第2話 いざ出陣

 探検散歩から戻ってすぐに、話し合い用の服に着替える。とは言え、私はいつも通りのシャツとチノの組み合わせで行くしかない。フォーマルな服はスーツしかないし、見た目が女性に見えるようにという設定ならスーツは着られない。おしゃれとか遊び心がとかそっち系の手持ちは皆無だし。店長に、ルイはいつ見てもシンプルイズベストやのうと呆れられるほどバリエーションが乏しいからなあ。


 小さい頃からずっとそうだったというわけではないと思うんだけど、幽閉環境下だと自分の見せ方を考える必要がないんだ。たとえすっ裸でも、母や植田さんは何も言わないだろうから。

 前沢先生がかてきょで来るようになって、少しだけ服のバリエーションが増えた。それは私がそうしたいからではなく、母の配慮というか用心だろう。いつも同じ服だと子供を虐待しているんじゃないかと思われる……そういう用心だ。

 でも、私は服装に対する関心が全くなかったから、何を着せられたところでただの布。今に至るまで、衣服に特別な意識を置いたことはない。


 トムだってファッションセンスがいいわけじゃないと思うけど、彼なりのこだわりはきちんとある。決して私みたいなベーシック一辺倒じゃないんだ。

 服装も自分を見せる素養の一つだから、私もこれからは少しワードローブを考えなければならないんだろうけど……。正直ものすごく面倒くさい。これまでの基本セットプラスアルファで、なんとかしのげないかなあ。


「ごめんね、待たせて」

「いや、まだ時間には余裕があるから大丈夫だよ」


 リビングに入ってきためーちゃんは、初めて会った時と同じ黒ジャージっぽい服を着ていた。髪も歪んだひっつめツインテール。ごっつい黒フレームの素通しメガネ。自分の見てくれをひどくくすませようとする極端な格好だ。

 もう丈二さんに見つからないようにする必要はない。人の視線を集めたくないなら、今の格好はむしろ逆効果になる。さっき散歩していた時の服装でいいと思うんだけど、なぜわざわざ変な格好をするんだろう。


「あ」

「なに?」

「いや、なんでもない」


 そうか。考え違いに気づいてしまった。私はめーちゃんが前に言ったセリフにトラップされてしまったんだ。


『パパにばれないように変装した』


 めーちゃんは嘘は言っていない。確かにその通りだと思う。でも丈二さんのあの強烈な束縛下で衣服の選択肢なんかあっただろうか。手持ちの服の組み合わせにしたら、結局すぐにバレるんだ。

 黒ジャージと伊達メガネ、白スニーカー、大きなバックパック……。学校に通う以外自宅から出られないめーちゃんは、家にないアイテムを揃えるのにものすごく苦労したんじゃないかと思う。だからそれらのアイテムは、自分だけの領域の象徴だったんだ。

 髪型もそう。前にユウちゃんが言ってたんだよね。長い髪は結わえなさいっていう校則があるって。でも丈二さんは、めーちゃんが髪を結わえるのが嫌いなんだろう。学校では仕方ないが家では下ろせ、と。


 そう考えれば、あの奇妙な格好が単なる変装用ではなく、反発と自己主張を示すものだということがわかる。


 家を出たばかりのめーちゃんには、丈二さんに正面切ってたてつけるほどの勇気はまだなかった。見つかればすぐに連れ戻されるだろうし、徹底抗戦するだけの力も意思も整っていなかった。弱かったんだ。

 でも、丈二さんがめーちゃんに押し付けてきた『型』を壊したいという想いはしっかりあって、それがあの格好になったんじゃないかな。丈二さんに正面切って「もういやだ」とは言えないまでも、「あんたの思うようにはならないよ」という言葉以外の意思表示をする。それが黒ジャージ姿だったのかもしれない。


