第2話 瓶入りキャンディー

 部屋移動が完了したのは翌日の昼すぎのことだった。午前中に三階の五号室を掃除し、食堂で昼食を食べ、部活に行く奏を見送ったあとで由希は職員室に向かった。

 校舎の職員室にいるのは先生だが、学生寮の職員室にいるのは厳密に言えば先生ではない。

 半透明のガラスがはめ込まれたドアを押し開け、「失礼します」と声をかける。室内にいたのは、事務員が一人だった。去年の三月までいたベテランの事務員に代わって入った人だ。

 校舎の職員室は少し緊張するけれど、寮の職員室にそのような緊張感はない。むしろ穏やかな雰囲気さえ漂っている。デスクに向かってパソコン作業をしていた事務員は、「はいはい」と席を立って由希のもとまでやって来てくれた。

「部屋の移動と掃除が終わったので報告に来ました」

「何号室?」

「三階の五号室です」

 五号室、五号室と呟きながら、事務員がデスクの上の書類を手に取る。何かを記入しながら「部屋で困ったことはなかった?」と訊ねられた。去年も訊かれた質問だ。シャワーが壊れていたり、電気が点かなかったり、そういうこともなかったため由希は首を横に振る。

「いえ、大丈夫です」

 大丈夫、と。事務員は由希の発言を書類に書き込んでいく。「それじゃあ今日からは四階の五号室を使ってね。下の部屋には、次の生徒さんに入ってもらうから」

「分かりました」

 簡単なやり取りだけで報告は終了し、由希は職員室を出た。

 このまま自室に戻っても良かったのだが、由希の足は自然ととある方向へ進んでいく。寮の一階、食堂手前には小さな売店があった。面積はコンビニエンスストアの三分の一ほどで、基本的に朝から夜まで営業している。商品ラインナップは校舎にある売店とほぼ同じで、食堂の営業時間が終了していた時や、小腹が空いた時には、ここでパンやおにぎりを買うこともあった。

だが、由希の目当てはそれらではない。

「いらっしゃい」売店に足を踏み入れると、カーキ色のエプロンをつけた店員が声をかけてくれる。エプロンの色や柄に指定はないらしく、日によって人によって様々だ。

 由希は一目散にお菓子コーナーへ向かった。

 棚に並ぶ商品を目にするだけで、胸の内が熱くなる。わくわくとした気持ちが湧き上がってくる。お菓子好きの由希にとって、ここは楽園だ。棚に並ぶ品数は多くはないが、ここでお菓子を買うのが由希にとっての毎日の楽しみだった。一日一回以上は、並ぶ商品を確認しに来ている。

今日は新商品の入荷はないらしい、昨日の夜に見た時と同じラインナップだ。

「由希ちゃん、また仕入れてほしい商品があったら言ってね」店員が、由希に向かって微笑む。

「ありがとうございます」と由希も照れ笑いを返す。

毎日来ていたから覚えられたのだろうか。いつの間にか、棚に並ぶお菓子の種類に由希の好みを反映してくれるほどに、親交が深まっていた。それくらいに、由希はお菓子が好きだった。

お菓子の中でも取り立てて甘いものが好きだ。甘いものは人を幸せな気分にしてくれる。

 ルームメイトの奏は甘いものが苦手らしいが、その気持ちが由希にはよく分からなかった。お菓子はあんなにも美味しいのに。甘いものが苦手な人がいるということ自体が、由希には不思議でならない。

苦手になる要素なんてどこにもないのに。

よし、決めた。今日はこれにしよう。

 由希は上から三段目に置かれていたチョコレート菓子に手を伸ばす。ホワイトチョコレートの中にフリーズドライの苺が包まれている商品だ。一袋に入っている個数は少ないが、その分一つが大きく、甘く、とても美味しい。その隣に置かれていた大容量かつ個包装のミルクチョコレートも候補に挙がったが、そっちはまた今度にしよう。

「これお願いします」由希はレジにて、店員に商品を差し出す。お会計をしてもらい、小銭を払って自分のものとなったチョコレートを受け取った。とても良い気分だ。


 四階の五号室に戻った由希は、買ったばかりのお菓子を、部屋の右壁に沿って置かれている机の一番下の引き出しに入れておく。そのまま机を離れ、荷ほどきに取りかかった。

 奏と協力して運んで来た段ボール箱を、まず由希のものと奏のものとに分ける。自分のものは部屋の右側に、奏のものは部屋の左側に置いていく。

 右と左を入れ替えたが、先に布団を置いてあったため間違えることはなかった。花柄の布団があるほうが由希のスペース、星柄の布団があるほうが奏のスペースだ。

 箱を分けると次は、一つずつ段ボール箱を開けて中身を取り出していく。

 衣類はベッド下の収納へ、教科書類は机へと、決まった位置にそれぞれの物を置いていく。途中、出てきた冬用のタイツとセーターは実家に持って帰ることにして、一旦ベッドの上に置いておいた。

