第5話 浴槽内
「そういえば、音楽部の都市伝説の方は由希から聞いた気もする。よく覚えてなかったけどさ」葉月は立ち止まって腕を組む。庭の道なき道を進み、都市伝説に出てくる陸上部員が練習中に姿を消していたという場所を探している途中だった。
「思えば、奏から売店の都市伝説を聞いた時、見せてくれたキャンディーはまさにこれだったような気がするんだよね」由希は瓶の蓋を軽く手のひらで叩く。
「そうなの?」
「うん」手元に目を落とす。あの時、奏が持っていた瓶に入っていたのも同じような棒付きキャンディーだった。
「それっていつの話なんだっけ?」
「二年の六月だから」由希は指を折ってその月日を数える。「九ヶ月くらい前かな」
「九ヶ月前か、その時から奏はそのキャンディーを所有していたってこと?」
「多分ね。その時から部屋のどこかに置いていて、部屋移動のために荷物をまとめているところでそれを発見したのかな。実際、部屋の中から行方不明になっていた赤ボールペンが十二本も出てきたし、紛れていたとしてもおかしくはない」
「なるほど。じゃあ、そのキャンディーを由希の机の上に置いたのは、奏で間違いないってことか」
「それは、ちょっと何とも言えないけど」葉月の言う通りなのだろうか? 由希は校舎の方向を見る。木が邪魔で校舎自体は見えないが、そこに奏はいる、部活中のはずだ。
「都市伝説が三つ、ね。消えた陸上部の生徒と、現れるキャンディーと、消えた楽器。どこからともなく現れたり、消えたりってそういう話ばっかりだね、都市伝説って」葉月が神妙な顔をしていた。「他には、何か知らないの?」
「わたしが知っている都市伝説はその三つだけ。でも、三つあるってことは、他にもあるのかもしれない。学校の七不思議とかいう言葉もあるもんね」
七不思議というからには、不思議が七つあるのだろう。そうなるとあと四つも都市伝説があるということだろうか。他にどんな話があるのか、由希は考えてみるが知らないものは知りようがない。
「由希が一年の時に入っていた部活には、都市伝説ってなかった?」
「え」
「ほら、今話してくれた三つの都市伝説のうち、二つは部活に関係するものでしょ? 陸上部の都市伝説と音楽部の都市伝説。だったら各部に一つずつ都市伝説があったり、って思ったんだけど、どう?」
部活の都市伝説か。思い返してみるが、聞いた覚えはなかった。
「悪習はいくつかあったけど、都市伝説はないな」
「悪習って何?」葉月はいたずらっぽく笑い、そこに食いついてきた。「まあまあ」と流し、先へ進める。
「葉月の周りには、誰か、都市伝説に詳しそうな人とかいないの?」訊ねながら由希も、クラスの友達、寮の友達、その他の友達と順に、彼女たちの顔を順に思い浮かべていく。都市伝説好きな友達は見当たらなかった。
「ええ、どうだろう。現状は春子が一番詳しいんじゃない? 陸上部の都市伝説を教えてくれたのは春子だし、売店の都市伝説も春子は知っていたんでしょ?」
「そうだね、そうだった」春子は今どこで何をしているのだろうか。
「てか、今思ったんだけどさ。春子が教えてくれた都市伝説と、奏が言っていたっていう売店の都市伝説には、それぞれ『浮く』と『キャンディー』が組み込まれているよね。ってことはさ、音楽部の都市伝説の中にも、そのキャンディーにまつわる何かが組み込まれているんじゃない?」
葉月は由希が手にする瓶を指した。
どの都市伝説も完全に正しくはないけれど、それらの一部分を集めると一つの話が出来上がる。それが由希が手にするキャンディーの正体に繋がっている、ということだろうか。
「そう考えると、三つの都市伝説は自然とできたんじゃなく、誰かが意図的に生み出して広めたものだってことになるよね?」
「もしそうだとしたら、その人物こそがそのキャンディーを作った人間だ」葉月は決定づけるように強く言い切った。
一体誰なのだろうか。何のために、というかどうやったら舐めただけで人の体を宙に浮かせることができるキャンディーを作れるのだろうか。疑問は尽きることがない。
音楽部の都市伝説の中で、重要な要素となりそうなものは何があるか。由希は葉月とともにもう一度その都市伝説をお復習いした。
昔、音楽練習場があり、そこに楽器が置いてあり、それが行方不明になり、今もどこかに隠されている。「音楽練習場?」
「その部分だけやけに具体的だから、怪しくはある」
「でも、音楽練習場なんてわたし見たことないよ?」その都市伝説を聞いた直後も、由希は庭を散歩した。だがそんなものはどこにもなかった。
「由希が確認したのはこの庭の舗装された道を通って、でしょ? だったら道のないところにはまだ目を向けていないわけだ」葉月は地面を指差す。今まさに二人がいるところが、その目を向けていなかった場所である。
二つの都市伝説が庭で重なる。
陸上部の女子生徒が消えたという場所、今は使われていない音楽練習場があったという場所。二つの場所は、もしかして同じなのか?
