キャンディーは花園の中に
タマキ
第1話 学生寮の五号室
部屋の奥にある唯一の窓にかけられたベージュのカーテンを開けると、一番に目に入ったのは薄く雲のかかった青空と学生寮の庭に植えられた桜の木だった。開花にはまだ時間がかかりそうで、木の枝は少し寂しげに、期待の籠もったつぼみを携えている。庭は桜色ではなく、草木の緑色に満たされていた。
あの木が桜の木だということは知っているが、それ以外に生い茂る木々が何の木なのかは知らない。花粉症に影響がないということはスギではないのだろう。
「由希、そこの段ボール箱って余ってる?」
私立××大学付属××女子高等学校の学生寮、三階の五号室にて窓の外を眺めていた笠倉由希(かさくらゆき)は、ルームメイトに声をかけられ振り返る。
ドア上の壁に設置されたアナログ時計の針は、午前十時を指していた。学校のある日なら寮にはいない時間だが、春休みに突入したのが一昨日のこと。由希はルームメイトを叩き起こして朝から活動を始めていた。
「余ってる、使って良いよ」
ドア横の壁には、組み立て前の折り畳まれた段ボールがいくつか重ねて立てかけられている。あれは由希用に寮の職員室から貰ってきたものだった。由希の荷物は九割方まとまっているため、使ってもらっても問題はない。
むしろ、使ってもらわないと部屋が片付かないだろう。
ルームメイトの折田奏(おりたかなで)は段ボールを一つ引き寄せ、それを組み立てて底に同色のガムテープを貼る。ひっくり返して表向きにし、ベッド下の収納から溢れていた衣類を畳むことなく押し込んでいった。テキパキと、というよりも、手当たり次第適当に物を箱に入れていっているというほうが正しいかもしれない。運べればなんでも良い、ということなのだろうか。
長い髪を邪魔そうにしながら、作業を進めていく。
くしゃくしゃのまま入れられた衣類は空気を多くはらみ、すぐに段ボール箱はいっぱいになる。その上から無理矢理、さらに服を詰め込んでいく。由希の足元に置かれた別の段ボール箱内で雪崩が起きた音がしたが、奏は気にしていない様子だった。
××女子高等学校の学生寮は、歴史のある寮だった。
西洋風のお屋敷のようなレンガ造りの外観と、隣接する広い庭。それだけ聞くと、まるでどこかの国のお嬢様たちが暮らす秘密の花園のような印象を受けるかもしれないが、その実、ただ古いだけである。
建物自体は、所々壊れていたりするけれど、なんとか補修して今も使っているという感じで、庭があるというのも、山を切り開いた上に寮が建てられているからであって、その庭も庭園というイメージからはかけ離れたものだった。どちらかと言えば木々が生い茂る林に近い。
学校のホームページやパンフレット上で見る寮は綺麗だったが、あれは実際とは異なるイメージ画像に過ぎないのだ。イメージに騙されないほうが良い。外観のお洒落さと機能面の優秀さは比例しないということを、覚えておいてもらったほうが良いだろう。
学生寮は四階建てだった。一階には食堂や大浴場といった共用の設備があり、二階に一年生、三階に二年生、四階に三年生がそれぞれ暮らしている。学年が上がるごとに、階が上がるシステムだ。
そのため、毎年三月に部屋移動をするというのが恒例行事となっていた。次の春から三年生になる由希たちは、春休み中に三階から四階に移動する必要があった。由希はいつでも移動可能な状態だったが、奏はというと。
現在進行形で、その作業中だ。
一年間使った三階の五号室の荷物をまとめ、掃除をし、四階の五号室に完全移動する。そこまでを今日中にやってしまいたいところだが、さすがにそれは難しいだろうか。移動と掃除で、二日に分けたほうが良いか。
三年生の卒業式があったのは三月頭。それから、かれこれ三週間くらいが経過していた。