 そして今。めーちゃんは再び戦闘服を着た。お世辞にも似合っているとは思えない格好をあえてすることで、反発と不服従をしっかり顕示しているんだ。

 丈二さんに勝つ前に、まず自分に負けないようにすること。めーちゃんの戦いはすでに始まっているのだろう。


「どしたの? そんなじっと見て」

「いや、自分の時のことを思い出したんだ」

「店長がすごかったって言ってた時のことね」

「ちゃんと準備はしてたよ。親との対決になった時、親の理屈をねじ伏せる材料は揃えてあったんだ。でも、まさかあんな形になるとは……思ってもみなかった」

「あんな形?」

「レンタルカレシで私の取った客全員が、クレームつけるために事務所に押しかけたんだ。店長が捌ききれなくて、私を呼び出したの」

「ひえーっ!」


 あの時のことを思い出して苦笑する。いつも冷静な店長がものすごく慌ててたよなあ。


「私はもう登録から外れてた。無関係なのにさ」

「それでも……行ったの?」

「店長に、下のレンタルショップのバイトを斡旋してもらう段取りになってたの。トラブルで店長に迷惑をかけたら、バイトがパーになるかもしれない。脱出を実現しても、そのあと野垂れ死にしたんじゃ意味がないからね」

「あ、そうかあ」

「自分の商売のために私を利用する。そう考えたら、店長だって決して私の味方とは言えない。対決の時に全員敵だったっていうのは、店長の言った通りなんだよね」

「よく乗り切ったね」


 ふうっ。右拳を握って自分の目の前に掲げる。貧弱でなよっとした、情けない拳。この拳で誰かを殴っても、壊れるのは相手ではなく自分だ。

 それでも。それがわかっていても。私は拳を握り固めた。怒りをしっかり全員に見せるために。自分を『天使』というフリークスの枠に無理やり押し込めようとするろくでなしたちに向かって、冗談じゃないと怒りをぶちまけるために。


「怒ってたの。どうしようもなく、ね。その怒りが消えなかったから、なんとか乗り越えられた」

「怒り、かあ」

「見かけがのほほんだし、中身も見かけとそんなには変わらないよ。でも温和で従順で草食っていう一方的に押し付けられたイメージをどこかで徹底的に破壊しないと、自分も周りも変化しない」


 握った拳で自分の頭をごんと叩く。


「怒りをエネルギーにして、自分を強制的に変える。私はそこそこうまくやれたんだと思う」

「え? そこそこ、なの?」

「もちろん。そこそこでしかない」

「えー? そんな風には見えないけど……」

「そんな風には見えないって言ったでしょ?」

「うん」

「だからそこそこなの。イメージと実体とが激しくずれていることに、きっちり怒りきれてないんだよね」


 今になって思う。鶏小屋を壊す時に一番必要だったのは、見せかけの自分を壊すことだった。

 他の人が持ってる知識や能力や経験を何も持っていない。全てが穴だらけで未熟だ。だから、誰かの庇護を受けないと生きられない。植田さんに暗示をかけられるずっと前から、そういう思い込みや諦めのような気持ちがどこかにあって。それが、私の鷹揚さやのほほんとした雰囲気を作り出しているんだろう。

 でも、そんな虹色ヴェールをまとっている限り絶対に鶏小屋を出ることはできない。ヴェールをむしり取って、生身のまっ黒い自分を見せる必要がどうしてもあったんだ。


 自分の殻を打ち砕く原動力は怒りしかなかった。他者に対してだけでなく、自分自身にも向けた強い強い怒り。下手くそだけどその怒りをフルに使ってなんとか脱出に成功したんだ。

 だけど。私は、鶏小屋破壊だけで怒りを使い切ってしまったように思う。自分自身への怒りを目減りさせたことが、自分を「そこそこ」のままにしてしまっている。せっかく自立に向けて舵を切ったのに、足元がずっとおぼつかないままじゃ……なあ。


「そこそこ、まだまだ、ちょぼちょぼ。ちぇ、そんなんばっかだ」


 思わずぶつくさこぼしたら、めーちゃんがぷっと吹いた。


「そっかー。なんかほっとした。わたしもがんばれそう」

「ははは」


◇ ◇ ◇


 最初に会った時のめーちゃんと、格好は同じだ。ただ、一つだけ大きな違いがある。めーちゃんはバックパックを背負っていない。あの荷物は、逃避行には必要だけど話し合いには要らないから。


 帰って来る場所がある。そして、ここから新しい未来が始まる。話し合いがどのような形になっても、ここには戻れるだろう。でも。

 ここでの生活に余計なボールアンドチェーンがくっつかないように。いい方向で話し合いがオチてくれればなあと。心から祈る。


「さあ、行こうか」

「うん」


 めーちゃんは、シェアハウスに向かって手を振った。


「行ってきます」


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