第四章 四日目:水路を掘る
第1話 緊張
「しんどい……」
朝陽が目の奥で散ったまま出口を失ってる。身体と心がまるっきり連動してない。今にもスイッチの切れそうな身体を、ぴんぴんに張り詰めた心が無理やり引きずっている。
丈二さんが力尽くでめーちゃんを奪還しにくる恐れがある以上、警戒を緩めるわけにはいかなかったんだ。電気代がもったいないけど部屋の灯りをつけっぱなしにして、布団の中でずっと身を硬くしていた。めーちゃんも同じだったと思う。
外から響くほんのわずかな物音にも反応して目が開いてしまう。まるでホラー映画の中に取り込まれてしまったような異様な緊張感が朝までずっと続いて、ほとんど眠れなかった。幸いバイトのシフトが午後からだったから、午前中は交代で仮眠を取ることにする。少しでも休んでおかないと、体力が保たない。
部屋が別々だと何かあった時に即応できない。リビングに毛布を持ち込み、並んで窓際の壁にもたれかかる。外から見える場所に自分を置きたくなかった。
寝不足が限界だったんだろう。頭を私の肩に乗せてうとうとしていためーちゃんは、すぐ床に倒れ込んで寝息を立て始めた。私も眠いけど、揃って沈没するわけにはいかない。
無理やり体を起こして、小さな冷蔵庫を見つめる。食料の備蓄が乏しいから買い出しに行きたい。でも今は怖くて外に出られない。昨日は店長と岡田さんがいてくれたから心強かったんだ。でも私とめーちゃんは、揃って体力、腕力ともにかすかすだ。力で押された時に対抗できそうにない。まいったな……。
昼近くになれば、スーパーへの人の出入りがぐんと多くなるから人目を確保できる。それまでは、ひたすら息を殺して籠城するしかない。
もんもんとしていたら、家に近づいてくる足音が聞こえた。びくつきながらカーテンをほんの少し動かし、誰が来たのかを確かめる。
「ほっ。岡田さんだ」
めーちゃんを起こさないようにそおっと立ち上がり、呼び鈴を鳴らされる前にロックを外してドアを開いた。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
「あれから大丈夫だったかい?」
「なんとか。さすがに怖くて外出できなかったですけど」
「諦めてる感じじゃなかったからなあ。よく眠れなかったんだろ?」
「一睡もできませんでした」
岡田さんが私の赤い目を見て、ふっと息をついた。
「丈二を押さえ込む手筈は俊に任せてる。俺は昨日リクエストのあったものを整えるから、その間は寝てていいよ」
「助かります!」
そうか。昨日無償提供すると言ってた家具や電化製品を、もう持ってきてくれたんだな。便利と安心の同時速達は本当に嬉しい。
厚意に甘えて毛布にくるまり、めーちゃんの横に転がる。すぐに睡魔が襲ってきた。ゆらめく意識の波間で浮き沈みしながら、岡田さんの気遣いにどこまでも感謝する。
安心して自分の背中を預けることができる人。普通、それは親なんだろう。だけど私もめーちゃんも、その親がイソギンチャクなんだ。安心して身を委ねていいという形と動きをしているけれど、実際にそうしたら飲み込まれ、食われてしまう。
岡田さんにとって、私たちは単なる
歩き回る岡田さんの足音を子守唄のように聞きながら、いつしか眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
「ルイ、ルイっ!」
耳元でめーちゃんの甲高い声が聞こえて、慌てて跳ね起きる。ちょっとだけのつもりが、完落ちしてしまった。
「しまった。寝こけちゃった。今何時?」
「もうすぐ11時半」
「ヤバ! 急がなきゃ」
岡田さんは、作業が終わったところでめーちゃんを起こしたんだろう。めーちゃんがまだふらふらしてるから、今しがた起こされたと見た。スマホのアラームをセットしとけばよかった。くそっ!
超特急で着替え、二人揃って家を走り出る。
電車待ちの駅ホームで店長に電話をかけ、ぎりぎりの到着になることを伝える。
「済みません。引き継ぎが微妙かも」
「ああ、心配せんでええ。今ぁトムが入っとる。めーちゃんの顔見てから帰るそうや。楽しみにしとるみたいやで」
ううう、さすがトムだー。自分からアプローチする勇気はこれっぽっちもないけど、『鑑賞』は好きなんだよね。なんだかなあ。
心配そうなめーちゃんに聞かれる。
「大丈夫? 間に合う?」
ちょうど電車が入ってきたから、乗り込みながら返事をする。
「大丈夫そう。どこかに入って食事する時間が取れないから、コンビニで何か買って持って行こう」
「わかったー」
幸い乗り継ぎのタイムロスが少なく済んで、いくらか時間の余裕ができた。レンタルショップ近くのコンビニでサンドイッチと野菜ジュースを買い、歩きながらぱくつく。
いいのかなあという表情だっためーちゃんも、同じように歩き食いを始めてすぐに開き直ったみたいだ。
「もしかして、お父さんに買い食いとか歩き食いとか絶対にするなって言われてた?」
「いや、校則で禁止だったの。そんな機会もなかったけど」
さもありなん。
指についたマヨネーズをぺろっと舐めためーちゃんが、顔をほころばせる。
「確かにお行儀悪いなと思うけど、なんか楽しい」
「ははは。私も滅多にしないよ。でも、たまにはいいじゃん」
「そうだよね」
目尻がでろんと下がってるめーちゃん。食べてるサンドイッチがおいしいというより、自由の味がおいしいんだろうな。めーちゃんにとっては、これから経験することの一つ一つが新鮮に感じられるだろう。