部屋の移動は上級生から順に行われる。三年生が卒業したタイミングで、二年生が三年生の部屋へ。その後に一年生が二年生の部屋へ。そうしてやっと、新入生が入寮できる。つまり、最高学年になる由希たちが部屋を移動しないことには、下の学年も移動ができないのだ。
これまでにも移動するタイミングはいくらでもあったが、今日こそは今日こそはと思っていたところ、今日まで先延ばしにしてしまった。
でも、もうそろそろ移動しないと本当にまずい。
入学式前には、新入生が入寮していないといけない。このままだらだら後回しにしていたら、寮には入れないまま入学式を迎える生徒が出てきてしまいそうだ。そのため、朝食の時間を過ぎても眠っていた奏を叩き起こして作業をしている。
段ボール箱に山盛りになった衣類を見て、「よし、服はこれでオッケー」と奏が独り言を口にした。星柄のベッドカバーがつけられた奏のベッド下、備え付けの収納ボックスからは衣類が全て出されていた。床に落ちていた洗濯したのかしていないのか見分けのつかない服もなくなっている。
確かに、服はオッケーだ。
「次は」、と奏が机の上に目を向ける。
縦長の部屋の、入って右側の壁に沿って木製の机とベッドが置いてあり、それらを奏が使っていた。一方、入って左側の壁沿いに置かれている机とベッドは由希のものだった。机とベッドの位置に合わせて、部屋の右半分を奏のスペース、左半分を由希のスペースとしている。
奏の机の上には、教科書やプリントやら何やらが山積みになっていた。不安定に積み上げられたそれらが形を保てるはずもなく、数日前の深夜に土砂崩れがあってから、床にもプリント類が散乱していた。高校二年一学期の中間テスト、国語の解答用紙が一番上に落ちている。六十七点と書かれた赤ペンの文字は滲んでいた。
一応、由希のスペースには浸食しないようにと気は遣ってくれているらしい。荒れているのは主に部屋の右半分だった。
「あ」由希は思わず声を漏らす。
奏が英語の問題集をどかした後の床の上に、赤色のボールペンが転がっていた。由希はそれを拾い上げ手渡す。
「また出てきたよ、これ」
「本当だ、ありがとう。赤ペンないなって何回も思ってたんだけど、校舎でなくしたわけではなく、まさか部屋にあったとは」
ボールペン内の赤いインクは十分に残っていた。捨てるにはもったいない。まだまだ使えるものだ。
「これで何本目だっけ?」
「十二本目」奏はここまでの間に発見した赤ボールペンを手にとって、扇のように広げて見せてくれた。
由希は笑う。一年間で十二本だ。一ヶ月に一本ペースで奏が無くしていた赤ボールペンが、今になって一斉に姿を現した。一体どこに隠れていたのか。物が散乱した奏のスペースには赤ボールペンが隠れる隙間はいくらでもあり、検討がつかない。
これで向こう一年間は赤ボールペンを買う必要もないだろう。
わざわざ、学年が上がるごとに部屋を移動しなくても良いだろうと思うこともあったが、それで手をつけられなくなるほど汚くなった部屋が過去にあったのだろう。由希にとっては想像に易い。一年ごとに部屋移動があるからこれで収まっているものの、仮に三年間同じ部屋だったら、卒業時にはこの三倍の荷物が散乱していることになる。三十六本だ。
「使わないものは、定期的に実家に持って帰れば良いのに」
「ええ、面倒じゃん。片付けるのも面倒、実家に物を持って帰るのも面倒。だったらそのままにするのが一番良い」奏は自信ありげに親指を立てる。
「分かった、分かった」
奏とは違い、九割の荷物をまとめ終わっている由希はやることがなかった。残りの一割も、机の一番下の引き出しにストックしているお菓子と黄色い花柄のカバーをつけた布団だけ。わざわざ段ボール箱を組み立てなくとも、お菓子も布団も、抱えて四階に運べば事足りる。
