第4話 宣言
店長と岡田さんのどやしが吹き荒れている時間は、ものすごく長く感じられた。でも、それはほんの数分間に過ぎなかったんだ。わずかな沈黙のあと、振り返った岡田さんが、私たちに向かってぱちっと指を鳴らした。合図だ。
タイミングがずれると、出るのがどんどんしんどくなる。背を押そう。床で四つん這いになっていためーちゃんの耳元に口を寄せて、声をかけた。
「行っといで。めーちゃんの思ってることをそのまま口にするだけでいい。それだけでいいから」
こくんと一度だけ頷いためーちゃんは、力なく立ち上がるとよろめきながら玄関先に出た。もう……泣いていた。泣き喘いでいた。
店長と岡田さんの間を割るようにして前に出ためーちゃんは、丈二さんの前で土下座して額を地面につけ、声を涙で埋めながら途切れ途切れに謝った。
「ご……めん……なさ……い。ごめん……なさい」
店長と岡田さんに完膚なきまで叩きのめされていた丈二さんのこわばった顔に、ちらりと笑みが浮かんだ。めーちゃんの謝罪で一気に盛り返せると思ったんだろう。娘が屈すれば連れ帰れると。でも、顔を上げためーちゃんの言葉は謝罪だけじゃなかった。
「もう……限界……なの」
振り返っためーちゃんの目が、何かを探すように泳いだ。よし、私もサポートに加わろう。小走りに家を出る。
みんなの前で全てを暴き立て、鶏小屋を壊した時のことを鮮明に思い出す。あの時私は孤立無援だった。味方は誰一人いなかった。退路はない。自分が押し負けたら即座に世界が崩壊する。悲愴な覚悟で宣言を叫んだ。鶏小屋には二度と戻らないという宣言を。
あの時私に協力者がいたら、もっとスムーズに、スマートに、マイルドに宣言が出来ただろうか。わからない。
でも、今のめーちゃんが宣言を口にするためにはどうしても協力者が要る。丈二さんという泥沼に両足を取られ、ぴくりとも前に出られないめーちゃんの手を取って、沈まないようにするための協力者が。
その役は、丈二さんと同じ強者である店長や岡田さんにはできないんだ。私は、同じ痛みを共有する者としてめーちゃんと
ひょいと手を挙げ、這いつくばっているめーちゃんの横に立った。そして、丈二さんには見えないようにぱちんとウインクしてみせた。
大丈夫だよ。あとはめーちゃんの思っていることを、そのまま言葉にすればいい。取り繕う必要も、激しく主張する必要もない。ただ思うがままに。今、めーちゃんが思うままに。それでいいよ。
私の顔を見てほっとしたんだろう。体を起こしためーちゃんが正座した。
「あのね、パパ。おとつい、昨日、今日、たった三日間で、小賀野さんにわたしが知らなかった世界をたくさん見せてもらったの」
「……」
丈二さんの尖った視線が飛んでくる。それを正面から受け止める。
「知らなかった世界。それね、知らないのはたぶん……わたしだけ。ファミレス、ハンバーガーショップ、スーパーのお惣菜、ドーナツ屋さん……わたしの年齢で知らない子なんか一人もいない」
何かを振り払うように激しく首を振っためーちゃんが、くぐもった声を絞り出す。
「学校の誰にも言えなかった。わたしは何も知らないって。そこ、どんなとこなのって。そこって楽しいのって。一緒の時間を誰とも作れなかった。わたしはずっと独りだった。その辛さが……パパに……わかる?」
ぎりっ。めーちゃんが歯を食いしばる。
「もう……限界なの。パパの作った柵の中でしか生きられないのはもう限界なの。だって、柵の向こうが見えてるんだもの。みんな楽しそうにしてる。わたしもそこに行きたいの。でも手を伸ばせば届きそうなのに、わたしは柵から出られない。いつまでたっても出してもらえない」
血を吐くような宣言が叩きつけられた。
「もう……限界っ!!」
初めてくっきり示されたノー。私も店長もそのノーが最低限必要だと思っていたし、めーちゃんも私たちの後押しではっきり宣言してくれた。めーちゃんが丈二さんの前でノーを明言しないと、店長も岡田さんも丈二さんが振りかざす親の庇護という伝家の宝刀をクリアできないんだ。
