第6話 お一人様一瓶まで

 由希と葉月を学生寮の大浴場まで連れてきた奏は、「よいしょ」と浴槽内へ足を踏み入れる。床に散らばった漫画を踏まないように避けて進み、そこに置かれていた木箱に触れた。

「この大浴場を自分のスペースとして使い始めたのは一年生の秋くらいからなんだけど、その時からこの箱はあったんだ。浴槽の中じゃなくて、脱衣室のロッカーの一つに入れられてたのを見つけてさ。お湯も水もない浴槽内に座るのって、浮力はないしタイルは固いしで快適とは言えないから、この木箱が椅子代わりにちょうど良いじゃんって思って持ってきて、それで」

 上部を持ち上げると、木箱が空いた。

 奏が前屈みになり、木箱の中に手を入れる。取り出したのは一冊のノートだ。由希が学校で使っているのと同じようなごく普通のB5サイズのノートだった。だが、表紙の色はまるで使い込んだかのように薄くなっている。

「これを見つけたんだ」

奏はノートを手にしたまま浴槽から出てくる。由希と葉月の前に立ち、一ページ目を開いた。

 この秘密を、あなたに継承する。

 奏が開いたページには、そんな文字が並んでいた。黒色のペンで書かれている。紙は黄色く劣化していた。「秘密を、継承? これ、奏が書いたの?」

「違うよ。私がこのノートを見つけた時には、もう既に書かれてた」

「秘密って?」葉月がノートの文字を指で叩く。

「先のページを見れば分かると思う」奏がページをめくった。

 印の場所へ行け。

 そこには手書きの地図があった。描かれているのは、校舎と寮とそして庭だ。地図の中、庭の中央辺りに赤色ボールペンか何かで×印が付けられている。

「これ、ここに音楽練習場って書いてある。音楽部の都市伝説に出てくる場所だよね。この地図は、まだ音楽練習場があった頃に書かれたものってこと?」葉月が指摘した。

音楽練習場と文字が書かれた近くに印はあった。正確に言えば、印がついているのは音楽練習場ではなく、あくまでも、その近くだ。

そこに何かがあると言わんばかりである。

「葉月は音楽部の都市伝説、知ってるの?」

「由希から聞いたから」

 奏が由希を見る。「わたしは、美咲と里華ちゃんから聞いた」

「それなら話が早い」奏がノートから目を離し、顔を上げて微笑んだ。

 印の場所へ行けと指示があるが、その場所に何があるかは明記されていない。結局これは何の地図で、このノートは何なのか。由希が疑問に思っていると、それに答えるように奏が説明してくれた。

「何の地図だろうと思って、でもとりあえず印の場所に行ってみたんだ。二年になって少しした頃、五月くらいだったかな」

 学生寮を出て庭を進み、舗装された道から外れ、道なき道へと進んでいく。奏は足元に生い茂る草を靴で踏み潰し、頭上に伸びる木の枝をかわしながら突き進んでいた。その後ろを、葉月も恐れることなく遅れることなくついていく。

 キャンディーの入った瓶を持った由希は、さらにその後ろから二人を追った。

 歩きながら由希は、陸上部の都市伝説を思い出していた。話の中心となった女子生徒が走り込みの途中で消えたという場所、葉月と探そうとしていたその場所に、今まさに向かっているのではないだろうか。

 やっぱり、都市伝説とキャンディーの間には密接な関わりがあるのか。あの話は都市伝説ではなく、事実だったのか。何が事実で何が作り話か、その境界が曖昧になってくる。

 奏と葉月はするすると進んで行くが、足元は坂になっており、草に滑って進みづらい。奏も文化部なはずなのに、どうして体力に差があるのだろうか。天文部も実は走り込みをしているのだろうか。葉月に至っては由希と同じ帰宅部なのに、どうしてこうも易々と進んでいけるのだろう。