 箱に入っていたものは、もともと置き場が決まっていたものばかりである。三階の五号室と同じように物を配置するだけなので、そう大変な作業ではなかった。由希が作業を終え、空になった段ボール箱を畳んでドア横に立てかけた時点で、時刻はまだ午後二時過ぎだった。

 荷ほどきを終えた由希は、春休みの宿題に取りかかる。

 ついさっき机の上に並べたばかりの教科書類から、春休みの宿題一覧表と数学の問題集とノートを取り出して広げる。宿題の範囲を確認してから、問題集を開き、途中のページから宿題を進めていった。

 勉強のお供にはお菓子が必須である。

 由希は机の一番下の引き出しから、食べかけだったぶどうグミを出して宿題の横に置いていた。一問解いて、グミを摘まみ、また一問解いて、グミを摘まむ。余白に斜め書きで筆算をする。どうしても計算が合わない、どこが間違っているのだろうか。少し考えても答えが出なかったため、由希はシャープペンシルを置いて赤ボールペンに持ち替えた。合っている問題には丸をつけ、間違っている問題は何が間違っていたのかを模範解答を見ながら確認していく。分からない問題はさっと飛ばして答えを確認し、解き方を確認することに時間をかけたほうが身につくような気がしていた。

春休みが終わったら高校三年生だ。三年生といえば、受験生だ。

 大きな不安はないが、やっぱり焦るものは焦る。というか学校総出で生徒のことを焦らせてくる。休みに入る前にも、「二年生から三年生になるこの春休みは、受験生としてのゼロヶ月目だ」、なんて学年主任の先生が言っていた。確かに大事な時期ではあるが、春休みくらい休ませてほしいものだとも思う。

 丸付けを終えて、由希は再び問題に向き合った。課題範囲の三分の二は終わっていた。残っている量より、こなした量が多くなると、終わりが見えて俄然やる気が出てくる。

 机の上に置いていたぶどうグミをまた一粒摘まみ、口に放り込む。

「ん?」

 由希はグミの袋を持ち上げ、中を覗き込んだ。どうやら最後の一つだったようだ。袋の中にもうグミはない。

 それじゃあ次は何を食べようか。

 ガサガサとお菓子の入った引き出しを漁っていると、棒付きキャンディーの入った瓶が由希の目に入った。昨日、奏から貰ったものだ。

 これにしようかな。

 引き出しから瓶を取り出した由希は、ぶどうグミの袋をゴミ箱に捨てる。

あれから調べてみたが、キャンディーには消費期限というものがないらしい。砂糖の塊である飴は、腐ることがあまりないのだという。瓶の底に記された二十・五という数字がいつの日付を示しているかは依然として不明だったが、少なくとも食べられないということはなさそうだ。

 キャンディーの色も悪くないし、割れていたり溶けていたりもしていない。

由希は左手で瓶の側面を持ち、右手で蓋を持って内側に捻る。

少々固かったが、ぐっと力を込めたら蓋は開いた。蓋を置いて、棒を摘まんでキャンディーを一本抜き取ってみる。

 ピンクというと何味だろう。苺か、さくらんぼか? 半透明のピンク色が電気の光を受けてキラリと光る。由希は右手に持ったそれを、口元に持ってくる。

そして、キャンディーを口に入れた。

なぜだろう。何度か舌で舐めてみたが、あまり味がしなかった。消費期限がないとはいえ、劣化するものは劣化するのだろうか。見た目では気づかなかったが、このキャンディーは傷んでいたのかもしれない。

もう一舐めして、キャンディーを口から出そうとしたその時、由希の体がふわりと浮いた。

椅子に座っていたはずなのに、体は座面に接していない。突然の出来事に、口元に力が入り、肩が上がり、目が開く。全身に力が入っていた。咄嗟に左右を見る、自身の体を見る。

 浮いている?

「え」

ようやく出せたその声と同時に、口からキャンディーがこぼれ落ちる。棒を手で持っていたからキャンディーが落下することはなかった。

 浮いていた体は、ゆっくりと、ふかふかのソファにでも座るかのように沈んでいった。

座面に着地した後、由希は動けずにいた。思考も体も数秒停止する。手にはキャンディーを持ったままだ。

 自分の身に起こった出来事を客観視できて、ようやく、由希は慌てて椅子から立ち上がる。まず座っていた椅子を見た。なんてことない勉強机の椅子だ。座面を手で押してみる。ふかふかではなく、むしろ木製のため固い。

 次に、由希の目線は手にしていた棒付きキャンディーに向く。

 これは、どういうこと? 