由希は少し移動し、部屋の奥にあるドアを開けた。
二人で一部屋のこの寮には、各部屋に洗面台と簡易的なシャワールームがあった。トイレや洗濯機は共用だ。用があるのは洗面台のほう。
由希は洗面台の蛇口を捻る。流れ出てきた冷たい水で手を洗う。ついでに鏡を見ると肩上で切り揃えられた髪には寝癖がついていた。手で押さえてみるが、そんな力には屈しないとばかりに跳ね上がってくる。水を付けてみたが、意味はなしだ。
まあ良いか。
別に見ている人もいないだろう、気にしない、気にしない。
寝癖はそのままに、由希は蛇口を捻って水を止める。洗面所を出て部屋を見ると、床に置かれた段ボール箱の数が今朝より増えていた。片付いてきた証拠だ。
「由希はもう移動の準備終わってるの?」
「あとはお菓子と布団だけ。それ以外は全部段ボール箱に入れてまとめたから、いつでも移動できるよ」
寮には当然のようにエレベーターはなく、各階を移動するには階段を使うしかなかった。重い荷物を階段を使って一人で上の階へ運ぶのは大変だ。だが、一人では運べない荷物も、二人でなら運ぶことができる。
「早いなあ」
「わたしが早いんじゃなくて、どっちかと言うと奏が遅いんだって。葉月と春ちゃんも、かなり前に移動し終わってるし」
由希は隣の部屋を使っている桐谷葉月(きりたにはづき)と川上春子(かわかみはるこ)の名前を出した。それで奏が焦るとも思えなかったが、言っておいて損はないだろう。
「あの二人、去年も早かったよね? 移動するの」
「そうだね。葉月も結構マイペースだけど、奏とは逆で先に先にと動くタイプだから。春ちゃんは誰よりもしっかりしてるし。移動が遅れる要素がどこにもないって感じかな」
「凄いなあ。むしろ、私には遅れる要素しかない」奏が壁に貼っていた少年漫画のポスターを剥がす。五人のスパイがメインキャラクターのバトル漫画だ。ポスターには、その五人が立ち並ぶ様が、前方斜め上からの角度で描かれていた。奏はその漫画が好きらしいが、由希は読んだことがない。
それはさすがに大切なのか、ポスターはくるくると丸められ机の上にそっと置かれた。段ボール箱には入れることなく個別に持っていくつもりだろう。その後、部屋にあるものをどんどん段ボール箱に入れていく奏の背中を一瞥してから、由希は三階の五号室を出た。
階段を上って、四階の五号室を目指す。三月頭に三年生が卒業してから、空のまま、そのまま残されていたその部屋がこれから二人の生活する部屋となる。三階の五号室の真上の部屋だ。そこには物がなく、しばらくの間誰も生活していなかったとはいえ、先輩がいなくなってからは掃除がされていなかったはずだから埃まみれになっている可能性もあった。
もし汚れていたら、物を運び込む前にある程度掃除をしておいたほうが良いだろう。 奏は気にしないだろうが、由希は少し気になってしまう。
焦げ茶色の木でできたドアの横に掲げられた部屋番号を確認してから、金色のドアノブに手をかける。鍵はかかっていないはずだった。というか、寮生は基本的に部屋に鍵をかけていない。
由希は閉じられていたドアを押し開けた。
ドアの先にあったのは殺風景な空っぽの部屋だった。右の壁と左の壁に沿ってそれぞれ木製の机と布団の置かれていないベッドがあり、入って正面にある窓にはベージュのカーテンがかかっている。三階の五号室と同じカーテンだ。広さも配置も前の部屋と変わらない。部屋の奥にはもう一つドアがあり、洗面台とシャワールームがあった。この辺りも変わらずだ。
四階の五号室は、思っていたより綺麗だった。軽く掃除機でもかけておいたら、これから暮らすには十分だろう。
由希は部屋の奥まで進み、窓際に立ち、カーテンを開けてみる。
