第6話 スラッシュ(/)

 紗枝さんのしゃくり上げる音がわずかに響いている会議室で。私は、今後の展開を超特急で予想し直していた。

 紗枝さんの告白で予想外の事実が明るみに出て、不可解だった部分が私なりに納得できたんだけど。私の解釈にはあやふやな憶測がいっぱい混じっている。その真偽確認にいくら突っ込んでも、事態の改善にはなんの役にも立たない。予想の原点に戻ろう。


 まず、紗枝さんのスタンス。話し合いが始まるまでブラックボックスだった紗枝さんの人となりはわかった。紗枝さんは、めーちゃん側には立たないと考えた方が良さそうだ。

 変則的ではあっても支え妻をずっと続けてきた紗枝さんが、めーちゃんの突然の離脱で大ダメージを食らっている丈二さんと敵対するだろうか? すでに自立しつつある娘を母として応援するより、窮地に立たされた夫を支える妻としての立場を優先するはず。それに、めーちゃんには母親がいるという認識がなかったんだ。今更母親面したところで、めーちゃんが受け入れるわけがない。

 紗枝さん自身の意思がどうであれ、立ち位置としては丈二さん側にしか置きようがないんだ。ただ、事態を複雑にしたのは自分だという負い目がある以上、積極的に丈二さんの肩を持つことはないだろう。


 紗枝さんの影響が限定的なら、展開は当初予想の範囲内に収まる。丈二さんがめーちゃんの独立を認めるか認めないか、だけだ。


 丈二さんが認めるかどうかは五分五分だと思う。

 さっきの紗枝さんの告白によって丈二さんがめーちゃんの支配を諦めれば、もう勝手にしろと突き放すはず。目の中に入れても痛くない愛娘から、顔も見たくないライバルの継子ままこに位置付けし直して、今後は徹底的に無視、排除するだろう。その場合、経済的なサポートは一切期待できない。


 逆の可能性……復元を諦め切れない丈二さんがめーちゃんを徹底して囲い込み、人形作りを強化しようとする恐れもある。その場合あの手この手でめーちゃんを懐柔し、家に引きずり込もうとするだろう。学費や生活費を出す交換条件として、定期的に家に帰ってくるようにと主張するかもしれない。

 だけど、めーちゃんは束縛の匂いがする提案は絶対に受け入れないよ。松橋さんというアドバイザーが付いたから、お金と引き換えの譲歩なんかするはずがない。


 どっちにしても親の経済支援は望み薄だと思うけど、丈二さんの意思表示がないとめーちゃんもサポーターも動けない。紗枝さんの告白後も丈二さんがずっと黙秘を貫くなら、話し合いの意味がないんだよね。

 沈黙は拒絶と同じことだから、丈二さんの選択は『認めない』だとみなされる。次の話し合いはもう設定されないだろう。


 ただ……ずっと黙っているのはめーちゃんも同じなんだ。


 シェアハウスの前で土下座して謝っていたみたいに、めーちゃんは丈二さんの威圧を正面からは押し返せていない。「ノー」の意思表示にしても「もう嫌だ」ではなく「もう限界」という微妙な表現だった。限界というのは状態であって、意思表示とは言い切れない。サポーターが付いていても、明確なノーが言えなかったんだ。自分の窮地をそろそろ察して欲しい……そういう受け身の拒絶だったんだよね。

 相手の出方待ちは、劣勢の時には分が悪い。めーちゃんもそれはわかっているだろう。でも、どうしても自分からは打って出られない。丈二さんの圧力でだいぶ自我を削られたんだろうな。


 黙秘を貫く丈二さん。出方待ちのめーちゃん。立場上何も言えない紗枝さん。話し合いがまとまらないどころか、話の始まる気配すらない。

 松橋さんは、これ以上引っ張っても進展は望めないと判断したんだろう。タイムキーパーの役を全うするため立ちあがろうとした……まさにその時だった。


 私の横から叩きつけるようなすさまじい怒声が噴き上がった。


「ふざけないでよっ!!」


 ぎょっとして左隣を見る。そこには滝のように涙を流しながら丈二さんを鬼の形相で睨みつけるめーちゃんがいた。

 これまでの悲しさや恐ろしさ、心細さで流す涙じゃない。それは真っ黒な涙。これまで心の底に溜まり続ける一方でどこにも出口のなかった怨嗟の感情が、目からとめどなく噴き出している。黒い、どす黒い涙だった。