これ? これか? このキャンディーが、もしかして。

 由希はもう一度キャンディーを口に入れようとする。だが体がそれを拒否する。やめておいたほうが良いか、一度口元に近づけた手を離す。いやでも、と再び口元に近づける。

 恐る恐る、もう一度キャンディーを舐めてみた。

また体が浮くのか、そう思っていたがそうではなかった。

由希の両足は床についている。どういうこと?

 頭の中は疑問で一杯だった。夢でも見ているのか、そう思った。でも違う。これは夢じゃない、現実だ。じゃあ何か、浮いたというのが間違いか、勘違いか。いや、でも、浮いたよな。あれは間違い無く、浮いていた。

 由希の体は宙に浮いたのだ。

 急に、部屋の静けさが気になった。由希は振り返って誰もいないはずの室内を警戒する。誰かいる? 誰かがわたしの体を持ち上げたのか。だが、部屋の中には誰もいない。四階の五号室にいるのは由希だけだ。そのはずだ。

心臓はドクドクと大きな音を立てている。

 由希はキャンディーを右手に持ったまま、部屋を飛び出した。


 隣の六号室の部屋のドアを勢い良くノックし、反応がある前にドアを開けた。由希の目の前に白いカーテンが現れる。

「葉月、いる?」と目隠しのカーテン越しに呼びかけた。

 すると布の向こう側で人が動く音がする。

本来仕切りのない学生寮の二人部屋に、六号室で生活する桐谷葉月と川上春子は自力で仕切りを作っていた。使わなくなったホワイトボートと使わなくなったカーテンを借りてきて、ホワイトボートの上からカーテンをかけて目隠しにしているのだ。二人部屋はまるで一人部屋のように仕切られている。ドアを開けた時に部屋の中が見えないようにも工夫がなされている。

「何?」カーテンの隙間から葉月がこちらを見ていた。

「あのさ、これ、これなんだけど」由希は手にするキャンディーを掲げる。葉月の目がキャンディーに向くところを確認したあと、説明を加える。「これを口にしたら、体が浮いたの。でも浮かなかったの。どういうことだと思う?」

「どういうことって、こっちが聞きたいんだけど」葉月の眉間には皺が寄っていた。

 由希は深呼吸をして、もう一度説明をする。

「このキャンディー、これ。あるでしょ」

「うん」

「これを舐めたの。さっき、宿題をしながら甘いものが食べたいなって。そしたら体が浮いたの」

「浮いた?」

「そう、浮いた。こう、ふわって」由希はその時の浮遊感を体で表現してみるが、葉月に伝わっているかどうかは分からない。「その後もう一回舐めたら、今度は体が浮かなかったの。これ、どういうことだと思う? わたしは本当に浮いたのかな、浮いてないのかな。何だったのかな、意味分かんないよね、わたしも言ってて意味分かんないと思う。でも、全て事実なんだ」

 由希の熱に負けたのか、それとも面倒事は早く終わらせたいと判断したのか、怪訝そうな顔をした葉月が六号室から出てきた。今日も半袖Tシャツにジャージの半ズボンという格好だ。そのまま、四階の六号室前の廊下で話を続ける。「それ、ここで舐めてみてよ」葉月はキャンディーを指差していた。

「え、今?」

「今」

 由希はキャンディーを見つめ、葉月の様子を伺う。「早く」と声に出して急かすことはないが、葉月は由希がキャンディーを口にするのを黙ったまま待っていた。

 決心して、由希はキャンディーを口に運ぶ。

 やっぱり甘くない、でも不味いというわけでもない。

「由希、自分の今の状況を見てみて」葉月の言葉通りに、由希は下を向いて自分の体を確認する。「どう見たって、由希の体は浮いていない。私と同じように廊下に立っているでしょ?」

由希の体は浮いてはいなかった。キャンディーを舐めたのに、浮いていなかった。

「だから由希は浮いてなんていない、はいこれでおしまい。普通に考えてさ、人が宙に浮くなんてことはあり得ないって」

「いや、でも。さっきは浮いたんだって」

 葉月が首を傾げる。「それを今検証したじゃん。浮いたのは一回で、浮かなかったのは二回。多数決を採るならば由希は浮いていないってことになる」

「なんでそこで多数決なの?」

「由希が訳分かんないこと言ってるから、こっちも訳分かんない理論で対抗しようと思って」

 どうやったって葉月は信じてくれそうにない。でも、それもそうかと思う自分もいる。由希自身も、自分で自分が信じられなくなってきている。そうか、浮いてなんていなかったのかと、葉月の発言を受け入れてしまいそうだ。