「ちょっと待って」と二人を何度か呼び止めながら、由希はなんとかして進んで行った。

 木々を抜けた先に、少しだけ開けた場所があった。何かが建っていた跡地だろうか、そこだけ木が生えていない。

 やや乱れた息を整えながら、辺りを見渡す。

「ここに音楽練習場があったわけか」と葉月が指を差す。

「そう」返事をする奏の息は上がっていない。

「じゃあ×印があった場所は?」

 近くに何かあるのか、いや、ぱっと見て分かるような物は何もなかった。由希は靴の下を見る。もしかして地中か? 今から穴掘りでもするのだろうか。そんな体力は残っていなかった、というより地面を掘るための道具も持っていなかった。

「こっちこっち」奏は手招きをして、さらに先へと進んでいく。

 また足場の悪い坂を上るのか、そう思っていたがそうではなかった。

 音楽練習場跡地から木々の間を少し通り抜けた先で、奏が足を止めた。目の前には滝がある。「ここ、ここが地図にあった印の場所」

滝というにはあまりに規模が小さいが、積み上げられた岩の上から水が流れ落ちている。庭に滝があるなんて、由希は初めて知ったことだった。流れる水の音はそう大きくはない。だからこそ、この滝の存在にこれまで気づくことはなかったのだろう。

「この滝が?」

「いや、滝じゃなくてその向こう。結構濡れるけど二人は大丈夫?」今なら戻れるけどどうするか、と訊かれているようだった。


滝の奥は狭い洞窟となっていた。水が近く日も当たらないからか、暗く、ひんやりとしていてどことなく異質な空気に満たされている。滝を通り抜けた由希の体は濡れていた。頭からバケツの水をかぶったかのように、水浸しだ。

「びしょ濡れなんだけど」葉月が半袖Tシャツの上から羽織っていたパーカーを脱いで、水を落とすように絞っている。

「だから濡れるよって言ったじゃん。由希は覚えてない? 五月くらいに、私がずぶ濡れで部屋に帰った日があったでしょ。あの日、この場所を発見したんだよね」

 そんな日があっただろうか。いや、あった。

あれはちょうど音楽部の都市伝説を聞いた日だ。その日、澄み渡るほどに晴れていて雨なんて降る気配もない、プールの授業も始まってもいない春の日に、奏が濡れて寮に帰ってきたことがあった。

 それと、昨日もそうだった。「もしかして昨日もここに?」

「そうそう。そのキャンディー、部屋の中で行方不明になってたんだけど、部屋移動のために荷物をまとめている時、机の下から見つけてさ。思い出して、気になって、ここに来たんだよね。で、これが地図に示されていたものの正体」

洞窟内で、奏がスマートフォンのライトを地面に向ける。明かりに照らされたその場所に、木箱があった。大浴場にあった木箱と似ている。

 奏が蓋を開けた。その中に光が当たる。

お一人様、一瓶まで。

一番に目に入る位置に手書きの文字があった。その文言が示す通り、木箱の中には瓶がある。一つ、二つだ。二つの瓶を入れるには木箱は大きく、半分以上スペースが余っている。瓶には、それぞれ蓋の上に「四」「五」と数字が書かれた紙が貼り付けられていた。

 葉月が五番の瓶を箱から取り出す。透明な瓶の側面から、五本のキャンディーが入れられているのが分かった。

 由希はずっと手にしていた瓶と、今葉月が手にしている瓶とを見比べる。中に入っているキャンディーの本数は違えど、それ以外は全く同じだった。同じものがここにあるということは。

「由希が持ってるそのキャンディーは、この箱に入っていたんだ」奏は箱の中に光を当て続けている。「寮の大浴場でノートを見つけて、地図を見て、ここまで来た。そしたらこの箱があって、開けたらキャンディーの入った瓶があった。蓋には「三」って数字が書かれていたんだよね。多分、それはこれを見つけたのが三人目だってことを意味しているんだと思う」

 箱の中に一番と二番の瓶はなかった。奏より先にこの場所に来た人たちが、それぞれ一瓶ずつ持ち帰ったということか。そして奏も「お一人様、一瓶まで」という言葉通りにキャンディーを持ち帰った、と。