だとしても、この広い庭の、見通しの悪い木々の中をしらみつぶしに探すのは骨が折れる。絶対にここにあると分かっていたら良いものの、どこにあるかも分からない、あるのかどうかさえも分からないものを探すのに手当たり次第は無理があるだろう。
そうだ。
「葉月、待って」人の侵入を拒むかのような背の高い草を掻き分けて、先へ進もうとする葉月を呼び止める。「里華ちゃんが何か知っているかもしれない」
由希は、美咲の後輩である音楽部一年佐藤里華の名前を出した。
「あの時、というかあの後、里華ちゃんたちはその都市伝説を信じて、隠された楽器を探したと思うんだ。それがどうなったのかわたしは知らないから、まずそっちを訊きにいかない?」
もしかしたら、音楽練習場を発見していたかもしれない。何なら、その隠されている楽器を見つけていたかもしれない。どちらにせよ、有力な情報が手に入ることは間違いなかった。
由希は三階の五号室を訪れた。昨日、部屋移動を完了して以来の訪問だ。さよならをしたはずの部屋にこうもすぐに来ることになるとは、思ってもいなかった。
ドアをノックして少し待ったが返事はない。
「いないのかな?」葉月が強引にドアを開けた。
そこに佐藤里華はいなかった。ルームメイトの一年生もいない。空っぽの机に、空っぽのベッド。開け放たれたベージュのカーテンは動くことなく静かにそこに佇んでいた。床には点々と、荷物の入れられた段ボール箱が置かれている。
「まだ部屋移動してないってことか」
「そうだね、二階の方に行ってみる?」
葉月を連れて階段を降りると、二階の五号室のドアは開きっぱなしになっていた。中を覗き込むと、次の四月で二年生になる里華は、同室の女子生徒とともに二階から三階へ部屋を移動するための作業をしていた。
「里華ちゃん」由希は開いたままのドアをノックしながら、ヘアアイロンにコードを巻き付けていた里華を呼ぶ。
「あ、由希さん。どうかしましたか?」里華は曲げていた膝を伸ばし、ヘアアイロンを持ったまま、こちらに近づいてくる。由希の隣に立つ葉月に小さく会釈をした。「忘れ物ですか? それなら、三階の五号室に入ってもらって大丈夫ですよ」
「いや、そういうわけじゃなくて。今ちょっと時間ある?」
里華は由希と葉月を交互に見て、きょとんとしたまま頷いた。「はい、大丈夫ですけど」
葉月と里華は面識があるのだろうか。ないような気がした由希は、廊下に移動した後、里華に対して葉月のことを簡単に紹介した。紹介された葉月は「どうも」と無愛想に答える。「それで、話なんだけど」
さっそく、由希は音楽部の都市伝説について口にする。「里華ちゃん、その隠された楽器を探すって言っていたじゃん。あれってどうなった? それが知りたくて」
「ああ、あの都市伝説ですか。それなら、実際に探しに行きましたよ」
「どこに?」
楽器が隠されている場所が分かったということだろうか。
「音楽練習場です。寮の職員室にいる事務員さんが音楽練習場のことを知っていて、教えてもらったんです。そこに楽器が隠されているという確証があったわけではないんですけど、行ってみました」
里華に音楽練習場の場所を教えた事務員とは、今朝由希が移動完了の報告に訪れた職員室にいた人ではなく、去年の三月まで寮にいたベテラン事務員のことだった。
「そこに、楽器は隠されていたの?」
単刀直入に訊ねると、里華は眉を下げた。「ありませんでした。それ以前に、音楽練習場も、もう跡形もなくて」
「その場所ってどこ?」葉月が口を挟む。
「えっとですね、寮を出て、左に行くと庭に続いている道があるじゃないですか。その道を緩やかなカーブに沿って時計回りにずっと進んで行って、テニスコートを過ぎて、第二グラウンドを過ぎて、弓道場も過ぎた辺りですね。一見何もないような、木々の間に入っていったところにあって」
