最終章 五日目:海を目指す
第1話 近傍探検
「ううー……ねーむーいー」
緊張と睡魔。今日は睡魔が勝った。寝ても寝ても眠い。昨日は明日に備えて早く寝ようと十時前に布団に潜り込んで即落ち。そのまま一回も目が覚めずに爆睡し、今朝七時過ぎに店長からの電話で起こされた。一瞬、シフトを忘れたかと思って青くなったけど、そうだ、今日はオフ日だった。店長が松橋さんの代わりに連絡してくれたんだ。
「済まんな、朝早くに」
「いいえー。ふわわ。話し合いのことですよね。ふわー」
「せや。今日の午後一時。場所は茶水のアトリエソラゆうとこやて。五階の貸し会議室、502号や」
「ちゃみず?」
「ああ、済まん。御茶ノ水や」
「あ、御茶ノ水ですか」
店長の略語が、私にはまだぴんとこない。とほほ。
「そっからだとちょっと遠い。少し早ぅ出なあかんわ」
「わかりましたー。余裕見て出ます。ええと、アトリエソラ、でしたっけ。すぐわかる場所にあるんですか?」
「松ちゃんはすぐわかるー言うとったな。なんかおもろいとこみたいやで」
「へえー」
どんな施設だろう。あとで調べてみよう。
「緊急連絡用に、松橋さんの携帯番号を教えてもらっていいですか」
「かまんで」
リビングに出てメモ用紙と鉛筆を手元に寄せ、店長の読み上げた番号を書き控えた。最初に店長が言った時間と待ち合わせ場所もメモに追記する。
「ええと、もう一度繰り返しますね。午後一時に御茶ノ水のアトリエソラ。五階の502号室でしたね」
「せや。もしわからんかったら、俺か松ちゃんに電話してくれ」
「ありがとうございます」
「ほならな」
店長の伝言をぶつぶつ復唱しながら電話を切り、すぐにスマホでアトリエソラを検索する。店長は詳しい位置情報を言わなかったんだ。アバウトな店長らしいなと思う。
アトリエソラはすぐに見つかった。確かにおもしろい施設みたいだ。一階が広い展示スペースになっていて、油彩や版画がいっぱい飾られてる。テーブルスペースでコーヒーを飲みながら、絵を鑑賞したり本を読んだりできるらしい。経営しているのは画商さんで、入館料不要。気に入った絵があったらぜひ買ってくださいということなんだろう。
その建物の二階から上がグラスエリアの広い貸し会議室になっていて、広い空を眺めながら仕事ができるという売りになっている。だからアトリエソラ、か。松橋さんもいいとこ知ってるなあ。
「それにしても。はああっ」
スマホをテーブルの上に置いて、でかい溜息をつく。
大学に入れば自然に世界が開けると楽観してたけど、鶏小屋を出たあとも行動範囲と思考パターンが思ったほど広がっていない。
先生との共同生活を始める、バイトをする、予備校に通う……そこまでは一気だった。でも、劇的に世界が拡大したかと聞かれたら、ちっともと言わざるを得ない。
鶏小屋を出てから大学に入るまでの期間、私は受験生で、受験勉強とバイトをこなすのが精一杯。他のことに気を散らす余裕はなかった。いや……そんな風に自分に向かって言い訳をしていたんだ。余裕がないから今は仕方ないと。
だけど。合格を決めて欲しかったゆとりを手にしたはずなのに、思考がちっともそれに連動していない。先生との共同生活終了に備えていなかったなんて、完全にアウトなんだ。共同生活をずっと引っ張るつもりはないと言ったのは先生じゃなく私なのに、警告を出した当の私が現状維持に慣れちゃって、先生の方がちゃんと危機感を活かしてチャンスをものにしている。
壊した鶏小屋の代わりに、自分から新しい小屋を作ってしまうなんて。思わず自嘲してしまうくらい進歩がない。まずいなあ……。
「おはよー」
三日目のブルーだぼだぼパジャマを着ためーちゃんが、これ以上ないくらい弛緩しきった姿でリビングに入ってきた。今の姿なら、先生のでろんでろんと大差ないよなあと苦笑する。
「おはよう。店長経由で松橋さんから連絡が来た。今日の午後一時だって」
緩み切っていた空気が、一瞬でぴんと張り詰める。
「ん」
「顔洗って、着替えてきて。ちょっと提案があるんだ」
「提案?」
「そ。たいしたことじゃない。食事のあとで話す」
「わかった」
話し合いのことは考えたくないんだろう。小さく頷いためーちゃんがバスルームに向かった。その間に、朝食の支度をしておこう。
◇ ◇ ◇
昨日の朝は襲撃に備えるという感じだったけど、今朝は違う。今日の昼の話し合いは、迎撃ではなく出撃だ。押し返すだけじゃなくて、なんらかのオチをつけなくてはならない。松橋さんも昨日そう言ってたよね。落としどころを探すって。それは建設的に見えて、実はものすごく難しい。誰にも出口を見通せていないからだ。
対立には援護射撃できる私も、調整には一切口を出せない。父さんはそれを知っていたから、きちんと突き放した。選択の責任は各々で負うしかない。私たちには負えませんよ、と。決して冷たいわけじゃなく、当たり前のことだったんだ。
自分の道を自分で作る。逃げるという形でなく、自ら道を切り拓いて前に進むなら、めーちゃん自身が青写真を描かなくてはならない。どんなに下手くそでも。
そして、私が今ぶち当たっている難題もめーちゃんと全く同じ。いや、親という対立軸を置けなくなった私の方がむしろ深刻なんだろう。
