第2話 戦闘開始
先に家を出る先生を行ってらっしゃいと送り出し、もうこの光景は二度と見られないんだなと少しだけ寂しくなった。本当なら、送別会とか解散式みたいな記念イベントをできればよかったんだけどな。大きな流れに乗らないと動かせない運命もある。仕方ないね。
もともと先生の私物が多くて、共用で使っていたものは少しだったから、パッキングはすぐに終わった。これでバイトと契約に意識を集中できる。
「じゃあ、私たちも行こうかー」
「はい」
鍵をかけようとして、ふと手が止まった。物が段ボールキューブに隠れ、生活の気配を失った古い家。岡田さんの言っていたことが脳裏に蘇る。
「住人が変わればスペースの性格も変わる……かあ」
私たちがここを出たあと、この家はどうなるんだろう。誰が住むんだろう。私と先生は、ここを単なる身の置き場にしか使えなかった。今度住む人がここをちゃんと『家』として使ってくれればいいなと。少しだけ祈ったりする。
◇ ◇ ◇
午前中はレンタルショップのバイトだ。矢口さんは仕事をこなせそうだと思ったみたいで、ぜひ登録したいという。店長も、バイトの子が男ばかりだったから女性バイトの登録はありがたいはず。
開店前の店舗の横を通って三階の事務所に上がり、待ち構えていた店長に矢口さん登録の件を伝えた。案の定、店長は矢口さんの申し出を諸手を挙げて歓迎した。
「めっちゃ助かる。女の子はほんまに貴重なんや。うるさい客がいてん、女の子相手やと諦めるからな」
「そうなんですか?」
矢口さんが目を丸くしている。店長が理由をさっと説明した。
「例えば。貸したもんが壊れてたとするやろ。当然客は文句言うわけやな」
「はい」
「俺らが男でん女でん、謝罪のセリフは同じや。当方の不手際でご不便をおかけして大変申し訳ありません。すぐに代わりの品をご用意いたしますので、お待ちいただけますか」
矢口さんが背負っていたバッグパックを下ろして小さなメモ帳を取り出し、店長のセリフをさっと書きつけた。店長はその様子をじっと見ている。
「それえ、同じセリフなのに男が言うとクッソ生意気に聞こえるんや。男がもともと持ってる威圧感みたいなもんが、裏目に出てまう」
「そっか……」
「せやけど、女の子は客から見て弱者や。ごめんなさい言われてクッソ生意気と取るやつはまずおらんわ」
「得、なんですね」
「普通の客相手ならな」
店長は直球だけ放るわけじゃない。弱者としてのポーズが利点以上の厄介なトラブルをもたらしかねないことを、きっちり警告した。
「この女ぁ押せば押すだけへこむ……そう思われると逆に増長するで。ケースバイケースやな」
「うう、そっか」
「困ったら必ずルイか俺に回せ。一人で抱えんといてな」
「はいっ!」
くううっ、店長のサポはきめが細かい。痒いところに手が届くなあ。
店長は、すぐ手続きの話を始めた。
「ああ、条件の話をしとこ。履歴書は持ってきたか?」
「あ……はい」
本当は渡したくないんだろう。自宅住所や家族の記入欄があるからね。でも店長は頓着しない。さっと受け取って、細部までチェックした。ちぇ。私の時にはすぐゴミ箱に放り込んだのにさ。まあ……中身がない履歴書だったからしょうがないけど。
「なるほど。このおとんが厄介ちゅうわけやな」
「え?」
ぎょっとして後ずさった矢口さんを見て、店長がにやっと笑った。
「昨日の夜。岡田からひっさしぶりに電話がかかってきてん」
「あ、そういえば連絡するって言ってましたね」
「あいつはえぐいやつやけど、仕事はきっちりこなす。不良案件をリストから落とせるなら、身ぃ入れるやろ」
「そんな感じです。ぶっきらぼうだけど親切でした」
店長が、持っていた矢口さんの履歴書を指でぽんと弾く。
「あんたらにはダイガク行ってる四年間、ずっと住んどってほしいそうや。それぇ
「浄め、ですか」
「せや。空き家の間は悪評に箔が付いてまう。逆に人が普通に住んどれば、えげつない風聞は自然に消える」
「そうか。だから浄めなんだ」
「住むやつに胆力がいるからな。誰でもぉ言うわけにはいかへんやろ。ルイがめーちゃんサポすればいける思たんちゃうか」
おいおい、めーちゃん、て。店長ったら、本当におちゃめなんだから。
矢口さんも苦笑してる。ふむ。めーちゃんね。いいかも。
「まあ、俺と岡田とでこなす。話ぃ聞く限り、隠れ切るのは無理やで。保って一、二日というとこやろ。必ず連れ戻しにくる。それまでにしっかり備えなあかん」
ぐえー。岡田さんの言ってた女子寮プランも効果は限定的ということかー。
「ちゅうことで、万一のことがあるさかい必ずルイと一緒に行動しとってな」
「はい!」
「俺も女子バイトはどうしても欲しい。岡田と利害一致や。なんとかする」
「お願いします!」
矢口さんの懇願の声には、血が混じっているように聞こえた。
「慣れるまではルイと組んでシフトに入って。時給は1200円。交通費支給はなし」
「私と同じですね」
「せや」
