第6話 提案
父さんは流しのタクシーを拾って私たちを押し込み、運転手さんに行き先を告げた。
「鳥畑三丁目にトラットリア・リドという洋食店があるので、そこまでお願いします」
「鳥畑三丁目ですね。わかりました」
運転手さんが住所を検索してナビに打ち込み、父さんが場所を確認した。車はすぐに走り出した。外はもう真っ暗になっていて、車窓にめーちゃんの顔が写り込んでいる。たぶん……これからの夕食のことより、明日の話し合いのことで頭がいっぱいになっているんだろう。憂鬱そうな表情だ。
私も考え込んでしまう。思考が全然変化に追いついていない。それがすごく不安なんだよね。
たった数日の間に自分と周囲がばたばたと変化していく。変化すること自体は覚悟していたはず。ただ、変化の起点がまるっきり読めなかった。私もめーちゃんも、いきなり堰が切れて、勝手に水が走り出してしまったんだ。
流れの行方はまだわからない。最初は無我夢中でもがき、あるいは流れに乗り、あるいは波に逆らい、今のシェアハウスにたどり着いたところで少しだけ周囲を見渡す余裕ができた。でも。まだ水路がない。これから自分たちはどこをどう流れていけばいいのだろう。自由に流れると言えば聞こえはいいけど、目標を見失って散った水はそのうち大地に吸い込まれてしまう。何かに押し流されるんじゃなく、自ら押し流すという力を失っていく。
店長が言ったように、まだ始まってもいない。大学生活のスタートは来月なんだ。少なくてもそこまでの水路をがんばって確保しないと……何も始まらない。
「着きましたよ」
運転手さんが液晶パネルをタップして料金メーターを止めた。タクシーに乗っていた時間は十分もなかったと思う。慌てて周辺を見回す。飲食店の立ち並ぶ歓楽街かなと思っていたんだけど、住宅地らしい。しんと静かだ。
カードでタクシー料金を払った父さんは、タクシーが横付けされた家の呼び鈴を鳴らした。門灯も玄関もごく普通の家にしか見えない。本当にここが洋食屋さん?
からん……と小さなドアベルの音がして、扉が開いた。
「いらっしゃいませ。どうぞお入りください」
私たちを出迎えたのは、半折りの白いエプロンを腰に巻いたおじさんだ。父さんと同じくらいの年かなあ。背は父さんより低いけど、がっしりした体型。人懐こい感じで、笑顔がとても優しい。
「急な予約で済まなかったね」
「構わないよ。夜の部は空いてたから」
「おまかせ、で」
「承知いたしました。こちらにどうぞ」
と。会話だけを聞けば、間違いなくレストランなんだろうけど。靴を脱いで上がった家はどう見ても普通の民家だ。そのリビングに案内される。
「わ! すごーい……」
おっかなびっくりで最後尾についてきためーちゃんが、リビングの造作を見て驚いてる。もちろん、私もびっくりだ。二階建ての家なのに、その二階がない。吹き抜けのように高くなっていて、開放感がある。壁も床も白系で統一されていて、照明が絞られていても明るい。決して広くはない部屋が、天井の高さと色の効果で区切られた面積以上に広く感じるんだ。
そして……部屋にはダイニングのセットが一つしかない。客は私たちだけなんだろう。
椅子を引いて座った父さんが、くすくす笑っている。
「おもしろいだろ? 隠れ家のような店なんだ」
「父さんが仕事で使うお店なの?」
「いや、仕事には絶対に使わない」
珍しくきっぱりとした言い方で、父さんが首を振った。
「ここは俺にとって、特別なところだからね」
特別なところ、か。どういう風に特別なんだろな。
さっきのおじさんが二つ折りのメニューリストを持って部屋に入ってきた。あれ? おまかせって言ってなかったっけ。
「お飲み物はどうされますか?」
あ、そうか。お酒のリストだ。父さんは手のひらを向けて断る仕草をし、わずかに苦笑した。
「明日、重要な仕事があるんでね。今日はいいわ。楽しみはあとにとっておく」
「承知いたしました。トニックウオーターとレモン水をご用意いたしますので、お好みに応じて飲んでいただければ」
「助かる」
