第4話 庭に潜む

 午前の授業の終わりを告げるチャイムが校舎内に鳴り響く。机の上に出していた世界史の教科書とノートを机の中にしまっていた由希のもとに、一人のクラスメイトが近づいてきた。

「由希、売店行くよね?」

「うん」机の横に掛けていた鞄から財布を取り出し、教室の右前から四番目の席を立つ。

 由希は同じ二年C組の生徒である藤堂美咲とともに、教室を出て売店へ向かった。昼休みの売店はいつも混雑している。授業が終わってすぐに駆けつけないと、売店前にできた行列に並んでいるだけで昼休みが終わってしまうこともあった。

やや早歩きで階段を降りる。渡り廊下を渡る途中、窓の外に目を向けるとそこに雲一つない青空があった。清々しいほど天気の良い、五月下旬の話だ。

「さっきの授業眠かった」由希より背の高い美咲があくびをする様を、由希は少しだけ見上げる。午前最後の授業は世界史だった。寝てはいないが、いつでも眠れるというくらいには由希の意識も飛びかけていた。

「なんで歴史の授業ってあんなにも眠くなるんだろう」

「中間テストの解説だったし、余計にだよね。どうだった、テスト?」

 問われて由希は口を噤む。

 別に悪い点ではなかったのだが、由希より高得点を取っているであろう美咲に点数を開示するのは、なんだか気が引けた。

「美咲はどうだったの?」と質問に質問を返して、先に様子を伺ってみる。

「結構良かったよ」とさらりと言う。結構良い点って、何点なのだろうか。訊いたらこっちも答える必要が出てくる、そう思うと訊くに訊けない。結局中間テストの話は流れ、由希は売店前に辿り着いた。

 そこにはすでに、列ができていた。

まだそんなに長くはない、数分待てば順番が回ってくるだろう。列の最後尾に由希たちも並ぶ。すぐに後ろに生徒が並び、列はどんどん延びていく。由希と美咲の真後ろに並んでいた生徒は三年生だった。

茶色のブレザーに、茶色のスカート。白いブラウスにオレンジ色のリボン。そこまでの制服は全学年共通だったが、左胸につけている校章の色が学年により違っていた。由希たち二年は赤色で、後ろの三年生は緑色だ。

「由希は今日もお菓子を買うの?」

「そのつもりなんだけど、どうしようかと思ってるんだよね」薄ピンク色の二つ折り財布を開く。財布の表面、角のあたりには小さく、白い犬をモチーフにしたキャラクターの刺繍がされている。財布を開いた由希は、所持金を確認した。

 そう多くはない所持金のうち、何割をお菓子にあてて何割を昼食にあてようか。昨日はお菓子を買わなかったから、今日はここでお菓子を買おうか。でもそうすると昼食に割く金額が減ってしまう。

新商品が入っていたら買うか、ああでも、新しくなくても美味しいお菓子はたくさんある。一日一つはお菓子を買いたいところだけど、お菓子のことだけではなく財布の中身のことも少しは考えておかなければならない。どうしようか。

財布の中の小銭を眺めていると、隣で美咲が笑った。

「由希は本当にお菓子好きだよね。うちも甘いものは好きだけど、由希を見てるとお菓子好きを自称するにはほど遠いなと思うよ。そんなに食べて太らない? 今は大丈夫みたいだけど、運動部ってわけでもないんだしさ」

「そこは一応、気を遣って意識的に歩くようにしているから。それに、お菓子から摂取したカロリーは勉強に使っちゃうでしょ。だから気にする必要はない、大丈夫」

「そういうものかな?」

「そういうもの、そういうもの」

 並びながら美咲と雑談をしている間、青色の校章を胸につけた一年生らしき数名の生徒が「こんにちは」と美咲に挨拶をして通り過ぎていった。美咲も、彼女たちに「こんにちは」ときちんと挨拶を返している。