ここまで説明してくれたところで、「口で説明すると分かりにくいですね」、と里華は五号室からノートと黒ボールペンを取ってきた。特徴的な罫線の、英語のノートの最後のページを開き、そこに簡単な地図を書いてくれる。
音楽練習場があるというのは、ちょうど庭を一周する舗装された道の、楕円の中、その中心辺りだった。
里華は地図を書いた英語のノートの最後のページを破って、渡してくれる。それを葉月が受け取り、じっと眺めていた。
「音楽練習場に楽器がないって分かってからはどうしたの?」由希は続きを訊ねる。
「校舎の音楽室も探してみたんですけど、その楽器はどこにもなくて。もう何も手がかりがなく、結局、捜索はうやむやになって終わりました。由希さんたちも、都市伝説を調べているんですか?」
「まあ、そんなところ」由希は苦笑する。
「それなら、音楽部の都市伝説とは別の都市伝説があるのをご存知ですか?」
別の都市伝説? 陸上部の都市伝説か、寮の売店の都市伝説か。そのどちらかと由希が訊ねると、里華は「いいえ」とどちらも否定した。
「そのどちらでもありません。天文部の友達から聞いたんですけど、都市伝説というよりは、怪談話に近くて。寮の一階、玄関から入って左にずっと進むと食堂があるじゃないですか」
「あるね」注意深く、由希は里華の話に耳を傾ける。それぞれの都市伝説にキャンディーの正体に関する情報がバラバラになって組み込まれているのだとしたら、里華が話す四つ目の都市伝説にも、重要な何かが含まれている可能性があった。
「その反対、玄関を入ってずっと右に進んで行って、洗濯機があるランドリールームを通り過ぎた先に大浴場がありますよね。立ち入り禁止状態になってて誰も使っていないはずのその大浴場の外の道を通ると、窓越しに、明かりが灯っているのが見えるらしいんです」
随分前から、由希が××女子高等学校に入学するよりも遙か昔から、ここの学生寮の大浴場は使われていなかった。壊れているのだ。
お湯が出ないし、水も出ないため、大浴場としての機能を果たしていない。
「その明かりを見て誰かいるのかと思って耳を澄ますと、大浴場の中からペラペラと何か紙をめくるような音が聞こえるそうなんです」
里華は一呼吸挟み、都市伝説の続きを語る。
「まだ大浴場が使われていた頃、この寮に住んでいた学生で、勉強熱心な生徒がいたそうなんです。その生徒は大浴場にまで勉強道具を持ち込んでいたらしんですけど、ある時、湯船の中でのぼせて倒れてしまい、帰らぬ人となってしまったそうで。その女子生徒が今も寮の大浴場に住み着いているって。彼女が使っていたノートが、まだ大浴場に残されているっていう都市伝説なんですけど、由希さんたちはそのノート、見たことがありますか?」
由希は二階の五号室を出て、四階の五号室へと移動した。もう奏が部活から帰ってきても良い時間だったが、室内に人はいなかった。鞄もなく、脱ぎ捨てられた制服もない。奏の荷物は全て段ボール箱に入れられたまま、そのままだ。
ずっと手に持っていた食べかけのキャンディーをティッシュを敷いて、机の上に置き、瓶もその隣に置いて、由希はドアを閉めて背後に立つ葉月に声をかける。
「奏は多分、大浴場にいる」
葉月は噴き出し、笑った。込み上げるその笑いは止まることがない。何をしている時よりも楽しそうだった。笑いのツボに入ったのだろうか、右手で右太ももを何度か叩く。
「まさか奏が都市伝説になっているとはね」
由希にも、それは予想外のことだった。
里華が教えてくれた寮の大浴場に関する都市伝説。聞こえてくるペラペラというノートをめくるような音は、そこで亡くなった生徒のものではなく、奏が漫画をめくる音に違いない。
由希は葉月とともに四階から一階まで階段を降り、大浴場へと繋がる廊下を進む。ランドリールームを通り過ぎ、立ち入り禁止の看板を無視してドアを開けると、そこは大浴場の脱衣室だ。
足元はコンクリートがむき出しになっており、立ち並ぶロッカーも一つとして使われているものはない。ほぼ全てのマスに埃が積もっている。とても快適な環境とは言えない、手入れのされていない脱衣室を通過して、由希は浴室へと繋がる扉を開いた。
