第3話 シミュレーション
電車での移動中、私はずっと頭の中でシミュレーションを重ね続けていた。
あくまでも家族の中での話し合いであって、私は単なる付き添い。黙ってめーちゃんの横にいるだけだ。お守りか招き猫の置物みたいなものだよね。そうは言っても、丈二さんのリアクション次第ではめーちゃんを庇ったり行動を促したりという援護射撃が必要になるかもしれない。心の準備が必要かなと思って、昨日父さんが想定した構図を思い浮かべながら展開を予想してみたんだ。
あれだけ頑なな丈二さんが、これまでの基本スタンスを崩すことは絶対にないだろう。私、松橋さん、父という立ち合い人がいるから一方的に圧力をかけることはできないにしても、めーちゃんの突然の独立をすんなり認めるはずがない。
予想されるのは兵糧攻めだろうな。帰ってこない限り学費も生活費もびた一文出さないというのがもっともありうるパターンだ。当然話し合いは不調に終わり、そのままさようなら。父さんがかけた保険が適用されて、授業料減免やその他もろもろの手続きは松橋さんが補助する。めーちゃんは親の扶養から外れ、完全独立ということになる。親という葵の御紋が通じなければ、めーちゃんに口も手も出せなくなるんだ。
親子の縁がぷっつり切れることになるから個人的にはあって欲しくないオチなんだけど、可能性としては一番高いんだよね。
丈二さんが泣き落としや懐柔に出るというのが次に考えうるパターン。でもこれまでがこれまでだから口約束なんか論外で、もしはんこ付きの誓約書があってもめーちゃんが丈二さんを信用するとは思えない。めーちゃん単独で自宅に戻ることは絶対にない。付き添いの人がいる状態で限られた時間面会っていうのがせいぜいじゃないかなあ。
それで丈二さんが納得するかどうかだよね。いずれにせよ、めーちゃんが家を出る形になるのは変わらない。本拠地は、実家ではなくシェアハウスになる。
もちろん、自宅面会を学費や生活費拠出との交換条件にしたらその時点で即アウト。最初のケースと同じ帰結だ。
丈二さんが完全陥落するケース……シェアハウスでの生活を認め、学費や生活費を負担するというのが一番望ましいんだけど、そうなる可能性はほぼゼロだろう。
問題は、父さんが言ってたように、お母さんである紗枝さんのアクションが全く予測できないことなんだ。なにせ、紗枝さんの動向についての正確な情報が全くない。ほとんどが伝聞なんだよね。
めーちゃんが素行の悪さをぼろっくそに言ってたけど、それだって紗枝さんに直接確かめたわけじゃないはず。居場所が正確に掴めなくて、ごくたまにしか帰ってこないという事実から類推しているに過ぎない。それに、情報には丈二さんのバイアスがかかっている可能性がある。その丈二さんの説明にしても、妻である紗枝さんの動向をどこまで把握して言っているのかわからない。
紗枝さんの若い頃を知っている店長や岡田さんにしても、今の紗枝さんのことは知らない。丈二さんを撃退した日の夜、店長がそう言ってる。
話し合いの鍵を握るのは、原則を頑として曲げない丈二さんではなく紗枝さんなんだけど、その紗枝さんのところが完全なブラックボックスなんだよね。
一つはっきりしているのは、紗枝さんがめーちゃんの生い立ちにほとんど関与していないし、関与しようとするアクションも起こしていないということ。だから、話し合いの時には敵にも味方にもならない中立の立ち位置になるように思う。
丈二さんと組んでめーちゃんを呼び戻そうとすることも、めーちゃんの側に立って丈二さんの過干渉をこき下ろすこともなく。なんでわたしを呼んだのよ、わたしは関係ないでしょ? 巻き込まないでよ! ……と二人を突き放すんじゃないかなあ。
毒にも薬にもならない。立場的にも経済的にもほとんどあてにならない。そんな気がするんだよね。店長が言ってたみたいな「これまでずっと放置してきたんだから、最後くらい親らしいことをしてくれ」というリクエストはさっくり無視されると思う。