「音楽部の後輩?」

「うん、ちょっと前に一年生が本入部したんだよね」

「へえ」部活に属していない由希には関係のない話だったが、もうそんな時期なのかと思う。「今年は何人入ったの?」

「十人ちょっとだったかな? うちらの学年と同じくらいの人数だよ。一年と二年がペアになって教えるにはちょうど良い人数」

 また別の生徒が通り過ぎ、「美咲先輩こんにちは」と言っている。

挨拶をして過ぎ去っていく音楽部の後輩の背中を、由希は無言で見送った。学生寮にも後輩が入ってきたはずだが、まだ交流はなかった。

 由希と奏が三月ギリギリまで住んでいた、二階の五号室に入った後輩にくらいは挨拶と謝罪に行ったほうが良いとは思いつつ、なんだかんだここまで接触なく過ごしてしまった。

 確か、そうだ。

「寮の二階の五号室に入った一年生も、美咲と同じ音楽部に入ったんじゃなかったっけ?」その姿だけは見たことがあった。楽器を背負っていたから、彼女は音楽部に入ったのだろう。

「五号室? ああ、そうだね。佐藤里華(さとうりか)、彼女も音楽部だよ。もう一人の、里華のルームメイトが何部かは知らないけど。中学でも吹奏楽をやっていたらしくてさ」

 後輩の話が始まったところで、由希の視界に奏が入ってきた。美咲に挨拶をしてきた後輩たちとは反対方向、売店から離れるような方向に、廊下を歩いて進んでいた。

「あ」と思わず声が出る。

 奏とはクラスが違った。朝は一緒に登校するけれど、クラスが違うので昼食はバラバラだ。奏のクラスでの交友関係はよく知らないが、もう昼食を食べ終えたのだろうか。いや、さすがにそれは早すぎるな。いくら食べるのが早いといっても、早すぎる。

「奏だ、職員室にでも行くのかな。先生に質問とか?」

 よく見ると、奏は手にノートのようなものを持っていた。あのまま真っ直ぐ進んでいくと、突き当たりには職員室がある。

「どちらかと言えば、提出忘れの宿題を、先生のところに個別に持っていくところじゃない?」そっちのほうがあり得そうだ。

 奏の行動について美咲と予想を立てていると、ようやく順番が回ってきた。

 由希は一番近くにあった総菜パンを適当に選び取り、本題のお菓子のほうを物色する。昨日とほぼ変わらないラインナップだ。一つ言うならば、昨日まであった期間限定のホワイトチョコレートがなくなっていた。美味しかったのに、残念だが限定の期間が過ぎたのだろう。仕方ない。寮の売店にもあったシークワーサー味のキャンディーが新商品と言えば新商品だったが、これはもう買わなくて良いだろう。

 由希は少し前からグミにはまっていたが、そろそろ飽きてきたような気もする。グミよりは人工的でない甘さを感じたい。あれこれ考える由希の目に付いたのは、芋けんぴだった。

 これにしよう。「お願いします」由希はカウンターの上のお菓子コーナーに並んでいた芋けんぴの袋を手にして、総菜パンとともに店員へ差し出した。


 午後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。由希は教科書類の入った鞄を持ち上げ、右肩にかける。教科書を校舎に置き去りにするのは好きではなかったから、由希の鞄は必然的に毎日重かった。

 ずっしりとした重みが右肩にかかる。バランスを取るように、体を少し左に傾けた。

「じゃあ、またね」まだ教室に残っていたクラスメイトに声をかけ、由希は美咲とともに二年C組の教室を出た。B組とA組の教室の前を通って、階段前で別れるのがいつもの流れだ。

その後、美咲は階段を上って音楽部の活動場所である音楽室へ、由希は階段を降りて葉月が待ってくれているかもしれない下駄箱へ向かうのである。

いつも通り手を振って別れようとした時、「美咲先輩」と声が聞こえた。由希は声のした方向へ体を向ける。そこに、ピンク色の楽器ケースを持った背の低い女子生徒が立っていた。茶色いブレザーの左胸に付けている校章の色が青色だ。一年生であることは明らかだった。