目に飛び込んでくるのは青空と、庭の桜の木。青空の中を左から右に鳥が飛んでいった。三階から四階になったため少しだけ良くなった景色を眺める。
三階よりも空が近く、遠くまで庭が見渡せた。
窓から少し身を乗り出して真下に目線を落とすと、寮の横の道を、ピンク色の楽器ケースを持って歩いている生徒がいた。茶色一色のブレザーに、プリーツのある茶色のスカート。ブレザーの中には白いブラウスを着て、胸元にはオレンジ色のやや小ぶりなリボンをつけている。あれは××女子高等学校の制服、ここの生徒に違いなかった。ケースの形から、中に入っている楽器が何なのかを当てることは由希にはできない。
彼女の制服のスカートが、風でふわりと揺れていた。
由希は窓枠から体を離す。換気のために、窓は少し開けたままにする。その隙間から、やや肌寒いくらいの風が室内に入り込んできた。
部屋の角に置かれた三段の棚の一番下に掃除機がある。あまり収納がない部屋の、唯一と言っても良い棚だった。三階の五号室にもあったこの棚は、上段に奏の物、中段に由希の物、下段に共有の物を置いて使っていた。一番下を奏のスペースにすると、棚に収まりきらなくなったものが床に転げ落ちていくため、奏を上段にしたのだ。
今回も奏は上段で決まりだな。
由希は勝手に決めて、掃除機を手に取り床全体を掃除する。物のない部屋に掃除機をかけるだけなので、そんなに手間も時間もかからなかった。
掃除機の電源を切り、空っぽのベッドに目を向ける。三階の五号室では、部屋の右側を奏が、左側を由希が使っていたが今回はどうしようか。いっそ配置を逆にしてみても、新鮮で良いかもしれない。
奏に訊くついでに、布団だけ先に運んでおこう。
そんなことを考えながら、掃除機を棚の一番下に戻し由希は四階の五号室を出た。
由希が三階に戻った時、奏は机の下に潜り込んで物をかき集めている真っ最中だった。その背中だけが見える。
「四階の部屋だけどさ、どっちがどっちのベッドと机を使う? 一年から二年に上がる時には交換したよね。今回もそうする?」由希は顔が見えない奏に向かって問う。
「どっちでも良いよ」ややくぐもった声で奏は答えた。その動きは止まることがなかった。作業は驚くほどに順調だ。これなら予定通り、今日中に四階への移動が完了できるだろう。
どっちでも良いというのなら、どうしようか。
「じゃあ、入れ替えで」
奏の了承を得た後、由希は自分のベッドの上に置いてある花柄の掛け布団を畳んで、抱きかかえるようにして持ち上げた。「布団、先に持っていくね」と一応奏に声をかけて再び四階へ向かう。
掛け布団を置いて、また三階に戻り、今度は敷き布団と枕を持って四階へ向かったところで、六号室のドアが開いた。由希たちの隣の部屋だ。
顔幅くらいに開けたドアの隙間から、桐谷葉月がこちらを覗いていた。起きたばかり、というように顔が少しむくんでいる。
「やっと移動してるんだ?」
「奏がようやく、やる気を出してくれてさ」
「なるほど。足音するなって思ったのは正解だったか。誰だろうと思ったけど、そういうことね」目を擦ってから、葉月が六号室から姿を現した。黒い半袖Tシャツに、緑色のジャージの半ズボンという格好だ。その格好だとまだ寒いと思うのだが、どうなのだろう。
擦った目は、開ききってはいなかった。
「葉月は結構前に移動終わってたよね。もうすっかり片付いてる?」
喋りながら、由希は五号室のドアを開けて、抱えていた布団を置いた。敷き布団を敷いて、枕と掛け布団をセットして、花柄を伸ばすように何度か掛け布団を持ち上げたり降ろしたりする。
「片付いてるよ、もう四階で生活しているし。下の階の六号室には二年生が入ってるんじゃない?」葉月は五号室のドアに体を預けるようにして立つ。
