったんですか」

「何もわからないところから生活を始めるのは、私たちだけでなく下宿して大学に通う子はみんな同じでしょう。寮だと一人暮らしの寂しさはないから、少しだけ得かなと思ってますけど」

「落ち着いてらっしゃいますね」


 必ずそう見られてしまうんだよね。私の外見と中身のズレは、いつ治まってくるのかなあ。


「見かけだけですよ。不安や恐れみたいなものはあります。でも」

「はい」

「それ以上に楽しみなことが多いので。萌絵さんも、新生活をすごく楽しみにしてると思いますよ」


 これから爆発的に広がる世界は、いいことだけを持ってきてくれるわけじゃない。そんなの、めーちゃんだってわかってるさ。だけど、やっと柵の外に出られたんだ。柵がないことを怖がるなんて考えられない。不安よりも新しい生活への期待感の方がずっと大きいよ。私だってそうだから。


 紗枝さんは、会議室に入って初めてわずかに笑みを浮かべた。きっと……めーちゃんの目がきちんと未来に向いているのを知って、少しだけ安心したんだろう。


◇ ◇ ◇


 そのあともぽつぽつと紗枝さんからの探りが入った。丈二さんに尻尾を掴まれないよう用心深く答えているうちに、廊下の奥から足音が近づいて来た。背を反らしてひょいと廊下を覗いたら、頬にでっかい絆創膏を貼られてしょげ切っているめーちゃんと、猛烈にぶすくれている松橋さんが並んで歩いてくる。二人が会議室に入ってすぐに、容体を確かめた。


「松橋さん、傷はどうだったんですか?」

「ひどいのよ! あの藪医者!」

「え?」

「こんな引っかき傷でくらいで来るなとか偉そうに! 女の子の顔の傷でしょ? 少しくらい心配したらどうなのよ!」


 思わず吹き出しそうになったけど、それ以上にほっとした。かすっただけだとは思っていたけど、こればかりはお医者さんにお墨付きをもらわないと安心できないから。しおしおと隣に座っためーちゃんに、心から謝る。


「ごめんねえ。もうちょっと腕力鍛えていれば空振りにできたんだけど。今日から腕立て伏せでもしようかな」


 私のどっ外れなセリフに松橋さんと父さんが苦笑し、めーちゃんはべそをかいた。しょうがないわねえというように肩をすくめた松橋さんが、ご両親に向かって話し合いを再開するかどうか確かめた。


「とんでもないアクシデントがありましたけど、話し合いはどうなさいますか?」


 すぐ答えたのは丈二さんではなく、紗枝さんだった。


「先ほど小賀野さんから娘のことを少しだけ伺いました。娘がこれからの大学生活を楽しみにしているようなので、わたしは応援するつもりです」


 めーちゃんが驚いたように紗枝さんを凝視した。紗枝さんが真顔でめーちゃんの背を押す。


「がんばりなさい。萌絵の人生なんだから」


 それは、紗枝さんが今口にできる精一杯のエールだと思う。紗枝さんからゴーサインが出て、趨勢は決まった。


「う……ん。ありが……とう」


 辛うじて言葉を絞り出しためーちゃんが、テーブルに突っ伏してわんわん大泣きした。大きな傷を作らずに丸く収まってくれれば一番良かったんだけどね。どこかを切開しないと溜まった膿を流し出せない……そういうこともあるんだろう。

 めーちゃんの頬についた傷と引き換えに、話し合いは最良の結果に落ち着きそうだ。


「ふうっ」


 やっと緊張を緩めることができる。全身の力を抜くと同時にまぶたを閉じた。黒く塗り潰された視界の中に、赤いスラッシュがくっきりと浮かび上がってくる。それだけが……どうしても闇に沈まない。


 でも。言葉とリアルな刃が切り絶ったのは親子の関係じゃなく、誰も解けなくてもつれきっていた感情の固結びだった。時間をかけて解きほぐせなかったのは残念だけど、鎖で縛られたまま全員奈落に落ちることは防げたんだろう。

 ばらばらになった固結びはまだつなぎ直されていない。断ち切るのは一瞬でも、つなぐのは時間がかかる。うちと同じで、家族の再構築という次のステップに進めるかどうかはまだ何もわからないんだ。


 スラッシュは断絶ではなく、単なる区切り。そうあってくれればいいなと祈りながら、目の中の赤い斜線を意識の奥に追いやった。


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