彼女の顔を見て、「あ」と由希は気づく。

美咲は彼女に言葉を返した後で、彼女のことを紹介してくれた。

「由希、こっちは音楽部に入ってくれた一年の佐藤里華。昼に話してたよね」

 なぜ紹介されたのか分からないが、紹介されたのだからというように佐藤里華は頭を軽く下げる。「はじめまして」と由希もお辞儀をした。

「こっちは二年の笠倉由希。うちの友達で、里華が使ってる寮の部屋を去年まで使ってたんだ」美咲は由希のことも紹介してくれた。

「その節はご迷惑をおかけしました」由希は奏の分まで謝罪を口にする。本来ならば、三月中には彼女が入寮できたところ、由希たちの部屋移動が遅れて、そのせいで彼女の入寮も遅れてしまったのだ。

 物に溢れた奏の部屋を見たら一目瞭然だが、奏は片付けが、甘いものよりも苦手だった。そんな奏が自分から進んで荷物をまとめるわけがない。奏の自堕落さは由希も分かっていたつもりだったが、まさかギリギリまで部屋移動に取りかからないとは思ってもいなかった。

 三月下旬に春休みに入り、その頃にはすでに三階の五号室を使っていた先輩たちは四階に移動していたため、由希は先に二階から三階の部屋に移動した。自分の移動が終わったところで、部活もやっておらず寮で春休みを過ごす必要もなかった由希は実家に帰ったのだ。帰省している間に奏が部屋の移動をしているだろう。あわよくば、掃除までしていてくれたらラッキー、くらいに思っていたのだが。

 帰省を終えて由希が寮に戻ってきたのは、三月の末も末。

 なんと、まだ奏は二階の五号室にいた。

 寮の部屋は学年が移動するごとに移動する。三年生が卒業して四階の部屋が空いてから二年生が移動、二年生が移動して三階の部屋が空いてから一年生が移動、そうしてやっと新入生が寮に入ることができる。

「部屋の明け渡しが遅れた原因は、由希じゃなくて、由希のルームメイトの折田奏にあるから。奏にも謝ってもらうと良いよ」美咲は笑い話のようにそう言ったが、由希にとっては笑い事ではなかった。

 このままだと、二年の終わり、三年になる前の部屋移動でもまた迷惑をかけることになるかもしれない。

「本当にごめんね、奏もいつか連れて謝罪に行くから」由希は深々と頭を下げる。

「いえいえ、そんな。大丈夫ですよ」と佐藤里華は謙遜の言葉を添えてくれる。

 下の部屋をこれからずっと使うことになる後輩たちには申し訳ないと思っていたが、本人を前にするとさらに申し訳なさが募ってきた。

 由希は右肩に提げていた鞄を開けた。昼に買ったばかりの芋けんぴを取り出し、パッケージを眺めて、決意する。

「これ、お詫びにもならないかもしれないけど。良かったら」

 芋けんぴを差し出すが、「大丈夫ですよ」と遠慮される。

 そこで美咲が口を挟む。「どうせだから貰っておいたら?」先輩の一言に後押しされて、佐藤里華は「ありがとうございます」と遠慮がちに芋けんぴを受け取った。

「そうだ。あの話、由希にも訊いてみようか」美咲はそう言って、由希を見る。由希は美咲を見上げる。「由希って、寮の庭をよく散歩しているよね」

 よく、というほどではないが、確かに散歩することはあった。

「散歩してるよ、朝とか特に気分が良いし」

「じゃあさ、この都市伝説を知ってる?」

そうして美咲が語ったのは、音楽部にまつわる都市伝説だった。

 二十年ほど前まで、音楽部の普段の活動は音楽練習場という施設を中心に行われていたらしい。それは庭の中に、テニスコートや第二グラウンドなどと並ぶような形で存在していたという。

「今は四階の音楽室で練習してるんだけど、当時は音楽練習場を中心に活動をしていたんだって。で、そこにとある楽器が置いてあった」

 その楽器は高価で良い音が出ると評判だった。

「誰かの私物というわけではなく、卒業生が寄贈するような形で置いて言ってくれたものらしいんです」佐藤里華が美咲の話に補足する。その楽器が、ちょうど音楽練習場を使わなくなった二十年ほど前に行方不明になったのだという。

「誰かがどさくさに紛れて盗んだとかじゃないの? そんなに高価で良いものだったんならさ」由希は都市伝説に突っこみを入れる。

「いえ、その楽器はまだ校内にあるそうなんです。ただ、どこにあるかは分からない。隠されているみたいなんですよね」

 隠されている?