由希は頭を小さく左右に振る。

 キャンディーはまだ残っている。それを葉月にも試してもらったらどうだろうか。それで葉月の体が浮かなかったら、これはもう浮かなかったということにしよう。由希自身が体験したことは、全部、幻か何かだったということにしよう。

「葉月、ちょっとわたしの部屋に来てくれない?」

「え、なんで」

「このキャンディーがまだ残ってるの。だからそれを葉月にも舐めてみてほしい。それで何も起きなかったら、もう諦めるからさ」

 由希は半ば強引に、葉月を五号室に招き入れた。

 机の上には開いたままの数学の問題集とノートとペンと、蓋が開いたままのキャンディーの瓶がある。由希は瓶を手にとって、葉月に差し出した。

「一本あげる」

 葉月は仕方なくといった様子で、手を伸ばす。甘くなかったキャンディーのことを由希が思い返している間に、葉月は迷いなくそれを口に運んだ。

 その後の動きが、やけにゆっくり見えた。

 葉月がキャンディーを口に入れる。少しして、体がふわりと浮く。由希と同じくらいだった葉月の目線が徐々に上がっていく。由希は葉月の半ズボンから伸びる足元を見る。

 明らかに、浮いていた。

 床と足の間に隙間がある、隙間というには大きな隙間だ。目の錯覚だろうか、いや、そんなことはない。

 葉月が口からキャンディーを出す。するとその体はゆっくりと、重力を感じはじめたかのように下がっていった。床に足が着いた葉月は、眉間に皺を寄せていた。由希の話を聞いていた数分前より、より一層難しい顔をしている。

「今、浮いたよね?」

 葉月の問いに、由希は何度も頷いた。「言った通りでしょ、このキャンディーを舐めると浮くって」

 客観的に見て思った。この現象は「跳ぶ」よりも「飛ぶ」よりも「浮く」という言葉が適当だった。空中で体の制御はできない。できるかもしれないが、初見ではできない。ただヘリウムガスが入った風船のように、ふわりと浮かび上がるのだ。

 ヘリウムガス?「人間って、ヘリウムガスを吸ったら浮くんだっけ?」

「いや、声が変わるくらいじゃない?」

「じゃあ、わたしたちって人間じゃなくて風船?」

 由希の質問には答えず、葉月はもう一度キャンディーを口にした。難しい数学の問題を再び解き直すかのようだ。だが、葉月の体は浮かなかった。

「一回キャンディーを口から出すと、もう浮かないってことかな。てか、何これ。こんなものどこで買ったの?」葉月はキャンディーを咥えたままだ。口から棒がはみ出ている。

「買ってない。貰ったんだ」

「貰ったって誰から?」

「奏から」

由希ははっとした。これが、今、由希が手に持ち、葉月が口に入れているこのキャンディーが、ただのキャンディーではないことを奏は知っていたのだろうか。

 奏は甘いものが苦手だった。だから自分のためにキャンディーを買うなんてことはしないだろう。奏はなぜ、これを買ったのか。そもそもこれはどこかで売っているようなものなのだろうか。

「奏って、あの奏だよね? 由希の同室の」

「そう、その奏」

「なんで奏がこんなものを持っていたわけ?」

 由希は奏のベッドに目を向けて、次に机に目を向ける。星柄の布団だけが置かれたベッドに、まだ荷ほどきがされておらず物のない机がある。そこに奏本人はいない。このキャンディーについて訊ねようにも、いないから訊ねることはできない。

「それは、わたしにも分からない」

 丸二年同じ部屋に住んでいても、分からないことはある。

「いつ貰ったの?」

「昨日。部屋の片付けをしていた時に、このキャンディーがわたしの机の上に置いてあるのを見つけて、奏に訊いたら欲しかったらあげるよって」由希はその時の状況を説明した。

 話を聞き終えたところで、葉月は一瞬黙った。そして口を開く。「それ、本当に奏のものだったのかな?」

「え?」

「こんな訳分からないものを持っていたとして、それを簡単に人にあげようと思うかな? たまたま由希が部屋の片付け中に見つけて、同じ部屋で奏が片付けをしていたから奏のものと思ったんだろうけど、本当は奏のものじゃなかったんじゃない?」