鶏小屋を出たばかりの私もそうだった。これで一切の制限がなくなったんだ。なんでもできる。好きなように、思うがままに……って。それがしょうもない幻想だということはすぐに悟ったけどね。
当たり前だけど、自分の生活を自力で組み立てるっていうのはものすごく大変。制度とか慣習とかの制限があってできないことより、自分の能力や経験が足りないからできないことの方がはるかに多い。そして、できるできないと柵のあるなしとは必ずしもリンクしない。
子供の間は親が作った柵による制限を自分が未熟なことの言い訳にできるけど、一度柵から出たらその後は何もかも自力でさばかなければならない。生きるためにあがくのも、人に押し付けられる評価を跳ね返すのも、全部自力。自立に必要な筋肉がまだ貧弱でも、親にはもう頼れないんだ。
でも、それは私たち限定の課題じゃないよね。昨日店長が言ってた仮免じゃないけど、同じ年代の若者は誰もが離陸を意識し、自活の方法を考え、独立に向けて足腰を鍛えなければならないんだろう。私やめーちゃんの場合は親の補助輪を失う影響がなんぼか大きい……きっとそれだけの違いだと思う。
他の子より経験や常識が足りないのは事実だけど、足りない間は「このままじゃまずい」という危機意識を忘れることはないはず。それを推進力や意欲に結びつければいい。足りないのは、必ずしもネガなことばかりじゃないよな。
とか考えながら店に駆け込む。なんとか時間内に着いた。
「ふひー、店長済みません。ぎりぎりになって」
「いや、間に合ったからええやろ。すぐ引き継ぎしてくれ」
「はい。トム、お待たせー。ごめんね」
「大丈夫だよ」
ヤードの奥からのそっとトムが出てきた。レンタルカレシで会った時よりはびくびく感が減ったものの、相変わらず無口でひっそりだ。社交性の乏しさもそんなに改善されていない。それでも、電話での応対やスタッフとのやり取りはまあまあこなせるようになった。
客あしらいはまだ下手だけど、最初に会った時の病的コミュ障状態とは雲泥の差だと思う。店長も、まじめでこつこつ仕事をこなすトムを主要メンバーの一人としてきちんとカウントしてる。
ただ……トムは四月から三回生なんだよね。講座への配属が決まっていて、就活も始まる。スタッフとして計算できる期間があと少ししかないんだ。これまでずっとコンビを組んできたから正直寂しいけど、仕方がない。
「ああ、そうだ、トム。彼女が矢口萌絵さん。私と同じD大の文学部一年生で、今度家をシェアすることになったの」
「うん。店長から聞いた」
実に嬉しそうな顔でめーちゃんを凝視していたトムが、おっとっとという感じで慌てて自己紹介した。
「あ、あの。J大理工学部二年の佐竹
小声でぼそぼそ。年上なんだから、もっと堂々としていてもいいと思うんだけど、まあトムだしなー。チキンハートだしなー。女の子の前でしゃべれるようになっただけ、大進歩なのかもしれない。
一方、めーちゃんは警戒心丸出しだ。トムの視線にねちっこさを感じて引いたんだろう。でも、これからは飛んでくる視線がそっち系ばかりになると思うよ。そこがなー。
「矢口です」
めーちゃんの返事はそれだけだった。味気ないというか素っ気ないというか。まあいい。すぐに引き継ぎしないと。
「で、何かあった?」
「あ」
幸福感百パーセントの美少女鑑賞モードだったトムが、にわかに顔を曇らせた。
「ちょっと……用心した方がいいかも」
「厄介筋?」
「わいじーの気配を何度か……」
「ううう」
わいじー、かあ。神経すり減っている今はどうしても回避したい筋だなあ。どうしよう? 私が元気ならのらりくらりと
「トム、ありがとう。なんとかスルーするわ」
「がんばって。それじゃ」
「お疲れ様ー」
振り返るたびに鑑賞者の至福を笑顔に表しながら、トムがゆっくり遠ざかっていった。それにしても。
「困ったなあ」
「なにかあったの?」
「前に、厄介なお客さんがいるって言ったのを覚えてる?」
「あ、そうだった」
「今まではたまたま来なかったんだけど、ブラックリストの筆頭が来そう」
「う」
はあ。私以上に疲弊してるめーちゃんには絶対に絡ませたくなんだけど、バイトを続ける以上ずっと逃げ回るわけにもいかない。今日だけは、フォローしつつなんとか凌ぐしかないな。
「わいじーっていうコードネームの、ものすごい厄介者がいるの」
「わいじー?」
「そう。
めーちゃんがぷっと吹き出した。そんな風に笑い飛ばせればいいんだけどね。あのじいちゃんに限っては、何をどうしても笑いには転換できない。
「めんどうなの?」
「めんどうなんて生やさしいもんじゃない。超特大かつ最低最悪のクレーマーなんだよね」
はあ……本当にうんざりだ。
「私たちバイトにただ文句つけるだけなら、仕事の邪魔するなってどやすだけで済むの。実際邪魔なんだし」
「うん」
「でも、わいじーは必ず何かレンタルしていくの。一応客なんだ」
「モンスターカスタマーっていうやつ?」
「おお、素晴らしい! それそれ!」
ネタで盛り上がれればいいんだけど、そんな余裕はこれっぽっちもない。
「まあ……最悪店長にお出まし願うしかないね。心の準備だけはしといて」
「……うん」
神様。お願いですから、最悪な緊張の上に極悪な緊張をトッピングするのは勘弁してください。ううう。
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