第3話 荷出し

「うん。これで契約成立だ」

「よろしくお願いします」


 オカダ不動産のおしゃれなカウンターの上に、何枚かの書類が並んでる。一番大事な貸借契約書にハンコを押して渡し、その写しと鍵を受け取る。


 先生とシェアしていた家を借りる時には、私に経験がないから先生に契約手続きをお願いするしかなかった。契約者のところに私の名前はなく、今回のめーちゃんのような立場だったんだ。

 今は逆になってる。書類の上にめーちゃんの名前はない。鶏小屋を壊して飛び出したあの時からそんなに経ってないんだけど、私は自立に向けて少しは前に進めたんだろうか。


 岡田さんが鍵についての説明を追加した。


「マスターキーがオフィスにあるから、紛失した時は言って。勝手に合鍵作るのはなしな。申し出てくれれば実費で作る」

「あ、じゃあ、最初に二本作ってもらえますか?」

「小賀野さん、矢口さん、それぞれ二本持ちということだな」

「はい。一本は家の中に予備として置いときたいので」

「わかった。作っとくよ。一本二千円ね」

「了解です」


 岡田さんから受け取ったぴかぴかのキーを、すぐキーホルダーにつなぐ。今まで使っていた鍵は、引っ越しが済んだら管理会社に返さないとならない。無くすわけにいかないから、まだ外せない。

 めーちゃんがどうしようという顔で見ているのは、実家の鍵なんだろう。それはまだ持っていた方がいいよ。どうしても必要になるし、必ず役に立つから。


「さて。急いで荷物を移そう。本拠地を早く固めないと、俺も俊も対応できんからな」

「すみません。お手数かけます」

「かまわんよ。軽じゃなく二トントラックにしたから、移送は一回で済むはずだ」

「はい!」


 ジャケットを担いでさっとオフィスを出た岡田さんの後を追う。オフィスの裏手に月極め駐車場があって、そこに車を停めてあるらしい。


「岡田さんが区画をいくつか持っているんですか?」

「いや、駐車場自体がうちのものなんだ。一番事故が深刻だった物件は更地にするしかないからね。虫干し中ということだな」

「深刻な事故ってどんなのですかー?」


 こそっとめーちゃんが確かめる。岡田さんが無造作に答えた。


「火事だよ。死人が出たら最悪なんだ。上物うわものの資産価値はゼロになってしまうし、跡地の再生はすぐにはできない」

「そっかあ……」


 近所の人は、駐車場のマエを知ってるから誰も借りないんだろうな。そこそこ広いのに、あちこちに空きスペースが残ってた。店長のいう『浄め』がまだ終わってないということなんだろう。

 昨日乗せてもらったベンツは別のところに停めてあるらしい。私たちを出迎えたトラックは古くてぼろぼろだった。


「レンタだからな。こんなもんだ」

「あ、そうか。車にもレンタルがあるんですね」

「一番身近なレンタル品は車だと思うぞ」


 岡田さんに軽く笑われ、思わず肩をすくめる。まだまだ一般常識とのズレが補正できていない。とほほ。

 さっと運転席に収まった岡田さんが私に声をかけた。


「小賀野さん。助手席側のドアを開けて、矢口さんを先に乗せて」

「わかりました」


 乗用車と違ってトラックは座席が高い。乗るというよりも登る形になる。見るからに運動神経極細のめーちゃんを乗せるなら、先に私が乗って引っ張り上げた方がいいと思うんだけどな。

 へっぴり腰のめーちゃんをなんとか車内に押し上げ、追い立てるようにして最後に乗り込む。


「出すぞ。シートベルトしてくれ」

「はい」


◇ ◇ ◇


 なるほどなー。思わず感心してしまった。岡田さんは、岡田さんと私の間に挟まれためーちゃんの反応をよーく観察していたんだ。めーちゃんが一番端になると視線が不自然に動いてめーちゃんに警戒されるし、よそ見運転になるから危ない。隣にいれば確認しやすい……そういう理由だったのか。

 そして、岡田さんの表情は決して明るくない。めーちゃんの厄介な性質に気づいたという表情だ。私が気になったのも、たぶん岡田さんと同じポイントだと思う。


 トラックの座席は狭い上に、男−女−男のサンドイッチ状態になっている。揺れるとどうしても体同士が触れ合ってしまうんだ。年齢差も体格差もあるから、若い女の子なら緊張して身を固くするはず。でも、めーちゃんはえらくリラックスしてる。


