第7話 親の形
私への提案、明日の話し合いに向けた地ならし。両方を大きな波乱なく済ませることができて、ほっとしたんだろう。父さんは話を突然変えて、店のことを説明し始めた。
「この店、いいだろ?」
「うん。家庭的っていうか。すごく居心地がいいね」
「喜ぶよ。ここを切り盛りしてるシェフは、俺の学生時代の友人なんだ」
「わあお! 知らなかった」
「こんな居心地のいいところは、あまり人に教えたくない。それでも、口コミで徐々に評判が広がっちゃってね。なかなか予約が取れないんだよ」
「うん。わかる。すごくおいしいもん」
めーちゃんは、まだ必死に食べている。ここでおいしいものを食べとかないと、次にいつ来れるかわからないみたいに。
そんなめーちゃんの食べっぷりを頼もしそうに見ながら、父さんが昔話を続けた。
「店の名前、リドってのはイタリア語じゃなくてね。そいつの名前、
「へえー、全然違和感ないね」
「ははは。俺も必死に考えたからな」
「え? もしかして、名付け親は父さんなの?」
「そう。だから、この店は俺にとって特別。そいつとの長い付き合いの結晶でもあるし、俺にとってここはいつでも俺でいられる最後の砦なのさ。安易に壊されたくない」
すごいな……。
父さんが私の顔を見ながらぽつりと呟く。
「俺の夢だったんだよ」
「夢?」
「そう。俺に女房子供ができたら、ここで家族水入らずで食事をする。それがささやかだけど、俺の夢だったんだ」
父さんの浮かべていた柔らかな笑顔が、すっと消えた。
「一生、叶わないと思っていたよ。叶えてくれたのは、ルイ。おまえだ」
「……」
「俺が由希と結婚した時、俺のプロポーズを受ける条件は『子供を作らないこと』だった。すでにルイへの依存体質が出来上がっていたから、その条件は飲むしかなかった」
「うん」
「そして。俺はルイにとって父親ではなく、親切なおじさん、さ。わからないことや悩み事になんでも答えてくれる、優しいおじさん。俺は父親と名乗ることを由希に許してもらえなかったんだ」
そうだろうなと思った。母さんにとっても、植田さんは親切なおじさんの位置付けに過ぎなかったんだろう。植田さんの愛情だけを一方的に搾取し、自分の分は全部私に注ぎ込んでいた。ものすごくアンバランスだったんだ。
「俺が由希のリクエストに応じることで、由希は正気を保てた。だが、そのとばっちりが全部ルイに行ってしまった。正直、俺が父親だなんて名乗れる筋合いはどこにもないんだ。ルイの人生を壊した張本人……それは間違いない。どれほど謝っても謝りきれない」
父さんが深々と頭を下げる。
「だが、去年ルイが家を出た時。ルイがかけてくれた言葉が、それまでの俺の苦悩を全部ちゃらにしてくれた。俺は……あの一言で救われたんだよ」
「なんだろ?」
「カウンセリングはもう容れないが、親父の説教は歓迎する。自分の子供を呼ぶのに『くん』付けするのはやめろ。そう言っただろ?」
「あはは、そうだった。言った言った」
「最高だよ」
父さんの顔が歪んだ。長い間植田さんと顔を合わせてきたけど……泣いたのは初めて見た。私の涙腺も緩んだ。
「俺には一生できないと思っていた家族ができた。俺は……親になれたんだ。親の形なんてのは決まってないよ。親が子供に押し付けることもできないし、子供が勝手に決めつけることもできない。形なんて、あってないようなものなんだ。でも、どんなに奇妙であっても親の形はある」
「ん……」
「俺は……俺はどうしようもなく感動したのさ。ああ俺は父親なんだ。とうとう父親になれたんだ……ってね」
拳で目をごしごし擦った父さんが、照れ隠しもあったのかもう一度店内を見回した。
「ここは、俺にとって特別な店なんだ。おまえにも覚えておいてほしい。気の置けない友人と心から寛いで食事をしたい時だけ使ってくれ。そして、将来おまえに家族ができたなら」