あとはめーちゃんのところだけど、ここは固定。シェアハウスでの生活を始めて、丈二さんとは距離を置きたい。干渉は今後一切受け付けない。それ以外には特にないはず。最初からのプラマイはなしだろう。
全体としては丈二さんの出方待ちになるんだろうなあ。そんな風にシミュレーションを整理しているうちに茶水の駅に着いた。で、めーちゃんがなんかそわそわしている。
「あ、ルイ。ごめん。ちょっとトイレ行ってくる」
「ほいほい」
駅出てすぐのファミレスで昼ご飯にしようと思ってたんだけど、それまで待てなかったのか、めーちゃんがたたっと走っていった。
やっぱり東京はどこに行っても人が多いなあと思いながらぼんやり立っていたら、十分後くらいに息を切らしながら戻ってきた。
「そんなに慌てなくても大丈夫なのに」
「人多くて歩きづらいからー」
「それもそうか。じゃあ、お昼にしよ」
「うん」
ファミレス大好きのめーちゃんは、例によってきゃいきゃい大喜びするのかなあと思ったけど。さすがに緊張が先に立ったらしい。小さなドリアを頼んで、しかもそれをかなり残した。やっぱりプレッシャーがきついんだろなあ。気持ちはよくわかる。
「さて、行こうか。大丈夫だよ。今回もサポーター多いし。しかも話し合いだからさ」
「う……ん」
駅舎を出て空を見上げる。三月下旬は、もうそろそろ春の足音が聞こえてくる頃だと思う。でも空は薄曇りで、日差しが弱くて肌寒い。いろいろな意味で早く日差したっぷりになってほしいなと思いながら、白く濁らなくなった息をほっと吐く。
めーちゃんも両手をジャージのポケットに突っ込み、思い詰めたような表情で空を見上げた。
「寒いね」
「そうだなー。早くサクラサクの景色を見たい」
「うん」
「お花見ポイント。押さえとかなきゃ」
「……」
珍しくリアクションがなかった。めーちゃんの余裕がなくなっている。
私は。話し合いが無事終わるまで口をつぐむことにしよう。
◇ ◇ ◇
アトリエソラにはすぐにたどり着けた。川沿いにある落ち着いた雰囲気の小規模ビルで、一階のギャラリースペースにはたくさんの学生やビジネスマンがたむろしていた。思ったよりも人が多い。
でも、エレベーターで五階まで上がると雰囲気が一変した。全ての貸し会議室が稼働しているわけではないみたいで、廊下には全く人影がなく、物音もしない。
「えっと。502号だったよな」
一つだけ扉が開け放たれている部屋があって、そこが502号みたいだ。部屋と部屋の間隔を見る限り、そんなにだだっ広い部屋ではなさそう。腰が引けているめーちゃんを先に行かせるわけには行かないので、私が先に入って中を確認した。
八畳くらいかなあ。会議室だから無機質な色とレイアウトを想像していたんだけど、モスグリーンの床と淡い水色の壁面は草原のイメージでとても開放的だ。二つ置かれている大きめのテーブルは木製で、スクエアじゃなく楕円形。それぞれにおしゃれな曲げ木の椅子が四脚ずつ配置されてる。全面ガラス張りの窓の向こうには神田川の川岸と広い空。街中なのに建物による圧迫感が少ない。
テーブルと椅子以外何もないからか、部屋がすごく広く感じられる。会議室というより、まるでアート展示みたいだ。さすが東京だなあ。
部屋の中にいるのはまだ二人だけ。松橋さんと父さんだ。
松橋さんは昨日と違って淡いクリーム色のスーツ姿。父さんは背広ではなく、白系のポロシャツにライトブルーのブルゾンというラフな格好をしていた。服装がカジュアルなのは、重苦しい雰囲気にならないようにという配慮なんだろう。
二人は入り口から遠い方のテーブルの手前側に並んで座り、打ち合わせをしていた。私たちの到着に気づいた松橋さんが、さっと立ち上がる。
「早かったわね。もっとぎりぎりに着くかと思ったわ」
そう言ってめーちゃんを見た松橋さんの目が点になった。
「萌絵さん、コスプレ?」