自分のものでもないし、由希は甘いものがすきだからあげよう、って。葉月は当時の奏の心境を予想する。

「だったら、このキャンディーは誰のもの?」

「さあ。部屋移動をしているとき、五号室には誰でも入れる状況にあったんでしょ? 誰かが置いて、去って行ったのかもしれない」

誰が、何のためにそんなことをするというのか。

そもそもこのキャンディーは何なのだろう。分からないことが多すぎて、なんだか怖くなってくる。軽率に口に入れてしまったが、舐めないほうが良かったのかもしれない。

 体に変化はないか。

 由希は自身の体調を確認する。手は動く、呼吸もできる、瞬きもできるし脚も動く。胸に手を当ててみる。心臓も動いている。脳も多分、動いている。目立った不調はない。同じようにキャンディーを口にした、というか今も舐めている葉月も元気そうにしている。

「このキャンディーがあったのって、三階の五号室だよね?」

「え、あ。うん、そう」葉月の言葉がうまく頭に入らない。耳には入っているはずなのに、理解するのに時間がかかる。これは、脳が正常に動いていないということなのか。そんなことはない、ただ気が動転しているだけだ。

「その時、部屋の前で誰かと会ったりしなかった? 何かこそこそやっている人とか」

 部屋の前でこそこそ何かをしている人などいただろうか。いや、いなかった。少なくとも由希は見ていない。

「わたしは見てない。葉月はずっと四階にいたんだもんね」

「何、私を疑ってるの?」

「違う、違う。そういうことじゃなくて、三階の五号室の前でこそこそやってる人とか見てないよねって訊きたくて」

「それなら見てないよ、てか、ずっと四階の六号室に籠もって二度寝をしていたから、四階の五号室に人が出入りしていたのかさえ知らない。まあでも、そんな人がいたとは考えにくいか。じゃあ、キャンディーを由希の机に置いたのはやっぱり奏で、奏は最初から由希にこれをあげるつもりだったか」

 最初から、か。

そういえば、そうだ。

奏が作業の途中で姿を消していた。あれはちょうど由希がキャンディーを見つけたのと同タイミングだった気がする。キャンディーが置かれたのが先か、奏が部屋から消えたのが先か。どっちが先でどっちが後なのかは定かではないが、奏は部屋の片付けに対するやる気を失ってどこかに行ったのではなく、何かあって部屋を出ていたのか。

 あれは、そういうことだったのか?

「由希ちゃん、葉月」

 考え事をしていた由希は、ドアが開いていたことに気づかなかった。葉月を部屋に招き入れた後、ドアを閉めたかもよく覚えていない。ずっと開けっ放しで会話をしていたのかもしれない。

名前を呼ばれて由希が顔を向けると、そこに春子が立っていた。葉月のルームメイトの、川上春子だ。髪を後ろで一つに括り、凛と姿勢良く立っている。春子が身に着けているTシャツの胸元には「陸上部」の文字が小さくプリントされていた。

 春子は「それ」、とキャンディーを指した。

「由希ちゃんと葉月の話が聞こえちゃったんだけど。それ、もしかしたら都市伝説が関係しているかもしれない」

由希が六号室前で葉月と話していたころ、自作の仕切りカーテンの向こう側に春子もいたのだという。

「都市伝説?」葉月が顔を歪めた。また胡散臭い話が出てきた、という顔だ。

「陸上部の先輩から聞いたことがあるんだ。二人が持っているそのキャンディー、それを食べたら体が浮いたんだよね?」春子が確認するように訊いてくる。

キャンディーを手にしたままの由希は頷いた。

「聞いた都市伝説は、その『浮く』ってところにまつわる話なんだけど」

 昔、具体的にいつの出来事だったのかは分からないが、××女子高等学校の陸上部に所属していた生徒がいた。女子校なので、もちろんその生徒は女子である。

学生寮は校舎から徒歩十分ほど離れた位置にあり、校舎よりも高い位置、山を切り開いた上に建てられていたため、周りに自然があった。森と言ったら良いのか、林と言ったら良いのか。木ばかりの山の中を一周するように舗装された道があり、その道沿いにテニスコートやハンドボールコート、第二、第三グラウンド、プール、弓道場や武道場などの設備が配置されていた。そこを生徒は「庭」と呼んでいた。

運動部ならばよく訪れる場所だ。実際、第二グラウンドは陸上部の練習場所となっている。当時も今も、それは同じである。由希が庭を散歩していると走り込み中の陸上部とすれ違うことが多々あった。庭には、××女子高等学校の学生であれば、寮生でなくとも足を踏み入れることができる。

「ちょうどその日は部活がなくて、その生徒は第二グラウンドで自主練習をしていたみたい」

 彼女は一人でグラウンドを走っていた。走っていたのは一人だったが、グラウンドの外から彼女の姿を見ていた別の生徒がいた。見ていたその生徒も陸上部に所属していたという。