室内履きのスリッパを履いたまま浴室の白いタイルを踏む。水捌けの良さを狙って床に敷かれたタイルに、水が落ちることももうない。
「奏はよくこんなところでくつろげるよね」ようやく笑いの収まった葉月が、奏に対し皮肉の混ざった感心の言葉を口にしていた。
「本当にね、わたしもそう思う」
決して綺麗とは言えない、埃や汚れで満ちた学生寮の大浴場を勝手に自分の秘密基地にしよう、なんて考えるのは奏くらいだろう。もしかしたら奏は部屋を片付けられないのではなく、片付けたくないのではなく、汚い部屋が好きなのだろうか。甘いものが好きな人と苦手な人がいるように、何にだってそれを好きな人と苦手な人がいる。
「あれ?」
いつもならば浴槽内に置かれた木箱に座って漫画を読んでいる奏の姿が、そこにはなかった。
「いないじゃん」と葉月も言う。また空振りだ。部活を終えて、部屋に帰らずここにいるのかと思っていたが、そうではなかったらしい。
「部活が長引いているのかな?」
大浴場の名にふさわしい大きな浴槽を覗き込むと、中には奏がいつも椅子代わりにしている木箱と、読みかけの漫画と読み終わった漫画が散らかっていた。それらの漫画も、前に由希が見た時には綺麗に積み上げられていたのに、その名残は全くないほどにバラバラになって浴槽内に倒れている。
タワーが崩壊した後の惨状のようだ。
浴槽内に湯は張られていないから、それらの漫画が濡れることはなかった。紙は濡れるとふやけてしまう。現役の大浴場には漫画を持ち込まないほうが良いだろう。シワシワになった紙は、元通り真っ直ぐになることはない。
「じゃあ、また四階に戻って帰りを待つか」
「そうだね」由希は葉月に言葉を返しながらも、上体を前に倒し、浴槽の縁に左手をかけて体を支えながら、右腕を伸ばす。一番近くに落ちていた漫画を拾った。スパイもののバトル漫画の十七巻だ。
内容を見るでもなく、ざっとページをめくってみる。指で紙を弾く音がする。この音が都市伝説になっていると思うと、なんだか愉快だった。
「その漫画面白いの?」葉月も一冊、浴槽の中から漫画を拾い上げる。
「いや、違うよ。前にさ、奏と話したことがあったんだ」由希は漫画本を浴槽の縁に置く。一方、葉月は手に取った漫画をめくっていた。話を聞いているのか聞いていないのかよく分からない。「いつか奏も都市伝説になるんじゃないかっていう話をしたことがあるんだよね。それがまさか現実になるなんて。都市伝説ってこうやって作られていくんだなって思ったら面白くてさ」
「だったら、この漫画も都市伝説の一つだったりするわけ?」葉月は手にしていた漫画のとあるページを開き、それをいきなり由希の眼前に突き付けてきた。
そこに描かれている内容に目を向ける。女スパイが、敵か味方か、仕向けられた追っ手から逃げているシーンだった。闇夜にビルの上を滑走する女スパイの手元に、逃走中のスパイにはふさわしくない物が描かれている。
次のコマで、それがアップになった。
ガラス瓶だ。手のひらサイズの、おそらく透明な瓶の中にはキャンディーが入っている。棒付きのキャンディー。漫画は白黒だから、そこに色がついているのかは分からない。
「このキャンディーって、これ」
由希は部屋に置いてきたキャンディーの瓶を思い出し、漫画内に描かれたそれと見比べる。似ている、というには似すぎている。瓶に入っているキャンディーなんてありがちではあるが、これは、どういうことか。
もしかして、あのキャンディーはなんてことないただのキャンディーだったのか?
奏が漫画からインスピレーションを得て真似をして、似たような瓶と棒付きのキャンディーを買って、瓶にキャンディーを入れた? でも「似た」というにはあまりにも似すぎているのだ。まるで同じもののよう。それなら、あれか。このキャンディーは漫画の中から出てきたのか?