「ねえ、わたしを誰だと思ってるの!」


 静まり返った部屋の中に、やいばのようなめーちゃんの叫び声が響き渡る。空気がいきなりきな臭くなる。


「章? 知らないわ! そんな人! 見たことも会ったこともない! わたしにとっては幽霊よりも薄い人よ! だって誰だか本当に知らないんだもの!」


 ばんっ! テーブルを両手で思い切り叩いためーちゃんが、顔をぐんと突き出して丈二さんに詰め寄る。


「なんでそんなクウキみたいな人とわたしを重ねるわけ? 信じられないっ! 冗談じゃないわ! わたしを誰だと思ってるの? わたしは萌絵よ!」


 はあはあと息を切らしながら、それでもめーちゃんの絶叫は止まらない。


「あのね、わたしにはパパしかいなかったの! 章なんて人は知らない。ママはいないも同じ。黙っててもパパしかいないの! それなのに、なんでわたしに幽霊のお面をかぶせるわけ? 冗談じゃないっ! 冗談じゃないわっ!」


 こみ上げる怒りでぶるぶると全身を震わせながら、めーちゃんが冗談じゃないと何度も喚き倒す。


「ねえ、パパ。その顔、自分で望んだ? そんな顔にして欲しいからその顔になった? 違うよねっ! 勝手にその顔だよねっ! 子供に選択権なんかないよねっ! わたしだってそうよっ!」


 これまであれほどめーちゃんに威圧的な態度をとってきた丈二さんが、叱られている子供のように小さく縮こまっている。紗枝さんは真っ青な顔で唇をわななかせている。どっちが親だかわかったもんじゃない。

 底なしの怒りにどれくらい破壊力があるのかををまざまざと見せつけられる。怒りをストレートに出し切れなかった私は、怖くて鳥肌が立ってしまった。


「冗談じゃないわっ! こんな顔っ! 誰かがほしいっていうならただでくれてやるっ!」


 ぎん! めーちゃんの怒りのトーンがさらに一段上がった。


「パパは知らないでしょ! この顔のせいで、わたしがどんな嫌な思いをしてきたか! 学校ではいつもお高くとまりやがってって言われて、ハブにされて、嫌がらせされて!」


 やっぱりか……。


「家に帰ったら今度はビスクドール? 一方的に妄想爆裂させて! 何様のつもりよっ!」


 めーちゃんは全身全霊で吠えた。


「こんな顔いらないっ!!」


 それだけで済めばよかったんだ。でも、めーちゃんの怒りは言葉で吐き出し切れないくらい深かった。

 じぎじぎじぎっ! 突然左脇で物騒な音がして、慌ててめーちゃんの方に振り向いた。ジャージのポケットからカッターナイフを出しためーちゃんが、繰り出した刃を自分の頬に突き立てようとしていた。


「こんな顔いらないーーーーーーーっ!!」


 無我夢中だった。両手でめーちゃんの右腕を必死に引っ張る。びくともしない。ものすごい力だ。めーちゃんの中に溜まりに溜まっていた真っ黒い感情がどれほど巨大だったかを、その力で思い知る。

 自分の非力をこれくらい呪ったことはない。それでも、私の出せるいっぱいいっぱいの力で腕を引き戻す。刃が空振りしてくれればそれが一番よかったんだけど、刃先がめーちゃんの右頬の上を滑った。


 しっ!


 嫌な音がして、めーちゃんの頬にスラッシュが引かれた。紗枝さんがきゃあっと叫ぶ。丈二さんは身動きできない。止めようとも逃げようともせず、めーちゃんを凝視して固まったまま。

 めーちゃんの頬のスラッシュはその形に赤く滲んだかと思うと、ぽつぽつと血の球を浮かべ、それが連なり、涙と一緒にテーブルに流れ落ちた。


 くっきりと示された赤いスラッシュ。


「わあああっ!」


 血と涙が落ちて汚れたテーブルの上に突っ伏して、めーちゃんが泣きながら吠え続けた。こんな顔なんかいらない、と。

 めーちゃんがまだ固く握り締めていたカッターをそーっと放させる。ふうっ……。


 そうか。さっき茶水の駅でトイレに行くと言ったのは、コンビニか文房具店でカッターナイフを買うためだったのか。ひどく思い詰めていたことに気づけなかった自分が情けない。

 章さんに似ている顔が親を狂わせたという店長のセリフ。それがめーちゃんの顔へのコンプレクスにとどめを刺してしまったんだろう。こんな顔なんかなくなってしまえばいいと思い詰めてしまったんだ。紗枝さんの告白が決定打になったにせよ、めーちゃんはあの時にもう自傷を心に決めていたのかもしれない。


 回収したカッターナイフを父さんに手渡し、松橋さんに声をかけた。


「松橋さん。萌絵さんの傷、病院で診てもらってください。私じゃ説明ができないので」

「そ、そうね。ごめん。ぼーっとしてた」


 あまりに予想外の展開でがっちり固まっていた松橋さんが、慌てて走り寄ってきた。まだ泣きじゃくっているめーちゃんの肩を抱きかかえるようにして立たせ、頬にハンカチをあてて会議室を出ていった。


 深手でない限り、傷はすぐに塞がる。でも、今回のことでめーちゃんの心についた傷は……すぐには治らないかもしれないね。


「ふううううっ」


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