奏は葉月に五番のキャンディーをもとの位置に戻すように告げ、スマートフォンを持たないほうの手で木箱の蓋を持ち、閉めた。

 木箱を机代わりにして、蓋の上にノートを置く。ライトを近づける。箱の上に置いたノートを開き、目的のページを照らした。

 由希もしゃがんでノートを覗き込む。地図が書かれたページの後ろには白紙のページが何枚か続いていた。その後にようやく文字の書かれたページが現れる。

「都市伝説を作り、この秘密を残せ?」由希が読上げたままの文字が、そこには確かに記されていた。

奏がまたページをめくる。するとそこに四つの都市伝説が書かれていた。陸上部の都市伝説、寮の売店の都市伝説、音楽部の都市伝説に大浴場の都市伝説の詳細だ。四つの都市伝説はそれぞれ異なる筆跡で記されている。

「どういうこと?」由希は考える前に疑問を口にしている。

「私も、このノートを発見したときはどういうことって思った」四つの都市伝説に続くページは、全て白紙だった。最後の数枚分は、ノートからページが破り取られたようになっている。「でもようやく分かったよ。このノートの最初の持ち主が、このキャンディーをここに隠したんだ。彼女は秘密を守り続けることができなかったんだろうね、だからその秘密を継承することにしたんだ」

ノートの一ページ目に書かれていた「この秘密をあなたに継承する」とはそういう意味なのだろうと奏は推測を口にし、話を進めた。

「継承する秘密は、言葉で説明するよりも実物を見せたほうが良いと思ったんだろうね。だからこの地図を書いた。ノートを見つけた人が、この場に辿り着けるように。そうして私も辿り着いた。甘いものは別に好きじゃないし、このキャンディーを持って帰る必要もないかとは思ったんだけど、こんなに手の込んだことをされたら気になるじゃん? まあ、これ自体はただのキャンディーだと思っていたんだけどね。それも違っていたみたいだ」

 都市伝説を作り、この秘密を残せ。

それは、ここまで辿り着いた者へのメッセージだった。

「根も葉もない話は尾ひれをつけ、その身を削り、形を変えながらも残っていくものだから。だから、ここにキャンディーを置いた彼女は都市伝説を選んだのかな」

 筆跡から鑑みるに、一つ目の陸上部の都市伝説を書いたのはノートを作成した人物に違いなかった。キャンディーを口にすると浮くという効果を示したかったのだろうか。

 二つ目の売店の都市伝説は、一番の瓶を持ち帰った人物が記したのだろう。秘密の中心にあるのはキャンディーであると示したかったのかもしれない。

 三つ目の音楽部の都市伝説は、二番の瓶を持ち帰った人が作ったもの。

「一番目と二番目の間に音楽練習場が使われなくなったんだろうね。そうなると、ノートに記されていたこの場所を示す地図が機能しなくなる可能性もある。隠し場所を示すために、こんな都市伝説を作ったってところか」渦中にいた奏ではなく、葉月が解説してくれた。

 真実がどうかはもはや分からないが、葉月の発言が的を得ていないとも思えない。

「そうだね。音楽練習場が使われていた時代には、ここに近づく人もいた。でも使われなくなってからは人も寄りつかなくなって、音楽練習場そのものがなくなってしまった今はこの場に繋がる道もなくなって、秘密は人々から遠いものとなってしまった。音楽練習場のことを、葉月は都市伝説で知ったんでしょ? ということはまさに、この都市伝説は上手く機能しているということだ」

凄いなあ、と奏は感心している様子だった。

「このノートはもとはその、音楽練習場にあったんじゃないかと思ってるんだよね。ノートを見つけたらすぐにここに来れるように。でも、音楽練習場がなくなってしまったから、誰かが大浴場に移動させた。その大浴場ももう使われなくなってしまった。だったら、私が作るべき都市伝説はそれだと思ったんだ」

 奏は四つ目の都市伝説を開く。「由希が前に言ってくれたでしょ?」

「わたしが? 何を」

「ちょうど、私がここでキャンディーを見つけたころだった。奏もいつか都市伝説になるんじゃないって、由希が言ってくれたじゃん。それを聞いて『それだ!』って、ピンときたんだよね。だからこの都市伝説を作ったんだ」