 隠された楽器がフルートなのかトランペットなのかホルンなのか、それとも由希の知らないような名前の楽器なのか、それすら不明なのだという。誰かが作った都市伝説だったら、そこは具体的にしても良かったんじゃないかと思うが、最初は具体的だった都市伝説も語り継がれていくうちに曖昧になっていったのだろうか。

「うちはその都市伝説を知らなかったんだ」音楽部の都市伝説を、音楽部に所属する美咲は知らなかったという。あまり広がっている都市伝説ではないらしい。由希も、その話は初めて聞いた。「ただ、里華の同級生がどこかからその話を聞きつけて、それで、今度隠された楽器を探そうって話になったらしい。校内探索も兼ねて宝探しってことだったよね?」

「そうなんです。でも、楽器が隠されている場所に当てがなくて。美咲先輩なら知っているかなと思って話をしたんですけど」

「美咲は知らなかった、と」

芋けんぴを抱えた佐藤里華は頷く。

「うちは音楽練習場の存在さえ知らなかったんだ。由希なら知ってるかなって思ったんだけど、どう? 話を聞いてる感じを見るに、都市伝説は知らなかった感じかな」

「そんな都市伝説はわたしも聞いたことないけど、音楽練習場か」これまで庭を散歩してきた記憶を、由希は思い返す。「それって今もあるの?」

「使われていないってだけで、今も残っているのかどうかは不明。もしかしたら庭の木々を越えた奥の奥とかにあるかも」

 音楽練習場があったとしたらどこかで見ているだろうか。記憶を辿るが、それらしいものを見た覚えはなかった。なんだこれ? と思うようなものに庭で遭遇したこともない。

「ごめん、わたしも知らないや」

「そうですか」佐藤里華は少し残念そうにしている。

「やっぱり由希も知らないか」と、美咲は目線を斜め上にやった。


 芋けんぴを抜いた後の重みを右肩に感じながら階段を降りると、校舎一階の下駄箱前で葉月が待ってくれていた。「遅かったじゃん」と小突かれる。

「ごめん、ちょっと美咲たちと話してて。葉月はもう先に帰ってるかと思ったよ」登校は奏と、昼食は美咲と、下校は葉月と、由希は行動を共にしていた。下校とは言っても校舎から寮までの十分くらいを歩くだけだ。先に帰っていても何もおかしくはなかったし、葉月のことだから「待つ」なんて無駄なことはしないと思っていたが、意外だった。

「いつも由希が待ってくれるからさ。まあ、あと数分待っても来なかったら先に帰ろうと思ってたけど」

「ありがとう」由希は笑いながら礼を言い、靴を履き替え、葉月とともに校舎を出た。

正門までの道のりを歩き、そこからさらに学生寮までの道を歩く。

「葉月のクラスは、テスト全部返ってきた?」

「中間テスト?」

「そう」

「ああ、あと二つくらい返ってきてないのがある気がする。古典と、化学? 何だっけ?」

「わたしに訊かれても困るけど」

校舎よりも寮のほうが高い位置に建てられているため、帰り道は上り坂になる。朝から坂を上るのもそれはそれでつらいだろうが、一日が終わった帰りに坂を上るのもなかなかつらいものだ。

 校舎も寮も、そのどちらもが平地に建っていたら良かったのに。そうは思うが、そうしたらこんなに広い土地を学校建設に割くことはできず、庭も寮すらもなかったかもしれない。