親の不当命令には従わないという決意を示す。不服従にきちんと妥当性があること示す。ギャラリーがいる前でめーちゃん自身の意思によって筋を通せば、丈二さんは強権を振り回してめーちゃんを無理やり連れ帰ることができなくなる。
店長も岡田さんも、もちろんめーちゃんも、丈二さんに悪意があって柵を作ったなんてひとことも言っていない。母親に放置されためーちゃんを柵を作って守ることは確かに必要だったし、めーちゃんも危ないから柵の中にいなさいという丈二さんの指導に従ってすくすく育ってきた。
でも。柵で囲まれた空間が今のめーちゃんには狭すぎるということを、丈二さんだけが決して認めようとしない。頑なな態度が常軌を逸してる。
分岐点はここだ。力尽くで柵の中に押し戻すのはもう不可能だよ。めーちゃん本人がきっぱり拒否したことを、丈二さんが受け入れてくれるかどうか。受け入れてくれれば、次のステップに進める。うちと同じで家族の関係を新しい形に補正できる。
めーちゃんも私たちギャラリーも、丈二さんの次の言葉を聞き逃すまいと固唾を飲んでいた。
足元のめーちゃんをじっと見下ろしていた丈二さんは、苛立たしげに首を振り、それから早口で言った。
「萌絵の言い分はわかった。だが、今日は帰ろう。帰って、話し合おう」
思わず腰が砕けそうになった。わかっただって? 何もわかってないじゃん! めーちゃんの渾身の独立宣言をあっさりスルーしやがった。
帰ろうって言われて、はいそうですねと帰るやつがどこにいる? 帰った途端、これまで以上にがっちり囲い込まれてしまうのが見え見え。下手すると、かつての私みたいにそのまま軟禁されてしまうかもしれない。
訴えを微塵も容れてもらえなかっためーちゃんが、みるみる萎れていく。めーちゃんはもう限界なんだ。これ以上拘束がきつくなると、冗談抜きに心が壊れてしまう。そんなの、誰が見たってすぐにわかるよ。そんなめーちゃんの危機的状況が、丈二さんにだけ見えていない。私の母と同じで、小さく閉じてしまった循環思考から抜け出せなくなっている。最良から最悪までいろいろな展開を予測したけど、これは……間違いなく最悪。最悪だ。
「ふうううっ」
唖然としていたら、店長がとてつもなく深い溜息をついた。店長にとっても、情理を一切容れようとしない丈二さんの頑なな態度は想定外だったんだろう。どうするのかなとはらはらしながら、店長の次の一手をじっと待つ。
ぎりっと眉を吊り上げた店長は、口を開くなり丈二さんをばっさり袈裟斬りにした。
「なあ、ジョー。おまえ、娘をいななった紗枝ちゃんの代わりにしとるんやろ」
う……わ。
「なにを!」
「黙れっ!」
ものすごい剣幕と形相。普段てれっとしてる店長しか見ていないから、心底怖い。
「最初に言うたよな。力尽くで言うこと聞かそういうやつはクズやと」
「……」
「娘は紗枝ちゃんちゃうで。別人格や。おまえの持ちもんでも慰みもんでもない。くだらん着せ替え人形にすなっ!」
「くっ」
「おまえが何をどうしようと俺の知ったこっちゃないわ。せやけど、娘を巻き添えにするのだけは絶対に許さん! それぇ、コロシや! さっき岡田が言うたことぉ、つらっと聞き流すなやっ! クソぼけがあっ!」
店長の激しいどやしに激昂して顔を真っ赤にした丈二さんが、今にも殴りかかりそうな体勢になっている。
めーちゃんの独立宣言は、丈二さんの説得にどうしても必要な切り札だった。でも丈二さんには宣言が自分の全否定に聞こえてしまったんだろう。逆鱗に触れて、逆に意固地になったように見える。
それにしても……。まとめ役になるはずの店長がぷっつんして落とし所が見えなくなった。雰囲気が殺伐としてしまった。店長も、ここまで荒れることは想定してなかったんじゃないかなあ。
岡田さんも苦り切ってる。丈二さんに側方射撃が効かなかったこと、そして店長の火薬庫に火がついてしまったこと、両方に。
うーん、こりゃあまいったなあ。
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