「まだ入ってないよ」
「ああ、そうなんだ。もしかしたら由希たちに気を遣ってるのかも」
屈託なく笑う葉月に、由希は訊ねる。
「葉月って、今暇?」
「いや、これから二度寝の予定が詰まってる」
「それは予定がないってのと同じだよね。わたしたちの部屋の移動、手伝ってくれない?」
××女子高等学校に通う生徒のうち、寮に入っている生徒は明らかに少数派だった。部活動に真剣に取り組みたいから、自宅から通うには遠いからなど入寮の理由は様々だ。寮に入ったら卒業まで一回も外に出られない、というようなルールはなく、長期休暇には帰省する生徒もいる。今日も春休みということで、寮にいない人もいる。部活で忙しい生徒は長期休暇にもなかなか実家に帰れないらしいが、帰宅部である由希には無関係な話だ。
この春休みも、部屋移動が完了したら帰省しようと思っている。
葉月は由希と同じく部活に入っていなかった。いわゆる帰宅部だ。明確に「帰宅部」という部活動があるわけではない。だが、××女子高等学校には、一年生は何らかの部活に入らないといけないというルールがあった。
そのルールに則って由希は部活に入り、二年になったタイミングで退部して帰宅部となったのだが、葉月は入学当初から頑なにどこの部活にも入らなかった。生粋の帰宅部員なのである。
由希のルームメイトの奏も、葉月のルームメイトの春子も部活でそれなりに忙しくしている。一方、忙しさのかけらもない由希と葉月が一緒にいる時間は、自然と増えていった。葉月がどう思っているかは分からないが、由希は葉月のことを仲の良い友達だと思っている。
だからこそ、この状況で葉月が手伝いをしてくれるとは思ってもいなかったが、試しに訊いてみたのだ。
「面倒臭いから嫌」と、答えは一瞬で返ってきた。
「そう言うと思ったよ」由希は目を細める。こういう葉月の飾らないところが、割と好きだった。
「じゃあ頑張って」と葉月は六号室に消えていく。隣の部屋で二度寝をするというのなら、できるだけ静かに物を運ばないといけないな。
由希は階段を降りて、三階へと戻る。そろそろ奏も荷物をまとめ終わっている頃だろう。奏の部活は午後一時からだから、急いで荷物を運べば間に合うか。
五号室前に辿り着いた由希はドアノブを握る。
ドアを押し開けると、そこに奏はいなかった。
「逃げたな」
室内に奏の制服は残されていた。漫画のポスターが飾られていた壁にかけられたままだ。つまり、部活に行ったというわけではない。トイレにでも行っているのか、それとも。
奏の居場所に、由希は心当たりがあった。
まあ良いか。由希はふうっと息を吐く。焦るなということかもしれない。
部屋に散乱していた奏の荷物は、そのほとんどが段ボール箱に収められている。これなら奏が部屋に戻ってきてから続きをすれば、今日中に移動は完了できるだろう。
室内を見渡していたところで、由希の目に入ったものがあった。
由希の机の上にガラス瓶が置いてあったのだ。手のひらを広げたくらいの大きさの透明な瓶の中には、棒付きのキャンディーが入れられている。
なんだこれ。こんなもの、買っただろうか。
由希は不思議に思って、瓶を掴む。数を数えると五本のキャンディーが入っている。全て、桜のような薄いピンク色をしていた。色つき半透明の飴の部分は、光を受けてキラキラと輝いているように見える。
瓶をひっくり返して底を見ると、数字が書かれていた。賞味期限だろうか。二十・五と手書きの文字がある。五月二十日が賞味期限だとしても、それが何年の五月二十日なのかは分からない。
ラベルもなく、このキャンディーの商品名なんかもどこにも記されていない。買ったものというよりは誰かが作ったものなのだろうか。手作りキャンディー?