細長いグラスとスライスレモンの浮かんだピッチャー、トニック水のボトルが並べられ、テーブルの真ん中にででんと大きなオードブルのお皿が置かれた。
「
おじさんが指さした方向に小さなテーブルがあって、そこに小皿がいっぱい積んであった。
さっと厨房に戻ったおじさんの後ろ姿を目で追っていた父さんが、振り返って会食開始を宣言した。
「さて、軽く乾杯をしてから食べようか」
水で乾杯というのもちょっと物足りないけど、めーちゃんが未成年だからお酒を控えたんだろうな。
グラスにレモンウオーターを注いで、グラスをちんとぶつける。
「二人とも、大学合格おめでとう!」
あっ! そうか。そういうことだったのか。
父さんがここに私たちを連れてきたのには、大きな意味があったんだ。めーちゃんは大学合格と同時に丈二さんとの闘争が始まったんだろう。そして、私はまだ先生と同居していたからこういう機会を作りようがなかった……そういうことか。
私はすごく嬉しかったけど、めーちゃんは泣き顔になった。
「ありがとう……ございます」
努力して大学に入ったのに、母親は無視、父親は拘束を強めようとする。喜びを分ち合える友達もいない。めーちゃんは、誰にも……誰にもおめでとうと祝福してもらえなかったんだろうな。
「さて、食べながら話をしようか」
「おいしそうだね」
「味は保証するよ」
空腹でお腹がぐるぐる鳴っている。朝食は食べられなかったし、昼もサンドイッチとジュースだけだったからなー。味が混じらないよう小皿の数だけいろいろ取って、食べていく。
「うわ、おいしいなあ」
「だろ?」
さっきまでしょんぼり泣き顔だっためーちゃんが、食べ始めた途端に目尻をでろんと下げた。
「ううう、おいしいっ! はんぱなくおいしい! 全部制覇したい!」
わははっ。ドーナツの時と同じだ。めーちゃんに向かって父さんがぱちんとウインクをする。
「限界までがんばれ。まだまだ出てくるからね」
「ふわい」
◇ ◇ ◇
会話は最良のソースという言い方があるけど、逆もまた真なりだと思う。おいしい料理は会話の敷居を下げるんだ。
最初あまり弾まなかった会話も、昨日の女子寮攻防戦のネタで一気に盛り上がり、父さんを警戒していたはずのめーちゃんがすっかりリラックスモードに入っている。ほとんど餌付けだよなあ。思わず苦笑する。
「おっと、雑談に紛れて肝心なことを言い忘れるところだった」
口元をナプキンで拭いた父さんが、私を正面から見据える。
「まず、決定からだ」
「決定?」
「そう。俺と
「あ! その手があったのか」
「そうなんだよ」
父さんが苦り切った顔で吐き捨てた。
「あそこは、由希の前の夫が手切金代わりに置いていった家なんだ。由希にとってはそれくらいしかまとまった財産がない。頼りにできるものがない。最後の砦なんだ。だから必死にしがみついていた」
「でも私が家を出たから、鎖が切れたってことね」
「そういう理解をしてくれると助かる。夫婦二人で暮らすのに、あんな世帯向けの家は要らないよ。あれじゃ寂しさだけを膨らませてしまう」
「母さんの執着を減らすなら、それしかないよね」
「うまく行ってくれるといいんだけどな」
父さんは深い溜息をついた。
「まあ、やってみるさ」
「ケージが物理的になくなるから、私は気が楽」
「そうだろ? もう少しの辛抱だと思う」
神妙に私たちの会話を聞いているめーちゃんをちらっと見て、父さんが次の話を切り出した。
「次は提案。あくまでも提案だ」
「なんだろ?」
「おまえが大学に行く四年間。家賃と生活費を負担したい」
「……」
私が難しい顔になったのを見て、父さんが目を伏せた。
「勘違いしないでくれ。それは支配なんかじゃない。親としての最後の責務なんだよ。自分の子供を離れた大学に通わせる親なら、誰しもがすることなんだ」
「確かにそうだけど……」
親に財布を完全に握られてしまうと、生殺与奪の権限が向こうに移る。結局は支配じゃないか。