食事の間もずっと無言でぴきぴきに緊張していためーちゃんが、慎重に口を開いた。
「ねえ、ルイ」
「うん?」
「提案、て?」
「ああ、今日の午前中の使い方、さ」
何かものすごく深刻なことを考えていたらしいめーちゃんは、拍子抜けしたように椅子に背を預けた。
「なあんだ。そっか。今日はシフトに入ってないもんね」
「うん。岡田さんが私たちの想定以上にいろいろ整えてくれたから、目的持ってがっちり買い出しってのは慌ててしなくてもいいでしょ」
「助かるよねー」
「ほんにほんに。でさ」
「うん」
「まだスーパーとコンビニくらいしか行ってないから、このあたりを探検してみたいなーと思ってさ」
「あ、それいいかも!」
しんどいことを考えたくなかったんだろう。めーちゃんの表情がぱっと明るくなった。
「大学始まっちゃうと、慣れるまではここと大学との行き来だけになりそうだし。今のうちならのんびり見て回れる。どう?」
「さんせー!」
椅子から飛び降りて駆け出そうとしためーちゃんの後ろ姿に声をかける。
「スマホ持ってってね。おもしろそうなものがあったら画像撮っておきたい」
「なるほどー!」
スマホにそんな使い方があったのかという感じだ。今まではスマホが丈二さんの監視装置みたいなものだったんだろう。プライベートユースが認められず、単なる緊急連絡用。でも、その制限は今日いっぺんに外れる。スマホは貴重なツールになる。
昨日めーちゃんが言ってたみたいに友人の情報をストックし、わからないことを検索で調べ、興味のあるものを画像を撮って記録する。慣れてくれば、インスタとかにもチャレンジできるようになるだろう。
一方で、これから私やめーちゃんにとってはスマホが貴重な緩衝材になる。相手との距離を測りにくい時に、そこに一旦スマホを噛ませる……そういう使い方ができる。あまりやりたくはないけど、出番はあるだろなー。
私はまだコミュニケーションの取り方が徹底的にぎごちないんだ。知っていることをつなぎ合わせて会話することはできるし、苦手じゃないけど。こなせてしまう分、会話をしっかり深いコミュニケーションにつなげるスキルがなかなか向上しない。
困ったことに、店長以外の人はそういう私の厄介な状態に気が付いてくれないんだよね。めーちゃんだってそう。私のコミュ力を過大評価してる。
店長は、私のコミュニケーションスキルが寸足らずなことをよく知ってる。だからめーちゃんに「ルイは足りない」とはっきり言ってくれたんだ。致命的な欠点をこれからどう克服するか。めーちゃんとの共同生活を軌道に乗せるには、そこが重要になってくるだろう。
「お待たせー!」
ばりばり気合いが入った状態でめーちゃんがリビングに走り込んできた。服装は昨日と全く同じだけど、髪が尻尾になっていない。そのまま自然に下ろしている。武装はメガネだけだね。そして、表情がまるっきり違う。わくわく感が爆裂してる。そうだよなー。抑圧が外れた姿として見れば、めーちゃんのリアクションの方がずっとまともなんだ。とほほ。
まあ、私もめんどくさいことは一度棚上げにして、探検を楽しむことにしよう。馴化訓練は楽しい方がいいからね。
◇ ◇ ◇
「楽しいーっ! 楽しい楽しい楽しいっ! ここにしてよかったーっ!」
めーちゃんの好奇心が容赦なく炸裂する。探検なんていうどこか腰の引けたもんじゃないわ。まんま、開拓だ。見るもの聞くもの全て未開地。何に触れても新鮮な驚きと感動ゲット! そんな感じで、どこにでもめーちゃんが突っ込んでいく。古書店を見て感動し、パン屋さんを見て感動し、リサイクルショップや古着屋を見て感動し、街カフェを見て感動し……。宝物庫にたどり着いたトレジャーハンターみたいな喜びようだ。
で、実は私も地味ぃに、でも負けず劣らず感動していた。今言ったみたいな店があることは『知識として』知っている。だけど、今までは全く縁がなかったんだよね。スーパー、コンビニ、ファストフード系の店、あとはせいぜいホームセンターくらいで。
もっとプライベート感が強くて、人の匂いの濃い店がいっぱいある。文句なしに楽しい。
おもしろそうなスポットを見つけたら、すぐにスマホを構えてばしばし画像を撮る。めーちゃんも負けていない。二人揃ってどこのお上りさんだと思われるだろうなあ。苦笑しながらも、手は止まらない。
でも。夢中になっている間に容赦無く時間が流れていたみたいで。スマホのアラームが鳴って我に返った。
「ちぇ。時間切れだー」
「え?」
息を切らして駆け戻ってきためーちゃんが、私のスマホの時間表示を見て、がっくり肩を落とした。
「ううー……」
「まあ、今日で終わりってことはないよ。だけど、この続きを楽しみたいなら今日はどうしてもしのがなきゃならない」
「……うん」
「がんばろ」
「ありがと」
たくさん撮った画像のサムネールをじっと見つめていためーちゃんは、小さな声ではっきりと言い切った。
「これが最後には、絶対にしたくない」
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