 四つ目の大浴場の都市伝説は、誰かが大浴場に置かれたノートの存在に気づくために、奏が作ったものだった。

「この内容、これ、都市伝説っていうよりただの怖い話じゃん」葉月が笑う。

「都市伝説を作るのって意外と難しいんだって」

 ああだこうだ言って、奏が作った都市伝説の完成度について議論している二人の間に割って入り、由希は訊ねる。「この話を奏が作って、広めようとしたってことだよね? 都市伝説を作って秘密を残せっていうノートに記されていた言葉通りに」

「その通り。この話を作ってすぐ、天文部の後輩たちに話したんだ。そこから広まっていると良いんだけど、どうだろう。都市伝説を広めるのもこれまた難しくてさ」

 奏からの一通りの解説を聞いてもなお、重要な一点が分かっていないままだった。

「結局のところ、このキャンディーは何なの? 体が浮くだけのものってこと?」

 キャンディーを口にしただけで体が浮くというのも、そもそもがおかしい。だが、それらに関する説明はノートには一切記されていなかった。このキャンディーは何なのか、食べたら浮くのはどうしてかなど、肝心な部分の説明はされていない。

「他にもノートがあるとか?」

「いや、ないよ。多分ない。少なくとも私は見ていない」

「だったら、どういう」

 確信はないが、一つ思うところがあると奏が言った。ノートのページを戻し、陸上部の都市伝説が記された箇所に光を当てる。

「この都市伝説を作ったのは、このノートを作成した本人であり、誰かにこの秘密を継承させようとした人。つまり、このキャンディーの正体を知る人間ということだね」それが誰だったのか、生徒だったのか先生だったのか、人間だったのかさえ今となっては分からない。「ただ、その人が書いたってことは、一つ目の都市伝説だけは都市伝説ではなく本当の話だったんじゃないかな」

「本当の話?」

「私が作った大浴場の都市伝説は、そこにノートがあるということ以外ほとんどが嘘だ。でも、一つ目の都市伝説については、作成者がそこに嘘を入れる必要がないと思わない?」

「だったら、音楽練習場の近くに滝があって、その裏に洞窟があって、そこに木箱があって瓶があってキャンディーがあって、それを口にすると体が浮くという都市伝説を作ったら良かったんじゃないの?」葉月が物申した。

「確かに、それはそうだね。そうしなかったのには何か理由があったのかもしれない。でも、私が言いたいのはそういうことじゃなくて。話の中に登場する陸上部員がいたのかいなかったのかはさておき、キャンディーを食べると浮く、何度も食べると飛ぶように早く走れるようになった、ってところが真実なんじゃないかってこと」

「このキャンディーを食べたら足が速くなるってことが言いたいの?」そんな都合の良いことはないと、それはすでに証明済みだった。

「そうとも限らない。私が読んでる漫画に、これと似たキャンディーが登場するんだけど」

「それ、わたしたちも見たよ。女スパイが出てくる漫画だよね、奏が部屋にポスターを飾っていた」

「そう、それ。じゃああの、キャンディーの説明のところも読んだ?」

 説明? 由希は首を横に振る。そこまでは読んでいなかった。漫画内にキャンディーの説明が書かれていたと、そういうことなのか。でも漫画の中の言葉は全てフィクションだ。その説明がそのまま由希の身に起こった出来事に通用するとは思えない。

「あの漫画は私が部屋のポスターを貼っていた人気シリーズのスパイ漫画の、外伝みたいな話なんだけど。主人公の女スパイが瓶に入ったキャンディーを手にするところから話は始まるんだ」

「滝の裏の洞窟で見つけて?」葉月が問う。

「いや、師匠から受け取って」

 そこは違うらしい。

「女スパイのDが師匠から瓶を受け取るときに、師匠が言うんだ。『君に、キャンディーとDというコードネームを授ける。このキャンディーには表の効果と裏の効果がある』って。仮に、漫画の作者が過去にここを訪れていたのだとしたら、漫画の設定は実体験をもとにしたノンフィクションだったのかもしれない」