思わず吹きそうになったけど、確かにそんな風に見えるよね。てんぱってるめーちゃんの代わりに私が説明する。
「これ、彼女が家を出た時の服装なんです。丈二さんに見つからないための変装ですよ」
「あ、そういうことか……」
丈二さんから逃げ隠れする必要がない今、あえてめーちゃんがその服を着て見せる理由は……自明だよね。松橋さんがうんうんと頷いた。
父さんは、最初から全部お見通しっていう感じで平然としている。さすが心理戦のプロだ。
「えーと、どこに座ったらいいの?」
聞いてみる。
「俺に一番近いところに萌絵さん。その隣におまえ。萌絵さんの真向かいに紗枝さん。お父さんはおまえの向いだ。理由は説明しなくてもわかるだろ?」
そう言って、父さんがにやっと笑った。
「なるほどなー」
思わず感心してしまう。
「あの……どうして、そんな風に決まってるんですか?」
おずおずとめーちゃんが聞いた。父さんがノートに書かれた位置図を見せながら解説する。
「まず、萌絵さんの孤立を防ぐ。俺とルイで挟む形にすれば、物理的、心理的に両側からサポートできるんだ」
「あ……そうかあ」
「お父さんを真向かいに持ってくるのは無理だよ。お父さんが面と向かって威圧しないまでも、そこにいるだけで萌絵さんが心理的に強いプレッシャーを感じてしまう」
「……うん」
父さんが松橋さんに目をやる。
「松橋さんに聞いたんだが、DVに絡んだ案件の場合、事情聴取や調停をオンラインや音声だけでやることもあるそうだ。もちろん被害者の心理的負担を和らげるためだ」
「今回そうしなかったのはどうしてなの?」
私が聞いたら、父さんからシンプルな答えが返ってきた。
「同席の方が、お父さんに強いプレッシャーをかけられるからだよ。紗枝さんの立ち位置がまだわからないけど、それ以外は全部萌絵さん
「あ、確かにそうだ」
「音声だけだと、こっち側が圧をかけられない。かえってお父さんを有利にしてしまう」
「なるほどなー」
父さんが窓の方を指さした。
「室内照明が点いていると言っても、今は外光の方が強い。こちら側の顔はやや明るく、逆光になるご両親の方はやや暗くなる。萌絵さんの心理的優位を演出できるのさ。そんな風にいろいろな要素を考え合わせていけば、席の配置パターンは自ずと限られるよ」
うん。理解できた……けど。
「父さん。私と萌絵さんの位置は逆の方がいいんじゃない?」
「ほう?」
「もし丈二さんが直接行動を起こそうとした場合、萌絵さんがさっと逃げられなくなる。ワンテンポ遅れちゃう。萌絵さんを出入り口に一番近い位置にした方がいいと思う」
「む……」
父さんがノートの上に曲線を二本追加した。私とめーちゃんの位置を入れ替えたんだろう。
「もっともだ。そうしよう。当然、お父さん、お母さんの配置も逆になるな」
「うん」
私と父のやり取りを聞いていた松橋さんが、感嘆の声を漏らした。
「ううーん……すごいなあ。親子揃って理論派かー。年頃の子は父親とぎくしゃくしがちなのに、阿吽の呼吸ですね」
全力で苦笑してしまう。
「あはは。松橋さん、それは違います。今の父とのやり取りは、私が幼い頃からずっと続けてきたルーチンみたいなものなんです。おはようとかの挨拶交わすのに近いかもなー」
「へ?」
びっくりマークはめーちゃんからも出た。なんじゃそりゃって感じで。
「まあ、それはこの件が片付いてからネタにしましょう」
ぱちんとウインクしてみせたら、父さんがふうっと大きな溜息をついた。それから、松橋さんに向かってぼやいた。
「松橋さん。親子として見るなら、俺とルイよりも萌絵さんとご両親の方が本筋なんですよ。親子の間で感情的なズレが生じるのは至極当たり前のことだから」
「確かにね」
松橋さんが何か言い足そうとした時に、廊下の奥から足音が聞こえてきた。私たちの間にさっと緊張が走った。
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