部活が休みの日に第二グラウンドを訪れたら、チームメイトが自主練習をしていた。

ここまでは、あってもおかしくない状況だろう。走る女子生徒を、もう一人の生徒は眺める。その時、女子生徒の体が浮いたのだという。

「浮いたって、どっちの生徒が?」

話に登場した女子生徒は二人だ。どちらがどちらか分からなくなった由希は、春子に訊ねた。

「走っていたほうだよ。グラウンドを走っていた女子生徒の体が浮いたんだ。浮いたその様子を、そこにいた別の女子生徒が見ていたんだって」

 彼女の体はふわりと宙に浮いた。そしてそのまま、飛ぶように、軽やかに、彼女は走り続けた。地に足が着いていない状態での走行を「走る」と表現するべきかは微妙だったが、ともかく彼女は飛ぶようにして第二グラウンドを走っていたという。

 そんな彼女の様子を目撃してしまった生徒は、自身の目を疑った。見間違いかと思ったという。それもそうだろう、そんなところを目撃したら、まず疑うのは自分の目だ。

「でもね、その女子生徒が浮いているところを目撃したのは、その人だけじゃなかったんだって」

また別の日、別の生徒も彼女が浮いているところを目撃した。それは決まって自主練習の日で、他にそこを走っている人はいない時で。

 その姿が目撃されるたびに、彼女のタイムはどんどん上がっていった。速く走れるようになっていったのだ。最終的に、彼女は全国大会まで進出した、なんて逸話もあるという。

「その女子生徒が今も陸上をやっているのかは分からないけど、というか、本当にそんな生徒が存在していたのかも分からないけど、でも、彼女のタイムが上がったのは、その『浮く』が関係しているんじゃないかって。さらに言えば、その『浮く』はこの学校の第二グラウンドと関係があるんじゃないかって」

そこから、××女子高等学校の第二グラウンドで自主練習をすると飛ぶように速く走れるようになる、という都市伝説が陸上部にできたらしい。

 本当にそのような力がグラウンドにあるのだろうか。いや、きっとないのだろうが、実際、今も陸上部には足の速い生徒が多く在籍している。春子もその穏やかで文化系っぽい外見とは異なり、足が速かった。一年時の体育祭で、春子がリレーに出ているところを見て、驚愕した覚えが由希にはある。

 陸上部の言う「速い」の基準がどれくらいなのかを由希は知らなかったが、あれは間違いなく速かった。

話を聞き終えたところで、葉月は「へえ」と感心するような声を出した。都市伝説に納得している様子だ、珍しい。「その生徒の足が速くなったのは、単に真剣に自主練に取り組んだ努力の結果だと思うけど、でも、浮いているところを目撃したっていう話が都市伝説として残っているのは興味深い」

「ただ、陸上部の先輩から聞いた話だと、その生徒は飛ぶように走っていたってことだったから、そこがちょっと二人とは違うよね」補足のようにそう口にした春子は、葉月が浮かぶ姿を見ていたのだろうか。あれは確かに「飛ぶ」ではなかった。

「春ちゃんも、食べる?」由希はキャンディーの入った瓶を春子にも差し出してみた。だが、春子はそれを「遠慮する」と断った。

都市伝説は根拠がないからこそ都市伝説なのだろう。つまり、全てがただの作り話。それらの都市伝説を面白がっている生徒はそれなりにいるかもしれないが、本当に信じている生徒は学校内にも少ないだろう。

 かく言う由希も、都市伝説を信じてはいなかった。

でも、そこに真実が混ざっていたとしたら。都市伝説内に登場する女子生徒も、このキャンディーを口にして体が浮いたのだろうか。それとも都市伝説の「浮く」と、由希が体験した「浮く」とは関連性のない別物なのだろうか。

由希は手にしていたキャンディーを再び眺める。葉月はキャンディーを食べ終わったようで、残った棒を、ぶどうグミの袋が捨てられているゴミ箱に入れていた。

再び口にするのは気が引けるし、このまま捨てるのも気味が悪いし。どうしたら良いか分からず、由希はキャンディーを持ったまま四階の五号室を出る。


学生寮の正面玄関を出ると左右に延びる道があり、右へ行くと校舎、左へ行くと庭へと続く。由希はパーカーを一枚羽織った葉月とともに、陸上部の練習場所である第二グラウンドを目指して左へ進んだ。庭をぐるりと一周する舗装された道は、木々に囲まれている。上空の開けた青空を一羽の鳥が横切っていく。