表の効果は目に見えるが、裏の効果は目に見えない。

Dに与えられたキャンディーの表の効果は、キャンディーを咥えて体を浮かし危機を脱する、その行動の機敏さに表れていた。奏が真似ていたのもその一つ。

「じゃあ、裏の効果って?」

「それが、まだ分かってないんだ。Dはまだキャンディーを二本しか口にしていないから、漫画から情報を得ようにもどうにもならないんだよね。でも、何かあるのは確かなんじゃないかな」奏はノートの最後の破り取られたページを、その残ったページの欠片を指でなぞった。「ここに、効果について何か書いてあったりしたのかもしれない」

「ノートの断片?」由希ははっとして、奏が木箱の上に置いているノートを退けて、蓋を開けた。蓋は葉月に持っていてもらい、ついでに三番のキャンディーの瓶を奏に預けた。

 空になった両手で、五番の瓶を持ち上げる。

 その底に、折りたたまれた紙が貼り付けられていた。「これ、そのノートの断片じゃない?」

「なにそれ」と、奏がライトを由希の手元に向ける。

 ここに辿り着いて木箱を開けた時、葉月が五番の瓶を持ち上げた時にその底に何かがあるのが見えたのだ。由希はそっとその紙を剥がし、開く。

 開いた紙と、ノートの破り取られた位置を重ねてみた。罫線の幅とデザインが一致していた。

「五番目のあなたへ、キャンディーのつくり方を送る。材料は、砂糖と水と、瓶に入っているキャンディー。それらを鍋に入れ煮詰め、冷やして固める」

 ノートの断片、そこに書かれていたのは効果に関する内容ではなく、キャンディーのレシピだった。それは、五人目にここに辿り着いた者へのメッセージだ。本来ならば、由希たちが受け取るべきものではない。

由希は書かれた文字を読上げた後、奏に確かめる。「これを書いたのは、そのノートを作った人?」

 奏が文字と文字を見比べていた。「多分、そうっぽいね。このキャンディーを作るのに、このキャンディーが必要なのか。レシピを見てキャンディーを作り、さらに六人目以降にこの秘密を受け継いでいくようにって、そういうことなのかな」奏の声には力が入っていた。

由希は奏の手元に目を向ける。五本あったキャンディーは、残り二本となっている。

二本残っているとは言え、持っていても由希の手には余る。スパイでもないただの高校生にはキャンディーの表の効果も裏の効果も必要ないし、欲してもいない。

「それ、奏に返すよ」由希は奏の持つ瓶を指差した。どうするかは奏に任せる、と言葉を加える。三番の瓶と光を手にした奏は、しばらく瓶に閉じ込められた二本の棒付きキャンディーを見つめていた。


 庭の桜が咲いて散った頃、私立××大学付属××女子高等学校、学生寮の一階にある大浴場にて浴槽内に座っていた由希は、読み終わった漫画本を閉じる。高窓からは太陽の光が差し込んでいた。光に照らされて、埃が宙を漂っているのがよく見える。

「奏、この次の巻ある?」

「何巻?」

「十巻」同じく浴槽内で木箱の上に座る奏が、崩壊した漫画タワーの跡地からコミックス十巻を取って渡してくれる。「ありがとう」由希は受け取って、続きを読み進める。

 読んでいたのは女スパイのDが登場するあの漫画だ。ページをめくりながら、売店で買ってきたばかりのミルクチョコレートの袋を開ける。一時は飽きかけていたが、やっぱりミルクチョコレートが美味しいと思って、最近はこればっかりを食べている。一応、「食べても良いよ」と奏にも言っておいた。

 奏は別の漫画を読んでいた。そこにはキャンディーは出てこない。奏に返したあの瓶入りのキャンディーは、二本を残したまま奏が座っている木箱の中に入っている。

「決めた、これは残しておくことにする。五人目がキャンディーを見つけた時、少しでもこの秘密を継承しやすくなるように、一つでも多くのキャンディーを作れるように」

由希が瓶を返した後でそう言った奏は、秘密の継承者としての自覚が芽生えたのか、残ったキャンディーを口にすることなくそのまま置いていた。完成品であり材料でもあるそれらを残しておくというのが、奏の選んだ結末だ。