いや、そんなことはないはずだ。そんなことはあり得ないはずだ。
「葉月、わたしたちの体が浮いたのって、夢だったのかな?」
自分の記憶が心配になってくる。浮いてなどいなかったのではないか、と思えてくる。だが、由希の問いかけに、葉月は強く頷いた。
「浮いたよ、間違いなく」
「じゃあ、これって?」
葉月が人差し指と中指を立てた左手を上げる。
「考えられるのは二つかな。一つは、奏がこの漫画を参考にしてそのキャンディーを作った。作ったキャンディーには、それを口にすると体が浮くという特殊な効果があった。もしくはそんなキャンディーを奏がどこかから手に入れてきた。奏じゃなくても、誰かこのキャンディーを作った人がいるのは間違いない」
無からキャンディーは生まれない。
「もう一つは、仮にこのキャンディーを作った人がいないのだとしたら」
「いないとしたら?」
「これは、ここから飛び出してきたのかもしれない」ここ、と葉月が示していたのは漫画のワンシーンだった。
由希が立てたのと同じ推論を述べた後、葉月は三本目の指を立てる。
「どちらの考えも真実とは異なるのだとしたら、これは私たちのどちらかが見ている幻なのかもしれない。なんてね」これは冗談、と葉月は笑った。
四階の五号室のドアが開く。花柄の布団が置かれたベッドの上に座っていた由希が顔を向けると、部屋に入ってきたのは奏だった。上下茶色の制服を着て。胸元にオレンジ色のリボンをつけて、中身の詰まっていない鞄を左肩から提げている。部活に出かけていった時と何も変わらぬ格好だ。濡れてもいない。
「おかえり」
由希が声をかけると、奏は「ただいま」と言って由希から目線を外す。由希の机の椅子に座る葉月を見た。「葉月がいるなんて珍しいね」
「巻き込まれまして」葉月は由希とともに、奏を見続ける。
奏は机の下に鞄を転がすように置いた後、ブレザーを脱いでベッドの上に投げ置いた。そのまま洗面所に向かう。ドアの奥から、水の流れる音が聞こえはじめ、うがいをする音が聞こえ、そうして水は止まった。
洗面所から出てきた奏は、胸元につけていたオレンジ色のリボンを取り、これまたブレザー同様にベッドの上に投げた。次に、ブラウスの一番上のボタンに手をかける。
「二人して、何?」自分の行動をずっと見られていたことに気づいて、ようやく奏が動きを止めた。
由希は奏に、キャンディーの入った瓶を見せる。
「奏、これどこで買ったの?」
買ったのかどうかさえ定かではない。人が宙に浮くキャンディーなど、どこに売っているというのか。少なくとも寮の売店に売っていなかったことは確かだ。
「ああ、それ? 買ったわけじゃないんだよね」
「じゃあ奏が作ったの? 食べると体が宙に浮く、このキャンディーを」
瓶の側面を軽く叩いてみる。
由希の問いに対して、奏は黙った。
瞬きを二、三回してから首を傾げる。「宙に浮くって何?」
「え」
「キャンディーはキャンディーでしょ? どういうこと?」眉間に皺を寄せている。このキャンディーがただのお菓子ではないことを知らないと、奏の表情は物語っていた。
由希は葉月と目を合わせる。そして再び、奏を見る。
「奏はこれ、食べてないの?」
「食べてないよ。甘いもの好きじゃないし」
由希は瓶の蓋を開けた。棒を摘まんで、中からキャンディーを一本取り出す。それを差し出し、奏に告げる。
「食べてみて。そしたら、わたしの言ってることが分かるから」
由希が差し出したキャンディーを、奏は受け取る。棒を持って、少しだけ嫌そうな顔をしてから迷いなくそれを口に運んだ。ぱくっと、奏がキャンディーを口に入れた瞬間、奏の体がふわりと浮いた。
由希は自分の目を擦る。
他人が目の前で浮くところを見るのはこれで二回目だったが、二回見ても、見慣れることはない。空にいる鳥を見ても何とも思わないのに、人が何の補助もなしに浮いているとなると目を疑ってしまう。
人が宙に浮くことはないと、それは人間の中に生物的に刻まれた情報なのだろうか。
奏はしばらくそのまま、浮いたままだった。
状況が理解できぬ、といった様子ではない。「おお」とキャンディーを咥えたまま歓声を上げる。体が浮いたことを驚き、楽しんでいるようだった。
「そのキャンディーを口から出すと地面に降りれるよ。でも一回出すと、効果がなくなるみたいだから気をつけて」葉月が冷静に助言をしていた。
「知ってる」と奏は浮いたまま頷いた。
知ってる?
やっぱり、奏は最初からこのキャンディーの正体を知っていたということか。
「なるほど、そういうことね」
何かに納得したような奏の体は、ついに天井まで辿り着く。奏はくるりと空中で前転し、天井を蹴って由希の前まで降りてきた。「見てこれ、凄くない? Dになったみたい」と、その術を自慢してくる。
同時に埃が降ってくる。天井についていた埃が落ちてきたのだろうか。
奏の動きを、由希はどこかで見た覚えがあった。そうだ。あの漫画だ。奏が大浴場に置いていた漫画に出てくる女スパイ。彼女が空中でくるりと回って天井から降りてきたシーンを動画サイトの広告映像で見た。奏はそれを真似たのか。
「そういうことって、どういうこと?」再び宙に浮かんでいく奏に対し、由希は訊ねた。
「ずっと分かんなかったんだけど、ようやく分かったんだ」
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