 昨日から今日に至るまでヤマアラシのように警戒の棘を立てまくっていて、男性恐怖症のけがあるのかなあと思ってたんだけど。そういうわけじゃなさそう。

 知らない人への警戒心は持ち合わせているけど、警戒レベルが極端に高いわけじゃない。今リラックスしているのは、ガードを下げてしまったからなんだ。私や岡田さん、店長はもう自分サイドだから大丈夫……そういう一方的で都合のいい思い込みが透けて見える。


 お父さんが徹底して囲い込もうとしている理由が、なんとなく見えて来た。無邪気、無垢なのは取り柄だと思うけど、それが行動に直結してしまうのは怖くてしょうがない。容姿が平凡ならともかく、そうそういないレベルの美少女だからなあ。


 世の中は、いい人ばかりではできていない。レンタルカレシの時に身をもって体験したから、よーくわかる。

 めーちゃんのように人目をひくタイプの場合、ガードを下げた途端に狼に食われてしまう恐れがある。だから、性善説じゃなくて性悪説に立って行動するくらいでちょうどいいんだけどな。


「……」


 めーちゃんがどういう性格かは、家主の岡田さんには直接関係しないはずだ。それなのに探りを入れてるのは、お父さんとの距離確保手段に直結するから。そして、私との共同生活がうまく行くかを予測しておきたいからだろう。

 これまでの入居者のようにすぐ退去してしまうんじゃ。『浄め』にならないもんね。


 とりあえず、お父さんをどう遠ざけるかは岡田さんと店長に任せるしかない。私はめーちゃんのフォローをどうするかだけ考えることにしよう。


 信号待ちの間にナビをいじっていた岡田さんが、声をかけてきた。


「この近くか?」

「あ、はい。次の信号を左折、曲がってすぐの路地を左折、で、二十メートルくらい先にある平家です」

「わかった。車は家の前に停められるか?」

「道はそんなに狭くないから、寄せれば大丈夫です」

「助かる。さっさと済まそう」

「はい!」


 おんぼろトラックがゆさゆさと二回十字路で揺れ、見慣れた家が近づいてくる。


「あれ? 先生がいるのかな」


 家を出入りする人影が見えた。まだ仕事中のはずなんだけど、荷出しがあるから休暇を取ったのかもしれない。岡田さんは、家の前に駐車していた白い軽自動車の真後ろにトラックを停めた。

 先生は運転免許を持ってないはず。きっとカレシの車なんだろう。真っ先にトラックを降り、開けっ放しになっていた玄関に首を突っ込んで声をかける。


「せんせー、搬出終わったんですかー?」


 ぱたぱたとスリッパの音が近づいて、昨日と同じツナギ姿の先生がカレシと一緒に出て来た。


「終わったよー。わたしの荷物はちょっとしかないから。大物運び出すのに手がいるかなーと思って、カレに残ってもらってたの」

「佐々木です。初めまして」


 がっしりした体格の作業服姿の男性が、私に向かって丁寧にお辞儀をした。

 おおっと! 先生、話が違うよー。容姿は平凡だって言ってたけど、とんでもない。かなりのイケメンだ。そらあ先生もエンジンかかるわなあ。

 見とれて挨拶のタイミングがずれてしまった。慌ててお辞儀を返す。


「先生にはお世話になってました。小賀野です。この度はおめでとうございます!」


 私のことをすごく警戒していたんだろう。手伝うと言うのは名目で、本当は品定めだったと思う。ひょろひょろで頼りなさそうな私を見て、いくらかは安心したみたいだ。


「済みません。僕らの都合で振り回してしまって」

「いやー、最初に先生を振り回したのは私ですから。先生にはずっとかてきょをしてもらったし、感謝しかないです」


 年上の家庭教師というシチュエーションで何かよからぬことを想像したのか、佐々木さんの表情が微妙になった。いやいや、なにもないって。


「かてきょは私が九歳の時からずっとなので、私にとっては『姉』ですよ」

「本当に?」


 やっぱりね。探りが入った。


「本当です。それに」

「ええ」

「私は『男』ではありませんから」


 私の実物を見るまでは、先生がいくら説明しても信用できなかったと思う。でも性を意識して見ると、私の容姿はすごく奇妙なんだ。喉仏は目立たない。骨格が華奢。でこぼこがすごく少ないぬるっとしたシルエット。セックスアピールが極端に乏しいことなんか一目瞭然でしょ。

