第4話 予想外の連続
こっそり廊下を覗き、足音の主を確かめる。丈二さんだ。黒に近いダークグレーの背広で、タイはくすんだこげ茶。クラブの経営者なのに派手な印象は微塵もない。視線を足元に落としたまま、足を引きずるようにしてゆっくり歩いてくる。昨日までの短気で暴力的な印象とは真逆で、戸惑ってしまう。
丈二さんが着席するまでは、念のためにめーちゃんを着席させないでおこう。私の背後に隠れさせるようにして丈二さんの入室を待った。
丈二さんは無言のまま会議室に入って来ると、渋々という感じで一礼し、父さんが両手で指し示した席に着いた。
よし、これで大丈夫だろう。改訂版の配置で、私が丈二さんの真向かいに着座し、めーちゃんが私とも丈二さんとも少し距離を置くような形で着席。あとはお母さん……紗枝さんの到着を待つばかりになった。
ところが。話し合い開始予定の午後一時を過ぎても紗枝さんが来る気配はなかった。松橋さんの顔にじわっと焦りの色が浮かぶ。場所が分からないとか館内を迷ってるとかの可能性があるから一度様子を見に行こうかなと腰を浮かせたら、複数の足音が近づいてきた。え? 複数?
身体を逸らして廊下の奥を確かめた。黒っぽいワンピースを着た痩せて元気のない女性と、少し後ろからその女性を心配そうに見つめている和服姿のおばさんがゆっくり歩いて来る。後ろの人は結構年配だから、きっと前の人が紗枝さんなんだろう。
少し栗色がかった髪はめーちゃんよりずっと柔らかいみたいで、長さは同じくらいなのにボリュームがない。化粧は薄い。ネックレスや指輪、ピアスとかも一切つけてない。手にしているハンドバッグも黒。華がなくて地味……だ。確かに顔つきはどことなくめーちゃんに似ているんだけど、探さないと類似点が見つからないくらい全体の雰囲気が違う。
「げ……」
のっけから予想が外れた。勝ち気で才気煥発で移り気な美人。私はめーちゃんや店長からそう聞かされていた。でも今の姿からは、過去の美貌や輝かしさが全く想像できない。男を取っ替え引っ替え? そんなの絶対にありえないよ。生きているのが不思議に思えるくらい元気も覇気もなく、見るも無残に萎れている。
ちらっと様子をうかがうくらいはいいけど、単なる付き添い役の私はこれ以上出しゃばれない。私が振り向いたら、察した松橋さんが席を立って紗枝さんを出迎えた。
「お母様ですね。お忙しいところをご足労いただき申し訳ありません」
「いいえ……主人と娘がご迷惑をおかけしてすみません……」
芯のない細い震え声。ひどくおどおどした仕草。視線が上がらず、目がふらふら揺れて落ち着かない。外見以上に声にも動きにも生気がなく、黒っぽい服がまるで喪服のように感じられてしまう。
「ほら、しっかりやっといで」
「……はい」
付き添っていた和服のおばさんにぽんと肩を叩かれた紗枝さんは、手が当たったところからばらばらに崩れるんじゃないかと心配になるくらいよろけながら部屋に入った。こ……れは。これはまるっきり予想外だ。敵味方どころか第三者にすらならない。存在そのものがうんと希薄な幽霊みたいだ。
紗枝さんがそんな状態だということは、父さんの想定の中に全くなかったんだろう。ノートを何ページかめくってぴたりとペンを止め……違うな。ペンが止まってしまった。
予想外のことはまだまだ続いた。昨日まであれほど強烈な執着と粗暴さを剥き出しにしていた丈二さんが、肩を落として黙って俯いている。じっと怒りを堪えているという感じじゃない。あちこちがすり減ってしまって動けない。もう動きたくない……そんな倦怠感が漂う沈黙だ。
めーちゃんは、これが本当に両親なんだろうかと二人を見比べてひたすらうろたえていた。顔を上げているのはめーちゃんだけ。ご両親は力なく背中を丸めて俯き、そのまま微動だにしない。これで本当に話し合いになるんだろうか?