由希の手には食べかけのキャンディーが握られたままだった。一応、念のため、何かあるといけないので、残り三本のキャンディーが入ったガラス瓶も持ってきた。「このキャンディー、美味しかった?」

「いや、別に」

「だよね。これ、どうしよう」手に持つ棒の先には桜色のキャンディーが輝いている。

「食べちゃえば良いんじゃない?」葉月はあっけらかんとしていた。

「え、大丈夫かな。体に異常とか出たりしない?」

「少なくとも私の身にはなんともないけど」葉月は両手首を回す。そして急に足を止めて、両足首も回した。「由希、見てて」

 舗装された庭の一本道を、「よーいどん」の掛け声もなく葉月は走り出す。

 いきなりのことで唖然としながらも、由希は遠ざかっていく葉月の背中を見続ける。春子から聞いた都市伝説とは違い、葉月の体は浮いてはいなかった。走る速度も、別に遅くはないけれど特別速いとも言えないくらいだ。

 少し先まで走ったところで葉月は止まり、振り返って由希のもとに戻ってくる。

「どうだった?」

 訊ねられるが、首を横に振る。「別に普通。普通に葉月が走っていただけ」

「だよね」と葉月が軽く微笑む。「私も、自分で走ってて『あれ、いつも通りだぞ』って思ってた。やっぱり、都市伝説は都市伝説に過ぎないってことか」

「春ちゃんが言っていた都市伝説を、葉月はどこまで信じてる?」

 木々がざわめく音がする。ちょうど前を通ったテニスコートでは、揃いの黒いジャージを着たテニス部員が集まり、円になって屈伸運動をしているところだった。第二グラウンドがあるのはテニスコートの先だ。

「どこまで、か。話の中にあった『陸上部員が浮いた』ってところは信じざるを得ないなと思う。第二グラウンドで自主練をすると足が速くなるってところはどうせこじつけだろうけどさ。自分はもっと速く走れるって思ったら頑張って練習するだろうし、練習すれば少しずつでも成長するだろうし」

 今日は陸上部の練習は休みらしい。まさに都市伝説と同じ状況だ。陸上部以外に第二グラウンドを使っている部活動はないのか、そこにいたのは三名の生徒だけだった。二人が走り、一人が立ったままタイムを読上げる声が聞こえる。三人とも派手な色の靴を履いていた。

おそらく陸上部の生徒だろうが、格好だけでは断定できない。春子が部屋着にしていたような、「陸上部」と書かれたTシャツを着ていてくれたら分かりやすいのだが、自主練習の日だからか、彼女たちの服装はバラバラだ。

 由希は道と第二グラウンドを隔てる緑色のフェンス越しに、彼女たちの動きを眺める。

葉月もフェンス越しにグラウンドを眺めていた。「私たちの身に起こったことと、春子が言っていた陸上部の都市伝説の辻褄を上手いこと合わせるならば。その都市伝説に登場する女子生徒が本当に存在していて、その生徒もこのキャンディーを口にしたと考えるべきか」

由希は自身が持つ瓶に目を向ける。瓶にはあと三本のキャンディーが入っている。「その生徒が何回も浮いているところを目撃されていたのは、その度に、その生徒がキャンディーを食べていたから?」

「そうだね。でも、そうなると一つおかしな点が出てくる」葉月が断言した。

 おかしな点は一つどころじゃないと思うが、由希は余計なことは言わずに葉月の推理に耳を傾ける。

「そのキャンディーを食べたら体が浮いたじゃん? それで口から出したら体は沈んでいった。その後、何度口に入れてもその効果は現れない。しかも一本食べ終えた私の足は速くはならなかった。つまり、キャンディーを食べながらじゃないとその効果は得られないと推測できる」

由希は相槌を打ちながら話を聞く。

「でもさ、走りながらキャンディーなんて食べるかな? しかも棒付きのキャンディー。走る時には腕を振るでしょ? ってことはキャンディーの棒を手に持ってはいなかったということ。手に持たずに口にくわえていたとしたら、口呼吸がしづらくない? 走っている時はただでさえ息が上がるっていうのに、そんな状態でまともに走れるとは思えないんだけど」

 確かに、葉月の言う通りではあった。というか、なぜ陸上部の都市伝説にはキャンディーが登場しないのだろうか。やっぱり、その「浮く」とこの「浮く」は関係がないのか?