 いくら嫉妬深いと言っても、私が先生の恋愛対象になり得ないことは理解できたんだろう。ふっと小さな吐息が漏れた。


「小賀野さん、運び出していいかい?」


 私の背後で岡田さんの声がした。で、岡田さんとめーちゃんを見た佐々木さんが雷に打たれたような驚愕反応を示した。まあ……絵に描いたような美男美女だからなー。テレビドラマのロケと変わらないかも。


「お願いします。大物はダイニングテーブルと椅子、冷蔵庫ぐらいかな」

「わかった。冷蔵庫は独身者用の小さいやつだな」

「そうです」

「ダイニングセットと寝具が一番かさばる。向こうで最初に下ろしたいから、最後に載せる。まず箱物で、それから冷蔵庫、大物の順だ。割れ物系は、油性ペンで箱にそう書いといてくれ」

「はい!」


 佐々木さんが手伝ってくれたし私物がほとんどないから、荷出しはあっという間に終わる。部屋に残っているものがないかを確認したあと、先生が私の持っていた鍵を回収した。


「契約者がわたしだから、わたしが最後の手続きをしないとならないの。やっとくわ」

「ありがとうございます!」

「で、悪いけど」

「はい」

「携帯の、わたしの番号とメアドは消しといて」


 予想はしていた。私と先生は、戦友でありながら相互に見たくない存在でもあったんだ。この家で、自立できない半人前同士が寄りかかり合ってピンチをしのいだ。それは、本来あってはならない共闘のカタチ。

 先生は、私に関わることで自立できない幼い自分を意識してしまうんだろう。単純にカレシへの配慮ということだけじゃないと思う。


 スマホを出してアドレスリストを操作し、先生の登録を消す。その作業を見せて、先生にも確認してもらった。シェアハウスに鍵をかけた先生に、最後の挨拶をする。


「いよいよ船出ですね」

「うん。がんばるわ」

「これまでお世話になりました。ありがとうございます」

「ルイくんも、がんばってね」

「はい。まだ苦闘中なので、もう一あがきします」


 先生の目に最後まで涙はなかった。私も先生の泣き顔は見たくなかった。乾いた別れになったことにものすごくほっとして。佐々木さんと腕を組んで背中を向けた先生にお礼を繰り返した。


「お世話になりました!」


 先生はもう……振り返らなかった。


◇ ◇ ◇


 トラックが新居に取って返す。その道すがら、めーちゃんがどうにもわからないという渋い顔をしていた。


「どしたん?」

「いや、なんか冷たいなーと思って」

「ああ、さっきの先生でしょ?」

「うん」

「あんなもんじゃないかなあ」

「え?」


 先生の性格を知らなかったら、一緒に住んでたのになにあれって思っちゃうのは無理もない。


「先生、はんぱない対人恐怖症なんだよね」

「えっ? そ、そうなの?」

「うん。初対面の人とはほとんどしゃべれない。昨日の夜も今朝もめーちゃんと会話しようとしなかったでしょ?」

「あ……」


 昨日の夜はめーちゃんがばりばりに緊張してたし、今朝は先生が寝ぼけてた。たまたま、アプローチなしが不自然にならなかっただけ。


「だからひっきー歴がとんでもなく長いの。私は学校に行かせてもらえなかったけど、先生は学校に。私のかてきょしかんだ」

「う……わ」


 絶句してる。想像できないんだろうな。


「今はカレシにひゃっぱー気持ちが行ってるからいくらか余裕があるけど、昨日めーちゃんが泊まったのだって今までなら絶対拒否だよ。もう退去寸前だし、ほんのわずかな接触時間で済むとわかってたからぎりぎりセーフだったの」

「ひ……えー」

「どんなに付き合いが長いって言っても、私は先生にとっての他者さ。踏み入ってもらいたくないし、できればずっと外に置いときたい。私も、シェア中はずっと距離確保に配慮してた。今日の突き放すような態度は想定の範囲内なんだよね」

「あの……カレシとは大丈夫なの?」

「それは私も心配。でも覚悟をしたんでしょ。逃げないって」

「あ、そうかー」

「恋愛って、パッションなんだなあと思うよ」


 恋愛という言葉を出した途端、めーちゃんがぎゅっと顔をしかめた。これまでに、なにか嫌なことでもあったんだろうか。まあ、いいや。


 私たちの会話をじっと聞いていた岡田さんがかすかに笑って。それからぼそっと言った。


「あんたらは、本当に変わってるな」


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