父さんは、続く言葉を慎重に選んだ。
「それが誰で、どんな形であってもかまわない。おまえが家族であると心から思える人ができたら。ここで一度は食事をしてほしい」
「うん」
「ここをやってる野島というシェフは、事故で家族を失ってる。独りなんだ。あいつの家族はずっと欠けたままなんだよ。俺だけが家族を得て幸せになるわけにはいかないんだ。あいつにも……」
父さんがそっと目を伏せた。
「幸せを分けてやって欲しい」
◇ ◇ ◇
お腹がはち切れるんじゃないかというくらい力一杯食べて。私とめーちゃんは、ひゃっぱー満足して帰りのタクシーに乗り込んだ。父さんは遠回りになるのは承知の上で、私たちをシェアハウスの前まで送り届けてくれた。
「ほう。これが女子寮か」
「うくく。岡田さん、おちゃめだから」
「つかみは上々ってとこだな。しっかり楽しめ」
「うん。今日はありがとう。ごちそうさま。明日もよろしくね」
「任せとけ」
憑き物が落ちたような明るい表情で、父さんがとんと胸を叩いた。
「じゃあ、萌絵さんもしっかり休んで、明日に備えてくれ。あ、一つだけ言っておこう」
「なんでしょう?」
「対決じゃない。話し合いなんだ。これも訓練だと思って、上手に距離の探り合いをしてほしい。そのあたりの調整はルイがうまい。参考にして」
「わかりました。ありがとうございます」
「それじゃ、また明日な」
「はい。おやすみなさい」
父さんに向かってぺこりと頭を下げためーちゃんは、タクシーが見えなくなるまで見送っていた。
◇ ◇ ◇
家に入ってすぐ、大事なことに気づいた。バイトに行く時ばたばたしてて、岡田さんがセットしてくれたものをまだ確認していなかったんだ。慌てて整備リストを見ながらチェックする。
シーリングライトやキッチンのカラーボックス、中古の電子レンジ、掃除機。リクエストしていなかったのに、リビングのカーテンまできちんと取り付けられていた。しかも、中古とはとても思えないくらいどれもきれいだ。
「ううー、こんなにしてもらっていいんだろかー。みんな新品みたいだねー」
照明のリモコンを操作しながら、めーちゃんがぼそっと言った。
「たぶん、ほとんど新品でも置いてっちゃう人がいるってことだよね。事故物件だからかなあ」
「あ……」
めーちゃんだけでなく、私も手にしたリモコンを見つめてしまう。
それにしても本当に助かる。岡田さんを紹介してくれた店長にも感謝感謝だ。
「さて、と。ちょっと一服しようか」
「うん」
眠れなくなるくらいの緊張が解けたわけじゃない。丈二さんがどういう行動に出るかは、関わった人の誰も読めないと思う。でも、これだけ多くの人から警告を畳みかけられれば、強硬手段を取ったが最後詰みになることはわかるはずだ。昨日ほど警戒しなくてもいいだろう。
行動の早い店長のことだから、明日の話し合いの段取りはもうつけていると見た。松橋さんから店長経由で、丈二さんとめーちゃんのお母さんに連絡が行ってると思う。こっちも連絡網を整備しておこう。
「めーちゃん、携帯の電源を入れといて。丈二さんがここを知っている以上、位置を隠す必要はもうないから」
「あ……そうか」
本当はずっと切ったままにしておきたかったのかもしれないけど、携帯が使えないのは不便でしょうがない。めーちゃんも分かってくれて、電源を入れた。ライントークやメールを全消去したのは仕方ないと思う。おそらく丈二さんの恫喝の言葉しか並んでいないだろうし。
今は一緒に行動しているけどこの先ずっとというわけにはいかないから、メアドとラインIDを交換し、レンタルショップの電話を登録してもらう。
「これで店長と直にやり取りできるから、スケジュール調整や連絡が楽になるはずだよ」
「うん」