「そうだ、葉月は一年生と交流あったりするの?」美咲の後輩のことを思い出して、葉月に訊ねてみた。

「ない。同じ中学だった人が何人か寮にいるらしいけど、らしいってだけで誰がその人なのかも知らないな」

「そんなもんだよね」同じ部活に属し、授業外の時間をともに過ごしているならいざ知らず、廊下ですれ違うくらいしか他学年との交流がない由希にとっては、後輩はいてもいなくても同じものだった。

「後輩がどうかしたの?」

「いやさっき、二階の五号室に入った一年生と会ってさ」由希は葉月に音楽部の都市伝説の話をした。葉月は終始「まだそんなの信じてる人いるんだ」と、都市伝説に懐疑的だった。

 葉月とともに寮に帰った由希は、一度、三階の五号室に行って荷物を置いてから、一人で庭をぐるりと一周してみることにした。都市伝説が気になったというよりも、ただ散歩がしたい気分だったからだ。いや、気になっていないと言ったら嘘になるかもしれない。

寮の正面玄関を出て左へ曲がり、右を見ても左を見ても木しかない舗装された道を時計回りに進んでいく。由希は時折立ち止まり、両腕を大きく上げて背伸びをした。息を吸い込むと土の匂いがする。上空の、木々の間に見える開けた空はまだ青かった。

自然に触れた新鮮な空気が体を満たす。やっぱり散歩は心地良い。

再び歩き出した由希の前方から体操服を着た女子生徒が走ってきて、由希の後方へ走り去って行った。部活中に体操服を着ているということは、まだ専用のジャージを持っていない新入生だろうか。

 由希の予想通り、その後も体操服を着た数名の女子生徒が走ってきた。

 その後に春子が走ってくる。春子は体操服ではなく、陸上部の名前が背中に入ったジャージを身に着けていた。その服装の差を見て、由希は自分が所属していた部活動のことを思い出す。

 陸上部のように揃いのジャージなどなかったにも関わらず、なぜか一年生は体操服で部活動に参加しなければいけないという決まりがあった。上級生は各々好きなスポーツブランドの、好きな色のジャージを着ていたのに、だ。あれは意味が分からなかった。ただ格差を作りたかったとしか思えない。それ以外に、服装を分ける理由がないだろう。

 思い出すと無限に不満が出てきそうだったため、由希は考えることを止めた。もう関係のない話だ。不満の代わりに、「春ちゃん、頑張って」と手を振り春子に声援を送る。

春子は足を止めることなく、ただ手を振り返してくれ、そのまま走り去って行った。後ろで一つに結んだ髪が、春子を追いかけるように宙に漂う。それまで走って来た新入生たちの顔はそれなりに険しかったのだが、春子の表情はいつも通り穏やかだった。軽やかに走る春子を見て、由希は純粋に凄いなと思う。

走ると疲れる由希の身からすると陸上の楽しさはよく分からなかったが、確かに、春子のように速く走れたら楽しいのかもしれない。

 その後も何人かの陸上部員が走ってきた。由希は彼女たちを見送りながら、彼女たちとは異なるスピードで反対方向に進んでいく。

 庭を半周したが、そのどこにも音楽練習場なるものはなかった。あるのは自然ばかりだ。

もしかして、この自然を掻き分けた奥にあったり? 由希は木々の間に目を凝らす。音楽練習場があった時代には存在していた道が、もう完全に消滅していたとしたら、建物そのものが残っていたとしてもそこに辿り着くことはできそうにない。

 となると、隠された楽器を探すのも骨が折れそうだ。

 まあそんなものが本当にあったらの話だが。

その時、ガサガサと強く葉が揺れる音が由希の耳に届いた。咄嗟に身構え、音のした方向を注視する。その音は、道の脇の茂みの奥から聞こえてきていた。風なんて吹いていないのに、まるで木々が強風に煽られたような音だった。

 何の音?