「これまでがこれまでだから、おまえが不信感を募らせるのは仕方ない。だが、俺は大学の時に苦労したんだよ。経済的にぎりぎりだったから、ずっとバイト三昧でね。楽しむという心境には最後までなれなかった」
知らなかった……。
「おまえがこれまで普通の学生として過ごしていたなら、少しは苦労しやがれと突き放すさ。でも、逆だ。おまえは、これまでどうしても手に入れることができなかった学生としての生活を期待している。そうだろ?」
「うん。間違いなく、そう」
「それなら自由に使える時間が要る。その時間はタダでは手に入らないんだ」
父さんが、吹き抜けの天井を見上げた。
「社会人になれば、生活のために自分の時間を金に換えなければならなくなる。そうしなくても済む四年間を、心から満喫してほしいんだよ」
「……」
うん。父さんはバイトをしないで遊べと言ってるわけじゃない。どうしてもお金と時間を等価交換しなければならないなら、無為に手放す時間を減らした方がいい。そのための協力はする……ということなんだろな。
「バイトをして得た収入は、交際費と貯金に回してほしい。世界が広がれば、必ずしたいこと、欲しいものが出てくる。それを叶えるにはお金が要るからな」
心情的には、まだすんなりとは飲み込めない。でも……これも紛れもなくチャンスなんだろう。チャンスのしっぽを捕まえることで、私は鶏小屋を出られた。同じように。私は今、目の前にあるチャンスを逃すべきではないのだろう。
父さんの申し出を拒否することはいつでもできる。支配の構造が表面化したら、その時点で方針を転換すればいい。私はもう成人している。干されてすぐに干上がるほど、子供ではないのだから。
「助かるわ」
私が提案を受諾したことで、父さんが破顔一笑した。
「四年間を。しっかり楽しんでくれ!」
「そうする。ありがとう」
父さんは、笑顔のままでめーちゃんに向き直った。
「で、萌絵さんにも提案をしておこう。これは保険だと思って欲しい」
「え?」
まさか自分に話が降ってくると思っていなかっためーちゃんは、頬張った肉でリスのように頬を膨らませながらきょとんと父さんを見上げた。
「まず。ルイとシェアしている家の家賃、光熱費の負担は、最初から考えなくていいよ」
ぴんと来た。
「そうか、丈二さんの攻め手を一つ減らすためか」
「ああ。うちとは逆さ。お父さんは、萌絵さんの自由を制限するために必ずそこを攻めてくるはず。学費と生活費、だな」
「うん……私も店長も岡田さんも、それが心配だったんだよね」
「なら、保険は最初からかけておいた方がいい。たとえ明日の話し合いでお父さんが折れたように見えても、財布をたてに取ればすぐにひっくり返せる。最悪の事態には必ず備えておかなければならない」
「確かに」
父さんが、肉の塊をぽいと口に入れ、もぐもぐと噛みながら話を続けた。
「学費については、親の扶養から外れることで授業料の減免制度をフルに利用できる。松橋さんが手続き等も含めてアドバイスをくれるって言ってるから、心配しないでいい」
「助かります!」
「社会保障や年金等の手続きも、扶養者あり、なしの両ケースで対応できるということを頭に入れておいてほしい。必ずしも親ありきではないんだよ。親がいれば楽だというだけさ」
丈二さんが使ってきそうな兵糧攻めへの対処法を事前に固めておく。そうすれば、話し合いの時に一方的に押し込まれずに済む……ってことだよね。
「あとは生活費だが、基本は食費と交際費だ。学生のうちはそんなにかからないよ。折半と言っても、ルイは比率にこだわらないだろうし」
「先生と一緒に暮らしてた時は、先生丸抱えだったから。偉そうに言えないよー」
「まあ、前沢くんならそうだろ。徹底してものぐさだからな」
よくわかっていらっしゃいますなー。まあ、私も似たり寄ったりだ。鷹揚というより無頓着だったからなあ……。
「ルイも萌絵さんも、それこそバイトの範疇で賄えるはずだ。深刻に考えなくていいよ」
ほっとしたように、めーちゃんが頷いた。
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