「あの、いいんですか?」
入ったばかりの新人がシフトの中心で働いている私と同額なのは、という気遅れが見えた。
「仕事の中身は誰でん同じやから時給は全員同額。その分、時間効率悪いやつにはすぐやめてもらう。めーちゃんは心配いらんやろ。見るからにまじめやし、ルイ並みに飲み込みが早そうや。ごっつ助かるわ」
「がんばります!」
「頼むな」
「はい!」
店長が仕事ぶりを高く評価してくれたのは、矢口さんの自信につながったはず。庇護の翼が大きすぎると、自分の能力がうまく測れなくなるんだ。自己否定の沼から抜け出すには、店長みたいな外からのプラス評価がすごく効くと思う。私もそうだった。
「さて、じゃあ、店舗に出ます」
「おっしゃ。任せたで」
「はいっ!」
店舗のシャッターを上げ、パソコンを立ち上げて検索画面にしておく。ヤードの在庫をチェックし、電話の留守録モードを解除する。
開店直後はまだ客が少ないから、昨日私がこなした端末を使った在庫検索やレンタルスケジュールの確認、顧客登録の方法を矢口さんに教える。それと、自衛ね。
よく来る客の中には、非常にたちの悪い連中が混じってる。バイトを外に誘い出そうとするやつ。レンタル品を猫ばばしようとするやつ。そして、バイトに因縁つけるのが目的で来るとんでもクレーマー、などなど。
連中は店での指名手配犯になってるから、私がアイコンタクトで合図を送ることにする。必ず私の仕草を確認してもらい、やばそうだったら「詳しい者に代わります」とバトンタッチ。矢口さんはなんでも自分でこなそうとしてしまうところがあるから、自衛を徹底してもらわないとね。
幸い厄介者の襲来はなく、午前中はさくさくと仕事をこなせた。矢口さんもお試しで仕事の段取りを覚えたせいか、昨日ほどは肩に力が入っていない。きっとすぐに慣れるだろう。
正午ちょっと前に午後シフトの
「じゃあ、私たちは上がって契約に行って来ます」
「お疲れさん。岡田によろしう言っといてくれ」
「はい」
「明日も午前シフトやな」
「午後は大丈夫ですか?」
「人狩り微妙やけど。ルイとめーちゃんには新居にいてもらわなあかんからな」
「へ?」
ソファーにふんぞり返っていた店長が勢いよく体を起こし、そのまま立ち上がった。
「戦闘開始や」
◇ ◇ ◇
ハンバーガーショップで昼ごはん。昨日のファミレスと同じで、矢口さんの目移りが激しくて注文を決めるのにすごく時間がかかった。お金と時間があれば全メニュー制覇したいらしい。おいおい。
セットメニューに追加でつけたストロベリーシェイクが感涙もののおいしさだったらしくて、飲み切ったあとも諦めきれずにストローをずーずー鳴らしてる。私はライスバーガーを頬張りながら、これからの予定を頭の中でもう一度おさらいしていた。
やっと諦めてストローから口を離した矢口さんが、ひょいと首を傾げた。
「そう言えばわたし、いつの間にかめーちゃんになってましたね」
「ははは。店長、おちゃめだから。でも、それだけじゃなくて用心もあると思うな」
「用心……ですか?」
「萌絵という名前はそのまま愛称になっちゃうの。普通ならもえちゃん、でしょ?」
「うん」
「それだと、素性がすぐにバレる。あだ名じゃなくて本名だから」
「あっ!」
呆然という感じ。
「すごいでしょ? 店長のリスクマネージメントの腕は確かなの。自衛のためにはかなり際どい手も使う。話し口調そのままのよーろれひーなおっさんじゃないんだよね」
「そっかあ……」
「めーちゃんという言い方なら、
「わかりました。小賀野さんは?」
「ルイと呼んでほしい。本名だけど、芸名や源氏名に聞こえるし、男と女の区別がしにくい名前なの。女子寮設定でもそのまま行けるから」
「ええと、外国では男の名前、ですよね」
「そう。でも日本では女の子にもつける。
「言われてみれば。確かにそうです」
さて、じゃあ出るか。
「ああ、そうだ。めーちゃん。丁寧口調やめて。タメ口でいい」
「ええー?」
「これもリスクマネージメントなの。同じ新入生のはずなのに、私相手に話す時にばか丁寧なのはおかしくない?」
「そ、そっか」
「でしょ? タメでいい。今のうちに慣れておかないと、不自然さ丸出しになるから」
「わかりま……じゃなかった、わかったー」
「おっけー。じゃあ、行こう」
「うん」
ハンバーガーショップを出る前に一度立ち止まり、それとなく周囲を確認する。
店長の見立てはよく当たるんだ。お父さんの追跡は、私の予想以上に鋭く早いかもしれない。行動と言動に十分気をつけないとだめだな。
まず、一刻も早く契約を成立させて居住者としての権利を確定しよう。立て篭れる城の確保が最優先だ。遊撃戦になったら私たちには勝ち目がない。親という立場は切り札としてものすごく強力なんだ。それは私自身が思い知ってるからね。
「ふうっ。こっちも戦闘開始だな」
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