 由希が読み進める漫画内では、Dのコードネームの由来が明かされているところだった。敵の襲撃を受け血を流している師匠が、Dに向かって口にする。「キャン、ディー。Dならできるさ」と、その言葉を最後に師匠は目を閉じた。

 キャンディーには表の効果と裏の効果があると、確かにコミックス一巻には書かれていた。だが、由希自身にそんな兆しはなかった。あれ以来一度も体は浮いていないし、試しに庭を走ってみたが足が速くなったわけでもなかった。懸命に走る由希の隣を、春子が軽やかに駆け抜けていった。それはキャンディーの効果でもなんでもなく、ただの春子の実力だった。

同じくキャンディーを食べた奏も、足が速くなったわけでも、朝早く起きれるようになったわけでも、部屋を綺麗に保てるようになったわけでもない。葉月も同じだ。

 何が変わったかと言えば、何も変わっていなかった。

 思えば、陸上部の都市伝説において、そこに登場する女子生徒は何度も浮いているところを目撃されていた。あの都市伝説が本当のことを伝えていたのだとしたら、キャンディーを一本食べるだけでは、きっとその効果は発揮されないのだろう。

 何のために五瓶に分けられていたのかという話だ。

 おそらく、一人一瓶が適量。瓶に入っていた五本のキャンディーを全て口にすれば何かしらの変化が起きたのかもしれないが、五本中三本を三人で分けてしまった。もう誰も、あのキャンディーの効果は受けられないだろう。

 漫画内ではどんな記述がされているのか、それが気になって由希も読み始めたは良いものの、まだまだ先は長そうだ。最新刊でようやく女スパイが三本目のキャンディーに手をつけたところ。五本目に辿り着くまでには時間がかかる。それはもう高校を卒業しているころかもしれない。

 由希は漫画のページをめくり、ミルクチョコレートに手を伸ばす。一つ取り、個包装を開けて、口に放り込んだ。濃厚な甘さが口の中に広がる。チョコレートの甘さは、他のお菓子には再現できない独特のものがある。

 ん?

 由希は甘さの奥に、若干の香ばしさを感じた。昨日とは少しだけ味が違う。漫画をひっくり返した状態で膝の上に置き、ミルクチョコレートの大袋をひっくり返し裏面に目を向ける。昨日食べたものと同じ会社の、同じ商品名の、同じ原材料を使ったミルクチョコレートだった。それにも関わらず味が違う。

「またか」

 このところ、由希はお菓子を食べるたびに個体による若干の違いを感じていた。味覚が敏感になったのか? これは秘密のキャンディーの効果か。いや、ただの偶然と思うことにしよう。口に入れていたチョコレートを噛み砕き、膝の上に置いていた漫画本を再び手に取る。

 その時、高窓の向こうから声が聞こえてきた。

「美咲先輩、ここ幽霊が出るらしいですよ」

「幽霊?」

 由希は口に手を当てて黙る。黙ったまま、外の会話に耳を澄ます。

「この大浴場に関する都市伝説があるみたいなんです」外を歩く女子生徒が語ったのは、奏が作った都市伝説だった。この声、聞いたことがある。佐藤里華だ。美咲先輩と言ったということは、里華とともにいるのは美咲か?

 美咲は、ここに奏が入り浸っていることを知らないはずだ。

 由希は同じ浴槽内に座る奏に目を向けた。奏は人差し指を立て、口の前に持ってくる。少し微笑み、その後手にしていた漫画のページをペラペラとめくった。

「あ、ほら。聞こえませんか。何かをめくるような音が」

「嘘、本当にそんなことあるわけ。本当だ、え、本当に大浴場に幽霊がいるってこと?」美咲の神妙な声を耳にして、由希は口元に当てていた手で、込み上げる笑いを抑えるようにする。見ると、奏も笑いをこらえていた。

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キャンディーは花園の中に タマキ @tamaki_

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