ともかく、これを由希の机に置いたのは奏だろう。
逃亡のお詫びとして置いていったのだろうか。詳しい話はあとで奏に確認するとして、由希は棒付きキャンディーの入った瓶をそのまま机の上に置いておく。
そうだ、ストックしているお菓子を先に四階に運んでおこう。
机の一番下の引き出しを開けると、そこに溢れんばかりにお菓子が詰まっている。チョコレートにグミにポテトチップスにクッキーに、甘さが強いものから塩っ気のあるものまで。寮の売店で購入できるお菓子は、全てここに揃っているはずだ。
由希はコツコツ買い溜めしていたそれらを一つずつ引き出しから出し、抱えて四階へ運んでいった。
由希が再び奏と顔を合わせたのは、その日の夕方のことだった。
お菓子の移動を完了し、昼食のために食堂に行き、部屋に戻ってきたら奏の制服はなくなっていた。由希が食堂に行っている間に、すれ違うようにして奏は部活に行ったらしい。
計画的な逃亡か、それとも偶然か。
奏の帰りを待ちながら三階の五号室で春休みの宿題をこなしていた由希は宿題を中断し、充電中だったスマートフォンのコードを引き抜いて床に移動する。布団は四階に持っていってしまったので、寝転がることはできない。
座ったまま動画サイトを開くと、動画が始まる前に広告映像が流れた。
漫画の広告だ。細身のパンツスーツに身を包んだ女スパイの体がふわりと宙に浮き、天井を蹴って地上に戻り、そこに集う敵を蹴散らすシーンが切り抜かれている。女スパイのコードネームはD。彼女の姿に焦点が当てられ、微笑む彼女がこちらを向いたところで、「コミックス好評発売中」と売り文句が流れた。
奏が読んでいた漫画だ、そう思いながら広告映像をスキップする。
しばらくスマートフォンを手にして動画を見ていた由希は、誰かが外からドアを開ける音を耳にして動画を止めた。
「ただいま」と部屋に入ってきたのは奏だった。
「おかえり」声をかけながら、由希は奏に目を向ける。
奏は頭に白いタオルを巻いていた。風呂上がりに、濡れた長い髪から水が垂れるのを防ぐように、髪全体をタオルで包み上げている。
部活に着ていったはずの制服は着ておらず、上下ともに体操服というスタイルで、脱いだ制服を鞄とともに右手に持っていた。制服のスカートは皺になっていそうだ。
「ああ」奏は力の抜けるような声を出す。「これ、どうしよう」
鞄と制服を机の上に置いて、まだ作業途中の箇所を指差した。部屋移動のため、荷物をまとめていた最中だったと思い出したのだろう。
由希は奏から視線を上にスライドし、壁にかかったアナログ時計に目を向ける。
時刻は午後四時すぎ。まだ夕食前で、寝るにも早い。時間は十分にある。
「今から作業の続きをする?」
「今からか」奏は若干嫌そうな顔をして小さく唸り、部屋全体を見渡していた。
由希は立ち上がり、スマートフォンを裏向きにして机の上に置く。そのついでに、空になった両手で、机の上に置いていたキャンディーの瓶を手に取る。
「これって奏のキャンディー?」
嫌そうな顔をしたまま、奏がこちらを向く。手元のキャンディーに目を落とした後、軽く首を縦に振った。「ああ、そうそう。欲しかったらあげるよ、どうせ私は食べないから」
「本当? じゃあ貰っちゃおうかな」
由希は瓶を少し上に掲げ、もう一度眺める。これも四階の部屋に持っていこう。
透明なガラス瓶の先で、奏が立ち尽くす姿が見えた。表情は相変わらずのまま、腕を組んで広がった荷物とにらめっこをしている。
由希は瓶を下げる。
目視で眺める奏は、渋々といったようにしゃがみ、足元にある物を一つずつ摘まみ上げるようにして段ボール箱に入れていった。それもつかの間、奏は手を止め、いきなり立ち上がる。「由希は、布団とか先に次の部屋へ持っていったんだよね?」
「うん」
「それなら私も」よいしょと、奏は星柄の掛け布団を抱えた。「先に、移動できる物から四階に運ぶことにする」
箱に入れても全く減る様子のない物に嫌気が差したのだろうか。奏は布団を抱えたまま、五号室のドアを開けっ放しにして部屋を出て行った。
そのままどこかに行ってしまわないと良いが。
出て行った奏は、すぐに戻ってきた。四階へ行って戻ってきたにしては早い。抱えた星柄の掛け布団はそのまま、持ったままだった。
「どうかした?」由希は訊ねる。
「やっぱり、先に頭を乾かすことにする」奏は布団を元の位置に置いて、部屋奥のドアに消えていく。しばらくすると洗面所からドライヤーの音が聞こえてきた。
由希はちらりと洗面所を覗く。
奏の長い黒髪が、ドライヤーから出てくる風で揺れ動いている。一方に煽られ、また一方に煽られ。強風の日に揺れ、葉音を立てる木々のような動きだ。足元には、さっきまで頭に巻かれていた白いタオルが、くしゃっと投げ捨てられていた。
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