 誰かいるのか、それとも何かあるのか。

 熊か? 熊が冬眠から目覚めたとか、でももう五月だ。野生動物がいてもおかしくはない環境だったけれど、由希がこれまでに熊を見たことは一度もなかった。

あり得ないとは分かりつつ、ありもしない展開を予想しながら、由希は散歩を中断して寮へと小走りで向かう。途中で走り込み中の陸上部員とすれ違った。彼女たちはこんなところを走っていて大丈夫なんだろうか。

 いや、他人の心配よりも今は自分の心配だ。


 散歩を中断して全力疾走に変更し、慌てて寮に戻ってきた由希は三階の五号室のドアを開ける。部屋に奏はいなかった。まだ部活中だろう。相変わらず奏のスペースは物で溢れている。

 あの茂みの中にいたのが何であれ、ここまで追ってくることはないはずだ。安全な場所に辿り着いたことにほっとした由希は、しばらく休憩した後で早めのシャワーを浴びた。蛇口を捻ると、シャワー口からお湯が出てくる。

 くつろげるような広さのある共用の大浴場と、狭いが自分の自由に使える個室のシャワールーム。どちらかと言えば後者のほうが由希は好きだったから、この環境はありがたい。

 シャワールームから出た由希は、洗面台の前でタオルを手にとって頭から順に水気を拭き取っていく。制服から寝間着用のジャージに着替え、髪から垂れる水滴を受け止めるために肩にタオルをかけた。

 奏と共有で使っているドライヤーを手に取って、洗面台の脇にコンセントをさした。ドライヤーの電源を入れると、風が耳元で騒ぎ出す。温かい風だ。その音にかき消されて周囲の音は聞こえない。

奏が五号室に帰ってきたのは、由希の髪が乾ききってからさらに時間が経過した後のことだった。部活はもうとっくに終わっているはずの時間である。

外が暗くなってきたので、由希は開けていた部屋のカーテンを閉めた。窓の向こうには綺麗な夕焼け空があった。朝からあった青空が、太陽を中心とした赤い空に燃え尽くされようとしていた。カーテンを締め終わったところでドアがノックされたため、由希は窓から目を離す。

振り返るとそこに奏が立っていた。

髪と制服が全て濡れている。シャワーを浴び終え、タオルで体を拭く前の由希と同じくらい水浸しだ。制服まで濡れているとは何事か。

「由希、タオルある?」

 長い黒髪の先から、床に雫がぽつりと垂れた。スカートの裾からも水が垂れる。落ちた雫は、奏が床に置きっぱなしにしていた春休みの課題一覧表に落下した。隣に落ちていた中間テストの国語の解答用紙も濡れていく。紙に印刷された文字と手書きの六十七点の文字が少しずつ滲んでいった。

「ちょっと待ってて」

 由希は急いでタオルを探した。ベッドの上、星柄の布団の上に、洗濯したばかりの奏のバスタオルが畳まれないまま置いてあった。水玉模様のそれを拾い上げ、差し出す。

バスタオルを受け取った奏は、濡れている部分を拭いていく。濡れている部分といってもどこもかしこも濡れている。

「なんでそんなにびしょ濡れなの?」

「いやあ、私もびっくりしたよ。こんなことになるとは思わなかったからさ」

お恥ずかしい限りですよ、と笑う奏は鞄を持っていなかった。濡れたのがその身一つだけだったというところがせめてもの幸いか。

「あ」奏が大きな声を出した。

「どうした?」慌てて由希は駆け寄る。

 奏が見せてきたのは生徒手帳だった。制服のブレザーの、胸ポケットに入れていた紙製の生徒手帳が完全に濡れていた。紙がふやけているのが分かる。これは、乾かしたとしても元通り真っ直ぐの紙にはならないだろう。

「これ見てよ」奏は生徒手帳の中から、食券を取り出した。寮の食堂で使う食券だ。生徒手帳と同じく紙でできていた券もまた、水を含んでいた。強く引っ張ったら、破れるどこから千切れそうだ。「職員室に行ったら、交換してもらえるかな? これ」

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