もちろん、話し合いを設定した松橋さんにとってもまるっきりの予想外だろう。丈二さんの強情にどうやって釘を刺してやろうかと腕を撫して待ち構えていたのに、ちょっとなによこれという感じだ。
でも、そこはさすが海千山千の弁護士さん。気を取り直して、話し合いの開始を宣言した。
「みなさんお揃いになりましたので、話し合いを始めさせていただきます」
立ち上がって軽く一礼した松橋さんが、淡々と趣旨を説明する。
「本日は突然お呼び立てして大変申し訳ありません。お父様にはすでにお伝えしてありますが、お嬢様である萌絵さんが大学進学を機に家を出たいと申されています。心配性のお父様の囲い込みが強すぎ、あまりにも自由がなくて辛いと」
めーちゃんが小さく頷いた。
「萌絵さんはすでに女子寮に入寮され、寮での生活を始めています。本日は寮生の小賀野ルイさんにもお越しいただきました。心細い萌絵さんに付き添われているということをご了承下さい」
丈二さんとはすでに何度も顔を突き合わせている。丈二さんはおもしろくないと思うけど、立場が立場だから部外者はとっとと出て行けとは言えないだろう。
紗枝さんは少し顔を上げ、私を不思議そうに見て、また顔を伏せた。
「最初にご両親にお伝えしておきますね。寮では寮生が家事を分担してこなす規則になっています。部屋は分かれていますが、共同生活ということになります。何かと物騒なご時世ですから、いきなりの一人暮らしよりも寮の方が安心でしょう。萌絵さんが寮生活を選んだ判断は妥当だと思います」
さすがだな。店長、松橋さん、父さんの三人で、シェアハウスではなく寮だという設定を徹底することにしたんだろう。岡田さんの先見の明に、今さらながら感心してしまう。
松橋さんは、冷静にめーちゃんの家族を見比べていった。
「実家を離れて生活したいという願望ではなく、すでに寮での新生活に入っているという現状を鑑みた上で、家を離れることの是非について率直に話し合っていただければと思います」
冷静な議論をしろと暗に丈二さんにプレッシャーをかけた松橋さんは、先頭に立って話し合いを仕切るつもりがないことを事務的に伝えた。
「本話し合いにおきましては、
一礼して着席した松橋さんは、じっと丈二さんを見据えていた。外堀を完全に埋められているにも関わらず、まだ強情を張り続けるかどうか注視しているんだろう。
「……」
話し合い開始は宣言されたんだけど、会議室の中はすぐに沈黙で埋まってしまった。これまでの態度から見て話の口火を切るのは絶対に丈二さんのはずだったのに、俯いて固く口を結んだまま一言も発しない。黙り込んだまま。これも全くの予想外だ。
黙秘されてしまうと、めーちゃんの独立を認めるのか認めないのかがわからない。話さないのか話せないのかも区別できない。顔を伏せてしまったから表情もよくわからない。ないないない……これじゃまるっきり取り付く島がない。黙ることによって話し合いそのものを拒絶し、譲歩に抵抗しているようにも受け取れる。
紗枝さんは最初から座っているのもしんどいという萎れ方で、ぐったりと俯いたまま。何かを主張し出しそうな気配は全く漂って来ない。こちらも最後までだんまりかもしれないなあ。
両親に揃って黙り込まれると、めーちゃんも何をどう言っていいのかわからないだろう。困惑と憤りが入り混じった顔で、むすっと口を結んでいる。
めーちゃんのスタンスは本人からも松橋さんからもすでに表明されているから、それに対する見解がご両親のどちらかから出ないと話し合いが始まらないんだ。主張が噛み合わなくて話し合いが成立しないなら相違点の擦り合わせを『外から』動かせるけど、黙秘で意思が隠されてしまうと外野は何もできない。
こんな展開はあまりに予想外すぎる。まいったな。
どうしようもなく重苦しい沈黙が五分くらい続いただろうか。かすかに苛立ちの表情を見せた松橋さんが何か言おうとした途端、紗枝さんの涙声によって突然静寂が破られた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。みんな……みんなわたしが悪いんです。ごめんなさいー」
そう絞り出すなりテーブルの上に突っ伏して、激しく泣き崩れてしまった。
「わたしが……わたしが悪いんです……」
いや、悪いと言われても。何がどう悪いのかさっぱりわからない。サポーター組が揃って困惑する中、紗枝さんが泣き喘ぎながらこれまでの経緯を説明し始めた。その内容は誰にとっても桁外れの予想外だったけれど、一番強烈なショックを受けたのはめーちゃんだったと思う。
だって、これまで信じていた世界がぐるんとひっくり返ってしまったのだから。
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