スマホをじっと見つめていためーちゃんが、ほっと息をついた。
「ここに……もっとアドレスが並ぶようになるのかなあ」
丈二さんのことだから、自分以外のアドレス登録を許してなかったのかもね。先生のアドレスが消えて、ますます寂しくなった私のアドレスリストをかざしてみせる。
「私だって似たようなもんだよ。でも、本番はこれからなんだ。本番にたどりつくための最後のハードルが明日来る。それさえ越せればなんとかなるでしょ」
「う……ん」
ティーパックで紅茶を淹れて、ほとんどぱんぱんだったお腹の最後の隙間を埋める。で、ちょっと考える。
「どうしたの?」
「いや、さっき帰り際に父が言ったことさ。ああ、父さんだなあと思って」
「どういう意味?」
「いついかなる時も理性を最優先する。感情を先走らせない。それは、カウンセラーの職業病みたいなものなんだろうな」
「え? そうなの?」
「うん。私は父が泣いたのを初めて見た。苛立ちとか落胆の表情は知ってるけど、丈二さんが示すみたいな感情爆発を今まで一度も見たことがなかったんだ」
丈二さんみたいに剥き出しの怒りをぶつけられるのは嫌だけど、強い感情の露出は作り物じゃなくて生身なんだよね。そういう生身の部分が植田さんから見えたことがなかった。だから、私も感情を隠して警戒せざるを得なかったんだ。
「おかしいんだよ。人間なんだからさ。嫌なら嫌。許せないなら許せない。そういう強烈なネガがどかんと漏れてもおかしくないのに。つまり、私といる時にはずーっと仕事モードだったんだ」
「うん」
「今になって、やっと本心から親だっていう意識になれたってことなのかなあ」
カップに残っていた紅茶を飲み干して、小さなげっぷで今日一日に蓋をする。
「義理とはいえ自分の子供なのに、父なんだよって言えないのはカワイソウかなあと。ちらっと思ったんだけど」
「……」
「違うな。血の繋がっていない厄介者の私を子供だと思えるまで、すごく時間がかかった。そう考えた方がいいように思う」
「あ、だから距離の話をしたのか」
「そう感じた。離すだけでなく近づけることも必要。そのための調整、か」
もう一つ気になることがある。
「さっきの父の助言で、上手に距離の探り合いをして欲しいって言ってたよね」
「うん」
「あくまでも『上手に』であって、必ずしも冷静にとか感情的にならずにってことじゃないんだ」
「あっ」
めーちゃんの持っていたカップが、テーブルに落ちてこつんと音を立てた。
あのカミングアウトの時。私は全身全霊で自分のナマをぶちまけた。でも全開にしたのは自分の意思であって、恨みとか罵倒じゃない。吐き出してしまいたい真っ黒な感情が渦巻いていたのは確かなんだ。だけど、それを誰にぶつけても結果はプラスにならない。諦めと計算。結局私は、自分の感情を全部は出しきれなかったんだよね。
出してはいけないものを出すのも、出さなければならないものを出しきれないのも、揃って『下手』なんだ。
それは終わってから気づいたこと。こうすれば百点という絶対的な正解なんてどこにもないよね。できる限りのことをして、そこから成果を丁寧に拾っていくしかないんだろう。
「明日は、何度もノーを言う必要はないと思う。もうめーちゃんの方針は全員わかってるんだ」
「ここに住んで、大学に通うってことね」
「そう。あとはその理由をきちんと説明するだけ。丈二さんの束縛から逃れたいという以上の理由が『もし』あれば」
「……」
「それを考えておいた方がいいかな」
「ルイは……どうだったの?」
でかい溜息を転がす。
「はあああっ。私には、鶏小屋を出たいという理由以外はなかった。だから苦労してるんだよね。今も」
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