「まあでも、それは陸上未経験者の私の考え。陸上部ならばキャンディーを食べながら快適に走ることができるのかもしれない。ここにキャンディーが三本、あそこに陸上部員が三人。実際にやってみてもらおう」

 葉月は由希の腕から瓶を抜き取った。それをそのまま持って、第二グラウンドの入口であるフェンスの裂け目に一目散に向かっていく。

「ちょっと葉月」由希は焦って葉月を追いかける。「それはさすがに、やめておいたほうがいいんじゃない?」

 そこで自主練習をしている生徒の誰とも、由希は面識がなかった。見ず知らずの人に対して「このキャンディーを食べたら体が浮くので、それで走ってみてもらえます?」とは言いにくい。

「そう? 断られたらそれまでだけど、言いに行くだけ行ってみても良くない? これがあの都市伝説の真実なんです、とか適当言っておいたら食いつきそうじゃん」

「それはそうだけど」

 由希はふと思った。春子はどうしてキャンディーを口にするのを断ったのだろうか。陸上部に伝わる都市伝説は、本当にあれだけだったのか。もしかしたら他にもあるのかもしれない。

 さっそく実験をしようと進んで行く葉月を引き止めることは諦めて、由希は別の提案をする。「キャンディーを渡すんじゃなくて、一回三人に話を訊いてみない?」

 第二グラウンドで自主練習をしていた三人は皆、由希たちと同じ学年の生徒だった。同学年といってもやはり面識はない。春子の友達だというと、彼女たちは快く話を聞いてくれた。

「その都市伝説ならもちろん知ってるよ」先ほどまでタイムを計っていた、ストップウォッチを首からかけた女子生徒が答えてくれた。

「それじゃあ、このグラウンドで自主練をしていて体が浮いたことはある?」

「ない、ない」葉月の問いかけに対して、彼女は大きく手を横に振る。そんなのあるわけないよ、と他の二人も笑っていた。

「浮いたことはないし、浮いている人を見たこともない」「その都市伝説の、体が浮くっていうのは比喩的な表現なんじゃないかな。浮いているみたいに、すーっと走っていったとか。そういうことだと思うけど」「でもさ、あれじゃない? この都市伝説、続きがあるよね」

 続き? 由希が訊ねると、彼女たちはそれを教えてくれた。

「陸上部は基本的にこの第二グラウンドで練習しているんだけど、練習の一貫でそこの庭を走ることもあって」陸上部員はフェンスの向こう側を指す。由希と葉月がここに来るまでに通ってきた道のことだろう。「都市伝説に出てくるその女子生徒が陸上部に在籍していた時代にも庭はあって、そこを走ることもあったみたい。その時、その途中で彼女が決まって姿を消す場所があったって」

「姿を消すって、どういうこと? 行方不明になったの?」

「いや、行方不明とかそんな大きな話じゃないよ。消えても結局は戻ってくるから大した問題にはなっていなかったみたいで。ただ、彼女が消えたその場所に、途切れることのない道があるんじゃないかって言われてる」

 庭のどこかに次元を越えた道があり、彼女はそこを走っていたのではないかということらしい。他の陸上部員が庭を一周するところを、彼女だけは同じ時間に一周以上を走っていた。それで足が速くなって、飛ぶように走れるようになったとも言われているようだ。

「その生徒が消えた場所って、具体的にどこ?」葉月が問いかけながら、キャンディーの入った瓶を由希に押し付けてきた。陸上部員にこのキャンディーを試しに食べてもらうことはやめて、都市伝説に出てくる彼女が消えたという場所に行ってみるつもりなのだろう。

「場所までは分からないや、ただそういう場所があるってことだけしか知らなくて」

 三人とも、その場所は知らないという。話を聞き終えた由希は、葉月とともにその生徒が消えた場所を探すことにした。

第二グラウンドを出発点として、庭を一周するように歩いていく。消えたということは、何かがある場所ではなく、何もない場所に入っていったということだろう。

由希は左右を見渡しながら舗装された道を歩くが、木々が深くて見渡すことはできない。茂みの奥に道があったりするのだろうか。

「どの辺だったんだろうね?」

「適当に、その辺りから道なき道を進んでみる?」葉月は、由希が目を向けていた茂みへ向かって、問いかけに対する由希の返答を聞くまでもなく進んで行った。

 由希は葉月を追いかける。

 生い茂る木の枝を避け、近寄ってくる虫を手で避けながら、どちらが前とも分からない状態で葉月の進む方向へ歩いて行く。足元は悪かった。歩く度に、靴の下で草や木が折れる音がする。

「葉月はさ、他に何か、この学校にまつわる都市伝説を知ってる?」

 上り坂に差し掛かり、由希は両手でバランスを取りながらなんとか坂を上っていく。なぜかするすると進んで行く葉月との距離は開くばかりだ。

「知らない、興味なかったからな。由希は?」

「わたしは」由希も葉月と同様に都市伝説には興味がなかった。

 でも、聞いたことがあった。

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